現代版『聖中心道肥田式強健術』 肥田春充研究会 編
●研究の動機
私が、身をもって研究と実験を続けた結果、獲得した健康法の特徴を説明する前に、まず、その研究に入った動機を述べてみたいと思う。
私の一家は、不幸にして、ことごとく身体が虚弱であった。私は幼くして、母と五人の兄弟に先立たれ、長じて父と次兄とに死なれた。それに、母方の祖父母の死を加えると、実に前後十回の弔いにあっている。
この悲惨な出来事に出会って、長兄川合信水(かわい・しんすい)は、沈思黙考、翻然として信仰の一路につき、以後、多病の身を引っ提げて、人道の悪戦場裡に奮闘しつつある。
この病弱な家庭に生まれた私が、ひとり丈夫なはずがない。私もまた、危篤の重病にかかって、助からないという宣告を受けたことが二回ある。
このような難関を危うく逃れて、私は幸いにも生き残ることができた。しかしそれは、ただ生き残ったというだけのことであって、年中、風邪はひく。腸は痛める。頭痛はする。頻々として、病気のために犯されていた。
とても痩せこけていたので、友達からは『茅棒(かやぼう)』というあだ名をつけられた。骨と皮ばかりの体を見られるのが恥ずかしいので、風呂に入るときには、いつも逃げ隠れていた。
発育の不充分にともなう結果として、私の心もまた意気地なしとなっていた。春が来て、桜の枝に蕾を含み、野に若草が萌える季節になっても、外に飛び出し陽気に遊びたいという気は起こらなかった。独り、薄暗い部屋に閉じこもって、悲哀な小説や陰鬱な詩文などを耽読することを好み、いわゆる男らしい気性は全く無くなってしまった。
けれども、だんだん年をとって、自分の社会的運命を考えた時、私は愕然として、戦慄せざるを得なかった。「おまえは、そんな弱い体で、何が出来るのだ。ちょっと寒ければ、へこたれるような奴が、生きていて何になるのだ」この恐怖が、刃のごとく、私の心臓を貫いた。ここで初めて、私は体育ということに留意し始めた。このとき私は十八歳、しかも単に、病まないようにというような、そんな姑息な意気地のない考えではなく、強くなりたいという積極的欲求であった。
燃ゆるがごとき情熱で、まず解剖学、生理学を調べてみた。…強くなりたい。あゝ強くなりたい。
このようにして、人体の組織作用について、大体の事柄がわかった時、私は断じて絶望すべきでないことを悟った。
ことに、私に最も大なる希望と力を与えてくれたのは、細胞の新陳交換ということであった。人間の体は、紙や泥でできたものとは違って、絶えず活き、働き、かつ変化するものであるから、この生長発育の力を、よく導いたならば、いかに虚弱な者であっても、必ずこれを、改造一変することができるという確信を得たのである。
自分のように弱い奴は、十年かかって、やっと病気にならない位になれるであろう。十五年で、ようやく普通の体になれるであろう。しかし、二十年かけて、人並以上になってみせるぞ。
私は、嬉しさのあまり、独り村外れの寺の森に行った。中秋満月の夜で、杉の梢から、リュナが涼しい姿で覗いていた。富士颪は、ソヨソヨと袂に戯れた。それは、もはや二十余年前の昔のことではあるけれども、私の胸には、絶えず鮮烈な印象となっている。そして、当時の理想は、明らかに実現されているではないか。
中学を卒業してから、大学で、法科、文科、商科、政治科の各課目を修めながら、睡眠時間を割いて、世界各国における体育法、健康法を研究してみた。
一年志願兵として、近衛連隊にいた時には、消灯ラッパの嗚る時分、練兵場の森の中へ、ただ一人で行った。雨が降っても雪が降っても、必ず出かけていって、一心不乱に練修を続けた。
このようにして、二十有余年間、倦まず撓まず、真面目に、真剣に、誠心誠意をもって、実験と研究とを続けていった。その結果、しっかりとつかんだ体育上の根本原則とは何であるか。それを、項を重ねて説いていくことにする。
●強健術構成の方針と内容
私は、古今東西の有名な体育運動法を研究実行してみた。しかも私の希望は、最も完全な発達ということであり、かつ十年二十年を通じて、喜んで実行継続できる完全な方法を求めたいというのであった。
在来のものは、形が変わるだけで重複したものも多いし、解剖、生理、力学、幾何学等の理論に照らすと、不充分不完全な箇所も少なくない。
しだいに、新しい自己独特のものを案出すると同時に、体育上、幾多の原則を発見するに至ったのである。
人体の発育能力が、徐々に更新している以上、鍛練もまた合理的なものを、適度に、毎日継続して実行していかなければならない。すなわち、いかなる良法も、これを実行しなければ意味がなく、またその実行も、これを継続しなければ、その効果を収めることはできない。
継続ということは、体格体質の改造上、極めて重要なことであって、その点から、次のような条項が必要となってくる。
(一)運動練修は、嗜好的、娯楽的にできるよう、興味のもてる活気ある方法でなければならない。精神の入らぬような義務的苦役のものであってはならない。
(二)いつでも、どこででも、何の経費も要せずに、すぐにできる方法でありたい。
(三)相手を要せぬこと。
(四)場所を要せぬこと。
(五)方法の数が多くてはいけない。数が多いと、時間もかかり、忙しい時など、つい億劫で放棄しやすい。
(六)練修に、多くの時間を要してはならない。時間のかかることが、何よりも永続を妨げ、ややもすれば中断させ、ついには止めてしまいやすい。
以上は練修法の構成に関する方針であるが、その内容としては、次の八大条件を具備していなければならない。
(1)筋肉の発達
(2)内臓の壮健
(3)皮膚の強靭
(4)体格の均整
(5)姿勢の調和
(6)動作の敏活
(7)気力の充実
(8)精神の平静
これらの諸条件を具備するよう構成したのが、いわゆる「肥田式強健術」である。
これはすべて、解剖、生理から見て、合理的な形式をとっており、また動作は、力学、幾何学の法則に従って、最も正しい形を作り、最も有利な力の使い方をするのである。しかも、方法は十種類、時間は数分に過ぎない。
(1)筋肉の発達
私は、幾多の研究を重ねた結果、身体各部の主要筋肉に、最も自然な方法で、個々別々に運動を与え、一つ一つ、その発達を促すことが、最も有利であることを確かめた。それは、次の各種関係に基づくのである。
@骨格の構成
A筋肉の組織
B内臓器官の位置
C血液の循環
D神経の作用
たとえば、左右の手に各十キログラムの鉄アレイを持ったとする。交互ならば、容易く頭上に挙げ得るが、同時ならば、挙げることは大変である。
これは、同時であると、肩甲骨の働きを相妨げ、三角筋の運動は窮屈となり、内臓器関は圧迫を受け、血液の循環は阻止され、神経の作用も鈍くなり、したがって、精神の集中も不充分となるからである。
したがって、一筋九分の緊張に対して、中心力十分の割合をもって鍛練し、目的以外の筋肉は弛緩させる。
(2)内臓の壮健
私の内臓強壮法は、いわゆる「腹胸式呼吸法」である。まず、枕なしに仰向きに寝て、身体全部の筋肉を静止休養させる。そして、内臓器官ばかりを運動させるのである。
すなわち初めに「腹式呼吸」によって、横隔膜操練法を行い、横隔膜の上下運動で、心臓、肺、肝臓、胃、脾臓、腎臓、腸等に運動を及ぼす。また、腹部諸神経に機械的刺激を与えて、その働きを敏活にする。
更に、横隔膜の緊張圧下により心臓に余裕を与えて、これをゆるやかにし、また肺底を充分に膨張させて、自然肺量の増進と肺の強壮とを最も有効にする。
なお、もう一つの重大な働きは、横隔膜の圧下と腹筋の緊張により、血液の循環を盛んにし、腹部に滞っている静脈血を勢いよく心臓に押し戻すことである。
次に、肋骨を拡張して、肺の操練すなわち「胸式呼吸」を行い、肺組織に吸収する酸素の量を最も多くして、肺量の増進を図る。
つまり、腹式胸式を併せ行って、内臓の壮健を企てたのである。
(3)皮膚の強靭
胃と脳とは、迷走神経によって連なり、密接な関係を持っている。脳と神経とは、同一系統のものであるから脳の健全な神経衰弱者というものはない。同時に、神経衰弱者にして、胃腸の強健な者も多くはない。
皮膚の機能の悪い者は、胃腸の働きが鈍く、神経の作用も弱いものである。
強硬摩擦を以て皮膚を鍛え、それによって毛細血管の働きを盛んにすると、知覚神経の末梢器たる触覚小体の機能は敏活となり、神経は強くなる。また、胃腸の働きも良くなる。
摩擦は、表皮を強靭にするばかりでなく、皮下脂肪の過度につくのを防ぎ、呼吸、排泄、体温の調節、触覚の作用等を順調にする。
私は毎朝、亀の子ダワシで、顔から足までこする。息を吐くごとに中心力を作り、皮膚を逆にこするのである。
(4)体格の均整
いかに、頑強な筋肉を持ち、壮健な内臓があっても、体全体の調和と釣り合いがとれていなければならない。
理想的完全な体躯としての条件には、強健美とともに体格美をも併有することが必要である。
そこで、中心力を基礎とし、主要筋肉、個々の鍛練法を応用して、発達不全の個所には、特に多くの緊張ならびに刺激を与えて発育を促し、全体の美しさを得るよう努めた。
(5)姿勢の調和
体格の釣り合いと姿勢の調和とは、似ているけれども同一のものではない。整った体格を持っていても、姿勢の悪い人はいる。
整った姿勢とは、何も手足を揃えて人形を立てたようにすることではない。すなわち、姿勢の正否は、中心=腰と腹とが正しい形にあるかどうかによって、分かれるものである。
腰と腹とが正しい形とは、「人体の物理的重心が、支掌底面の中央に落ちて、腰と腹とが等分の緊張した姿勢」である。
このようにすれば、物理的に最も安定した姿勢となり、内臓の諸器官は、最も自然な位置をとり、いずれの部分も圧迫を受けることがないから、生理機能が、最も順調に行われる。
武術、遊芸その他一切の動作は、それが熟達すれば、中心は自ら調い、中心が調うと、腰と腹とには、等分の力が入ってくるものである。
しかも、千変万化に対応する活機を備え、かつ真に、静穏なる休養の妙諦が宿る。そして、姿勢は目覚めるばかりに美しくなる。
この姿勢を以て演壇に立てば、火のごとき雄弁が、自ずから中心より迸る。朗々たる力強き音声も腹底よりわき出る。
デモスゼニスが「雄弁の秘訣は、第一姿勢である。第二姿勢である。第三姿勢である」と言ったのは、この辺の事を喝破したものであって、私は多年の経験により、姿勢と雄弁との関係を悟り得た。
要するに、腹は上体を司り、腰は下体を治める。堅実は腹にあり、敏捷は腰にある。美しい姿勢は、中心に伏在するのである。
(6)動作の敏活
内臓が強壮で筋肉も良く発達して、かつ体格の美しく調った者であっても、その動作が鈍かったら、体育の目的から見て、いまだ充分なものとはいえない。
動作を敏活にするということは、結局「脚」の問題に帰着する。ボクシングの三大要件として、腕力と耐久力と敏捷とをあげ、特に脚の働きの敏捷を最も尊ぶ。
千変万化の境に応じて、体をかわし、敵の虚をつくのは、どうしても敏活な脚の働きに待たなければならない。もっとも、脚といっても、それは腰から出るのであるが、腰が据わるというのは、またこの脚の力によらなければならない。すなわち、真の脚の力というものは、中心力に連なったものでなくてはならない。
そして、脚を敏捷にするのには、踵を活かす。踵を活かすのには、爪先を確りする。爪先を確りするのには、足の拇指に力を入れる。すなわち、動作の敏捷は脚に潜むものであって、その発する所は爪先であり、それを司るのが腰である。
ところで、更に私は、脚の働きを腹筋の緊張に利用すれば、最も自然に中心力を造ることができることを見出した。これについては、他の項で説明する。
(7)気力の充実
以上述べた各種の条件を実現するために、日本武道の精髄である「気合」をもって終始しなければいけない。気合は、気力の最も充実したものである。動の最高潮であり、また有の最極限である。けれども、それはまた一面「無」である。零である。
虚無の大気迫大精霊が、丹田に活躍して宇宙の心と契合するもの、これすなわち気合である。
さて気合とは、腰を据えて気海丹田に力を込めることである。「腰と腹との力」であり、解剖学的にいえば、「腹直筋の緊張…および椎骨と仙骨との接合点の反折」である。
すなわち、横隔膜の操練によって腹部諸器官を圧下するとともに、下腹筋肉を緊張させ、腰を落として、臍下のところに自ずから力が入るようにするのである。
もちろんこれだけでは、まだ「気合」の全体ではない。けれども、その最大条件であり、またその根底となるものである。これを体育のうえで応用した場合、私は「中心力」の三字をもって説明する。
さて、運動の効果を収めるのには、三つの条件を守らなければならないと聞いた。
一、運動の合理的なこと。
二、運動を継続すること。
三、運動に精神を集中すること。
一と二とは、説明を要しないだろう。ただ三については、その言葉が抽象的であって、はっきりしない。雑念を去って無我無心にならなければならないとか観念の統一が第一であるとか言うが、まだ具体的ではない。
私は、筋肉緊張法のうえから、「中心力」を応用した、ときに、この精神上の問題を解決することができた。
腹筋の緊張もしくは緊縮の場合には、必ず横隔膜の圧下を伴う。横隔膜の圧下は血液の循環を盛んにし、また直接心臓に余裕を与えるから、自然、元気の充実を覚え、精神が安泰になって、物に応じ変通自在の妙を得ることができる。
この気合、すなわち中心力発動の修練は、無我無心となって、種々の思想や観念を排し、腰と腹とに等分の力を入れなければならない。しかしながら、始終極度の力を入れることは困難で、ほとんど不可能な事でもある。強いてやれば、いたずらに疲労させるばかり、身体エネルギーの大不経済でもある。
この最も有力な方法としては、運動を閃電的にやって、この中心にもまた閃電的に最大緊張を与えて、充分に鍛練すればよい。そして平生は、別に中心力を造らず、ただ身体の物理的重心が、支掌底面の中央に落ちるよう正しい姿勢をとったらよい。
「中心力」は、これ武術の精華、健康の極致、無念無想の妙諦、心頭滅却の奥義、一切衛生の根本、新元気迸出の源泉、病魔撃退の熱火、すなわち処世の一大秘訣である。
生理、解剖、力学を基礎として構成した運動形式を「中心力」をもって実行する。これ、実に私の運動法の生命である。また、その一大特長である。
練習回数を少なくすることができたのも、速度を利用することができたのも、僅少の時間しか要しないのも、みなこの「中心力」のためである。
「中心力」をもって運動をやれば、回数を多くし、時間を永くやる必要は、断じてない。
(8)精神の平静
精神を平静にするためには、まず肉体を安静にしなければならない。そこで肉体を安静にするために、自然体をとる。
自然体とは、真の安静姿勢である。真の休養姿勢である。自然そのままの姿勢である。
この宇宙の大自然を投影した精神が、私のいう「自然体」である。ここに妙あり。禅あり。秘密あり。ただし、戒めるべきは放心である。散漫である。放心散漫は、恬淡虚無の心ではない。
放心は、鈍愚である。散漫は、ボンヤリである。そこには、何の精神気迫もない。精神気迫なくして、丹田に何の力があるだろうか。丹田に力なくして、運動に何の生命があるだろうか。
軟らかにして、しっかりした心と体、これが真の「自然体」である。それには、ただ中心の姿勢を整え、すべての筋肉に休養を与え、極めて楽な自由態度をとる。すなわち「静の極」である。
この自然体に身をおいて、一度気合を込めた運動に移ると、急激かつ極度の緊張を筋肉に与えるのであって、このときは、すなわち「動の極」である。
自然体にあっては、敵に投げつけられて、なお怒らず、うらまずの態度であり、運動に移るや、命を賭けてかかる気力でやらなければならない。
言葉を変えて言えば、全力を注ぐときの準備姿勢は、極めて気楽な自然の態度でなければならない。
すなわち、「静」より「動」に、「動」より「静」に、休養と活動とを交互にやって、しかもバラバラにならない。一体となって、スキのできないようにする。動静が相融合して、まったく虚無に帰し、いわゆる貫くに一の道を以てするのである。
●動静一致の具体的方法
基本姿勢は、自然体であって静の極であり、運動姿勢は、気合を込めて動の極である。自然体のときにボンヤリしたり、気合を込めたときに固くなったりしてはならない。
つまり、静のとき静を感じず、動のとき動を感じないようにしなくてはならない。
すなわち、心理状態は動静一致、虚無でなければならない。こう言うと、とても抽象的で難しそうであるが、これを具体的に実現して、その目的を達成するのに極めて簡単な手段方法がある。それは、「瞳光の不睨(どうこうのふげい)」ということである。
眼は元々、最も敏捷な精神の使者である。外来の刺激は眼から入って、直ちに精神を衝き、精神はまた眼という門を通って、たちまち放散する。であるから、精神の定まらない人、心に危惧不安の念を抱いている人は、始終瞬きを早くする。
試みに、反対の証拠を得たいと思うなら、少し瞬きを早くしてみると、すぐに分かる。精神は、たちまち不愉快となり、目眩がする感じになる。
また、眼は開けば色相に妨げられ、閉じれば雑念妄慮起こるといって、古来仏者も眼の使役には苦心したものである。
これを逆に考えると、眼を自由に使役することによって、反対に精神を自由に支配することができるということでもある。
瞳光の不睨というのは、両眼を見開いて瞳孔を拡大し、視線を定めるのである。視線を定めるとは、一定の箇所を見つめたり、睨みつけたりするのではなく、眼より水平の正面に目標をおき、その目標と眼とのほぼ二等分点のあたりに視線を定めるのである。
すなわち無限大の空間を眺めて、視界視野を広くするのである。こうすれば、精気自ずから下腹丹田に潜み、邪念去り、妄想起こらず、魂までも澄み渡る。
空々乎として、われ在るがごとく、無きがごとく、果ては、運動そのものをも超越してしまう。ただ、空虚である。ただ、充実である。
ある有名な武術家が、苦心惨憺の末、心気を取り静める秘訣は「グッと、気を呑みこむにあり」と悟ったそうであるが、私はどうしたら、最もよく「グッと、気を呑みこむ」ことができるかと考えた。
それは、腹筋と頸部筋肉とに力を込め、グッと首を上げながら視線を決めるのが、一番であることを了解した。
瞳光の不睨は、心気を静める手段として、最も簡易な方法である。
まず、首を伏せたまま、ポーッとボンヤリ起立する。そして腰を据え、呼吸を調え、腹にウンと力を込め、首をグィッとあげて、正面に向かうとともに、キッと眼光を放って視線を定める。そして、徐々に自然本体を整えるのである。
私の経験として、広い場所でやる時などは、両眼から電光のごとく、わが精力の迸射するのを感じるのであって、この時においては、一切是非善悪の念もなく、乾坤一擲(けんこんいってき)の新元気が、体の中に充ちるのを覚える。
この時の眼は、ただ「見開く」と言っておく。恐れず。誇らず。考えず。眼は青く、涼しく、赤子のそれのようでなくてはならない。すなわち、中心に連なった眼光でなくてはならない。
一切を放擲して、眼清澄み渡る時、精神の中心は自ずから人体の物理的中心に潜み、ここに強大なる中心力が生じる。
瞳光の精練は、自然体と気合とを一貫する流れであり、肉体と精神とを連結する鉄鎖である。すなわち、これ、中心生命に活きる第一門である。
では、人体の物理的中心とは、どこだ? 中心力とは何だ? 中心生命とは何だ?
●人体の中心とは、どこだ
肉体が物理的に重心の安定を得るところ、それがすなわち中心である。その中心に向かって、力学的無形なる球状の圧迫力を作ること、これすなわち中心力である。それに全精神全霊魂を集中統一させることによって、中心生命は活きてくる。
スイスの大哲学者にして大宗教家であったアミエルは、その残した日記のなかに、生命の中心ということを言っている。生命の中心に触れない思想、感情、哲学、神学が、宗教上、無意義無価値のものであるように、中心を基礎としない肉体の鍛練もまた、労多くして効果極めて薄弱である。
さて、身体の中心とは、体のどこであるか? 幅も厚さも長さもない、その位置だけある一点とは、どこであるか? 上体を真っすぐにし、椎骨と仙骨との接合点に力を入れて反り、体の重さが両足の中央に落ちるように姿勢をとる。次に、仙骨の上端と臍とを結び付ける。そうすれば、その直線は、地平に対して平行となる。
鼻柱と胸骨の中央から、地平に対して、垂直線を下す。先の直線と臍のところで、直角に相交わる。仙骨の上端と腹腔前方下部、恥骨縫際(ちこつほうさい)とを結ぶ。そこに直角三角形ができる。その各々の角を、二等分した直線を引く。三線は一点で交差する。その点が、すなわち、人間の体を一ツの物体と見た場合における重心―重点の存するところである。ゆえにもし、その人間の体格が完全無欠のものであるならば、鼻柱と胸骨との中央を通過して、この点を含むところの平面は、その体重を二等分するとともに、全く相等しき二つの相似形を得ることができる。
その点を円心として、先の直角三角形に内接した円をかくことができる。腹の前方における所の接点=円周が垂直線に接した点=それがすなわち、古人のいわゆる『気海丹田』の位置になって、臍下およそ一寸三分(約四センチメートル)のところになる。円を標準として、腹の中に球を想定する。中心力を作ると、球の表面から、球心に向かい、同一量の圧迫が生じる。この球というのは、力学的無形のものである。
球の前方は腹直筋、側方は外腹斜筋、上方は横隔膜、下方は恥骨、後方は脊髄と腸骨である。
両足を直角に踏み開いて立ち、両足の中心線(爪先の幅を二等分した点と、踵の幅を二等分した点とを結びつけた直線)を後方に延長して、直角に相交わらしめ、両足爪先を結びつけて直角三角形を作る。その各辺を、二等分した直線を、その相対する角に結びつける。三線が一点において交差する。球の中心にあったところの重心は、この点に落ちる。この点と、球心とを結びつけた直線は、垂直である。球心が、この点に落ちない姿勢だと、腰と腹とに、等分の力が入らない。すなわち正しき中心力が生じない。
この中心力を、正しく完全に造る第一の秘訣は、下脚を地平に対して垂直になる程度に、両膝を曲げることである。それにつれて、上体は、そのまま垂直に下がる。上体は常に柔軟。この時、体の重さが両足裏に平等に落ちるのである。
天地正大の気、粋然として、この中心に集まる。
●力の比例により過激の問題解決
運動を急激にやって良いか悪いかという事は、運動家、体育家の間で、久しく問題となっているところである。一動作、何秒を超えることは許さないなどという制限を設けたものさえある。これには、一応、理由がある。たとえば、腕にばかり力を入れて無闇に振りまわせば頭がグラグラして、眼が眩んでくる。腕もまた、すぐに疲れてしまう。鉄亜鈴とかこん棒とか、すべて重い物を持った場合において、生理上の害は一層はなはだしい。
では、なぜ私が運動を、ことさら急激にせよと言うのであろうか。それは、私が始終、中心力=腰と腹との力を根本としているからである。
多くの運動は、中心力を顧みない。したがって、身体の安定が、とれていない。軸となるべきところを忘れて、一局部に傾いて急激に運動するから、内部機関に振動を与え、脳髄を衝いて生理上の害を受けるのである。
したがって腰と腹との緊張を第一要件とし、しかる後に、運動を急激にしたならば、元気が充ち、体育上に効果を収めるとともに、精神上にもまた、無限の妙趣を味わうことができるのだ。速度に制限を加えたり、少しばかりのことを過度として憂慮したりするものは皆、運動を中心力でやることを知らないからである。
もしこれを推して、柔道、撃剣、槍術、薙刀等の武芸にまで速度の制限を加えたとしたら、どうか。そうしたら、敵の虚をつき、実に当たり、それによって対者を倒すということが、できなくなるだろう。
機械体操の技のほとんどすべては、速度を利用して動作するのでなければ、うまくできない。野球も庭球も、またボートも、みな同じである。
急激な運動は、すべて害ありとする論者に向かって、私は中心力の問題を提供したいと思う。すなわち過激とは、力の量の問題および運動の速度の問題ではなくして、力の比例―中心力と部分力とが、正しい比例をとっているか否かの問題に帰着するのである。
私は、この一事を会得し、急激なる速度を運動に応用することによって、筋肉を著しく発達させることができた。また精神は生き生きとし、動作は敏捷にして、かつ時間をも節減することができた。
これ私が、中心力十分、部分力(各主要筋肉)九分の緊張をもって、運動を行う理由である。中心力が部分力に勝っていれば、どんなに強い力を使っても、どんなに激しい運動をしても、過激の問題は絶対に起こらない。
●最強の中心力と脚
私は、中心力が私の運動の根本であることを述ベた。そして中心力は、腰を据えることと、腹筋の緊張とによって完全にすることができることも語った。
次に中心力が、足の働きによって、最も強くすることができ、動作に韻律的調和美を発生させる根源ともなることを述べよう。
さて、足の働きとは何か。ほかでもない。踏み込みと踏み付けである。踏み込みは爪先でやり、踏み付けは踵でやる。踏み込みは敏捷を司り、踏み付けは強固を司る。ここで、踵の踏み付けによって、最強の中心力を造るということを述べる。
一方の足の爪先を、正しく外方に向けて踏み付けると、踵は床に当たって一の衝動力が生じる。この形で踏み付けると、最も強い衝動力が生じるから、その力の量を とすると、爪先を前方に転じるにしたがって、踵に生じる衝動力は、9876と正比例して減少し、爪先が正面に向くと、その力は半減して5となる。さらに、内方に転じるにしたがって、4321と減少し、百八十度転回すると、踵に生じる力は0となる。
十八度の転回角度ごとに全量 に対して1の力が生じ、あるいは減じるのである。踵の力が0になったところから、更に内方に転じると、衝動力はマイナスになる。マイナスになるとは踵が浮く事である。これもマイナス1マイナス2と減っていって爪先で立つようになる。踵に生じた衝動力は、アキレス腱、腹筋、大腿二頭筋を通じて、腹筋に響いてくる。この瞬間、他方の脚を上げると、上体の重さが腹筋に落ちてくる。これを重量とみる。下から行った衝動と、上から来た重量とは、一直線となる。そして腰と腹との中央にある中心点でぶつかりあう。この速度と重量との相乗積が、一つの力となる。この力が、生理的に働いて、横隔膜の圧下、腹筋の緊縮力となる。そして、中心力を造る。
こうして生じる力の量は、その人間の体重の六割ないし八割の物を持ち上げることができるほどの力である。私は、この力によって、厚さ一寸(三・〇三センチメートル)ある道場の板を、ボクッと、足の形に踏み抜いたこと、しばしばである。この強大な力を根底として、身体各部の主要筋肉に向かって調和した緊張を与えるのである。その緊張力の比例は、中心力1、主要筋肉9の割合にしたら良いことは、前に述ベた。
同一角度における踵の踏み付けの強弱は、腹筋の緊縮力の強弱に正比例する。すなわち、同一位置における踏み付けの強弱は、中心力の強弱に正比例する。この強大な中心力を拵えたうえに、眼光を定め、呼吸を調え、精神を集中して、身体の各部に合理的鍛練を施すのである。かくして、一挙一動、生命力をぶち込んで行うのであって、多くの時間を要しない第一の理由は、ここにある。
踵と中心力との関係がわかると、古人のいわゆる『踵を以て息す』の意味が面白くなってくる。非常に興奮した時には、足に力が入ってくるのみならず、ジッとしていられなくなって起ち上がる。これは、相撲や芝居や演説会などで、しばしば見ることであって、この立ち上がる力は、感情の強弱と正比例するものである。
この道理を反対に行う。すなわち、合理的な脚の踏み付けは、意志力の養成となる。足の使役は、眼の支配とともに、興味ある問題である。
●踵と爪先との直角
天楽を奏する峰の松風にも、砂を噛む一浪一波にも、天地宇宙を支配する深奥精緻なる物理的法則が働いている。
姿勢を問わず、呼吸を調えず、中心に関わらず、足の角度を顧みない…そういう動作には、必ず欠陥があり、未熟な所があって、当然、改善の余地あることを、私は信じる者である。
当初、私も足の角度などには無頓着であったが、やっているうちに、踵と踵が直角となり、進んで腹と腰との調和を得てから、足は期せずして、爪先と踵とが直角となった。そして、そこにできた三角形の中心に、重心が落ちるようになった。
爪先と踵の直角ができ、その三角形の中心に、重心が落ちるようになると、腰と腹とに自然と力が等分に入り、全体の姿勢は自ら正しくなる。
この姿勢、すなわち踵と爪先との直角によって、腰と腹とをしっかりさせると、敵に対して、最も強固な防禦力が生じ、そのまま両足を九十度転回すると、敵が加えた力は、体前面をスレスレに通過して無力となる。
この瞬間、自分の力を垂直に加えれば、合力の関係で、敵は勢いよく、後方に投げ飛ばされる。
すなわち、両足の角を九十度転回するだけで、強固な防禦は、たちまちにして、猛烈なる攻撃へと変化する。そればかりではない。爪先と踵との直角をもって敵に向かうと、上体の対敵正面が狭くなるのと、光学上、反射角の関係から、姿勢が非常に鋭くなるものである。
腹は防禦、腰は攻撃、腹は強固、腰は敏捷。故に、腹のみでも不可、腰のみでも不可、両者がよく調和統一して、力が等分に入っているのが、最も正しく、最も確りした姿勢である。円転闊達、変化自在の機を秘めた姿勢である。
何度も言うが、そのためには両足が、踵と爪先とで直角を作らなければならないのである。
達人と云い、名人と云われる人達の足の形は、槍を持っても、剣を構えても、薙刀を執っても、銃槍を握っても、あるいは、踊りをやっても、演劇の身振りでも、ことごとく踵と爪先とが直角になっている。
もしなっていなければ、どこかに必ず隙があり、崩れた所があって、透撤した美感を与えることはできない。すなわち、未だ名人達人の域には達せぬ者と言わなければならない。
踵と爪先との直角は、姿勢を確りさせた時ばかりでなく、普通に立った場合でも、休んだ時でも同じである。踵と踵との直角では本当に休まらない。
非常に疲れた時など、踏み出した足と足との直角は、知らず知らず踵と爪先とになっているものである。
踵と爪先とで直角を作り、腰と腹とを確りさせるというのは、便宜上、逆にやったのであって、腰と腹とが、正しい調和を得ると、両足の直角は、期せずして踵と爪先とになるものである。
故に、腰と腹との調和統一の真味を理解しない者は、踵と爪先との妙諦を知ることはできない。
●二分三十秒の新運動法
以上述べた事は、いわゆる『肥田式強健術』の大体の輪郭に過ぎない。とにかく、八大要件を始め、その他いずれの条項も、ことごとくが中心力を基礎としている点を看取していただきたいのである。
明治四十四年四月、『簡易強健術』を世に出してから、長い年月が経過する。その間、各種練修法の共通原則であり、またその根本生命である中心力については、ますます熱心に研究と実験とを重ねてきた。
これなければ、いくらその方法の末端が、上手に体裁よく並ベられていても、また学理的研究が、いくら積まれていても、魂入れぬ仏像と同じである。
多年にわたり、研究と実験をした者でないと、中心力の妙諦は、容易に知ることができないだろう。
真の中心力は、腹すなわち気海丹田と、腰すなわち仙骨上端との中央に、しっかり中心を据えた正しい姿勢からでないと作ることができない。
しかも、中心の生命力は、養えば、ますます強く、鍛えれば、いよいよ明らかになり、その妙奥は測るべからざるものがある。
私は最初、各部主要筋肉鍛練の効果を一層顕著にする手段として『腹力』『気合』『丹田力』を、全練修法の通則とした。
しかし、やっているうちに、単なる腹力ではいけない。腹と腰との同量の力、腰から行った腹の力、腰に連なった腹の力、すなわち人体の物理的中心に向かって、球状の圧迫力を作るのでなければ、完壁のものではないということを悟った。
ちょっと聞いただけでは、その真価は容易に分かるものではないが、実際問題として、正に一大躍進であった。正宗の名刀、一揮、盤根錯節をぶち斬ったような壮快を、私は感じたのである。
そこで私は、中心における球状圧迫を作る働きを助けるために、ある重量の物を持った操練法を設けたのである。すなわち腰腹練修法(下体)が、それである。
型は、まことに平凡であり、方法も、また極めて簡単である。しかし、正しい要領に合致すること、したがって、その妙趣を獲得することは、ちょっと難しい。
それには、ただ練修を積んで自得する以外にないのである。
腰腹練修法(上体)は、下体から中心力を作る方法を行うから、上体からも鍛える方法を加えて、全体の平均を保つようにしたに過ぎない。
私は、多年の練修によって、最も完全なる体格、最も強健なる体質に改造することができたから、最近は、ただこの練修法のみ実行しているにすぎない。運動時間は数分である。
これによって、健康となり、姿勢を美しくし、体力を強くすることができることを理論上ならびに実際上、確証する者である。
中心力を第一とし、それに部分力を使うようにするから、鉄棒を持ってやっても、過激の問題は絶対に起こらない。
●中心生命力の大活躍
次に、練修法について説明するが、その前に、大切な注意事項を思い浮かぶままに記しておく。
◇鉄棒は、年齢および強弱により一キロから四キログラム位までのものを用いる。あまり重いものを用いてはいけない。楽に持てるものが良い。最初は軽い物を使い、健康が進み中心力が強くなるにしたがって、重さを増していく。
◇場所は、畳半分くらいで、どこででもできる。
◇時は、朝起きて直ぐにやるがよい。朝と晩とやれば充分であるが、朝一回だけでも結構である。
◇息を吐いて、中心力を造る。上体は、いつでも柔軟。
◇中心力十、部分九の緊張力。
◇中心力と部分力と呼吸とを調節させる。
◇呼吸と動作と力の使用法とを、加速度的にする。
◇息を吸う時は、腰が起点で、姿勢伸長、筋肉緩弛。
◇息を吐く時は、腹が土台で、姿勢短縮、筋肉緊張。
◇吸った時には、体の重さは、やゝ爪先の方へ。吐いた時には、体の重さは足裏全体に。
◇底面を確りさせるために、両足の角度を正しくする。
◇力は、垂直に働かせる。
◇すべて、息を吐き切った時、ピシャッと態度を決めて、二三秒の呼吸停止の間、そのまま不動の姿勢をとる。
◇息を吸う動作は、穏やかな美、息を吐く時には、強い美が現われる。
◇吸いきった時、吐ききった時、正しい間隔をおく。
◇呼吸停止は、七秒間を越えない。
◇動作の節度ごとに、呼吸を停止し、区切りを明瞭かつ奇麗につける。
◇鼻を縮め、唇をしっかり結ぶ。
◇眼は、ただ大きく無邪気にパッと見開いて、視線を正しく前方に注ぐ。自ら虚心坦懐となる。肉体と精神との調和連結の最大秘訣。
◇脚をしっかり正しく据える。踵から指先まで精気溌々として満ち溢れる。
◇軟かにして、しっかり。穏やかにして優美、その中に力あれ。
◇足裏にドカッと、床に吸いついたような重みがなければならない。それには特に、両股の力を抜け。
◇活々と動作する。ダレてはいけない。動作ごとに、活力、腹底より。
◇運動回数は、増加の必要なし。
◇使用目的以外の筋肉も、協力運動の法則による。自然緊張によって、少しばかり力が入っても差し支えない。
◇練修時間は、わずか数分。渾身の力を込めて行え。ただし上体の力を抜け。
◇中心の腰と腹とに重きをおけ。枝葉の型に拘泥することなかれ。中心調えば、型は自ら正しくなる。
◇型は認識し、理解し、記憶することができるけれども、中心の生命力は、熟練に塾練を積んで、体得するほかに途はない。
◇正しい型によってこそ、初めて真に自由な動作を、することができる。中心から出た、真に自由な動作こそ、最も正しい型である。
◇円満なる中心力を基礎とし、捨身、命懸けの勢いで、露も滴るように、鮮やかに、冴々しく、やらねばならない。すべてを超越したところに、あらゆるものに対する正しき調和が存する。
◇平和とは何だ? 胸の力を抜くにある。ただし、腹と腰とを据える。
◇中心力より出ずる自然体、柔軟姿勢に潜む中心力。
◇円転滑脱、変通自在。柔剛一致、心身冥合の機、間、髪を容れず。
◇充実した平心は、最上の美である。練修に楽を感じないのは、いまだ真要領に合致しない証し。
◇姿勢は、あくまで正しくせよ。首は、真直ぐにして、正面に向くべし。正しい姿勢は、物理的に無理のない動作ができるのみならず、生理的にも諸器官の位置を正しくし、したがって、その機能を順調にする。
◇正しい姿勢、正しい型、ちょっと考えると、いかにも窮屈そうだが、その方が自然に適っているから、却って楽である。熟練して無我に至れば、自ら、そこに到達する。精神は虚にして実、動作は正しくして、機械の動くが如く、しかも精気溢れて奔放自在。
◇練修の際、努力の形あるは不可。正しくして、自然の型を踏めば、悠々、強大なる力は自ら潜むものである。全身全霊の生命力を、階調ある動作の上に、怒涛のごとく強烈に現さなければならない。しかもそれは、満山ことごとく楼花の中に、春日、穏やかに香るの趣がなければならない。
◇満々たる気合をもって予備動作が済むや、ピシャッと強大なる中心力が迸る。正宗の名刀、一揮のごとく、真に瞬間の力、瞬間の勢いである。その型、その動作、その力、その勢いの妙機に至っては、心魂をもって直ちに脳裡に会得するほかないのである。
◇熟練して、すべての型が中心生命によって活躍するようになると、壮快な波動が動作の節度ごとに起こる。
◇型は畢竟、枝葉である。練修は、全身、全霊、全生命、全精力をもってする。中心力の大活躍でなければならない。
●腹胸式呼吸法
ここで、呼吸法を二種解説する。
一、腹式呼吸法
@枕をせず、平らな凸凹のないところへ、姿勢を正しくしてあおむきに寝る。
A両脚を伸ばして開き、両足間隔は約九十五センチメートル。
B鼻柱と胸骨との直線が、両足間隔を二等分するように上体を真っすぐにする。(仰臥式自然体)
C後頭部を引いて、顎をあげ、気管を楽にする。
D眼を閉じていてもよいが、開いているならば、視線は、眼を通過する垂直線と地平とのなす直角の二等分線の方向へそそぐ。そうすれば、気管は自然に伸びる。
E腰を反って、両手の拳を入れ間隔を作る。(こうしないと、姿勢が死んでしまって、伸縮が自由にならない)
F両手を抜き出して、腰にあてる。親指が下で、四指は腹のほうに置く。
G全身の力を抜いて、心を落ちつけ、自然呼吸を数回行う。それから、静かに呼吸操練に移る。
Hフウーン、フウーンと、息を何段にも楽に吐き出して、腹を小さくする。両手のひらで腹を軽く押さえながら、スッカリ吐き出す。
I鼻から息を吸い込んで、だんだん下腹を膨らまし、腰を反る。
J充分吸いきったとき、腰をキッと反らすとともに、鼻から息を少し漏らす。呼吸停止三秒間。
K息を、腹の底に押しつけるようにし、のどの奥でイキミながら、静かに強く息を吐き出し、腰を落として鳩尾を下げ、腹の形を丸くする。息を吐くのには、ウーと吐き出して少し吸い込み、ウーと吐いては、また少し吸い込み、何段にでも吐き出せば、非常に楽にできる。(腰部円状)その際、両足踵は突き出して、爪先を上げる。ただし、力は入れない。
Lそのままの姿勢で、息を吸い込みながら、その真中へウント力を込める。同時に、両足踵へ力を入れて、腹筋の緊張を助ける。(腹部球状緊張)
M呼吸停止、三秒間。腹式における妙趣の極。
N咽喉の奥でイキミながら、だんだん鼻から息を吐き出す。同時に、だんだん踵の力を抜く。
O息を吐くとともに、腹を低くし、力を抜く。
P呼吸停止、三秒間。
Q息を吐くのには、ウーン、ウーンと力強く、長く、途中で何回も息を足しながら、吐き出してしまうのである。(以上で、腹式の二呼吸が終わる)
二、胸式呼吸法
@両手を、脇の下に上げながら、胸を開いて鼻から息を吸い込む。
A両脚は、やや狭くし、爪先を寝かす。両踵の距離は、約四五センチメートル。
B腰は、充分に反る。顎をしっかり上げる。呼吸停止、三秒間。
C口をしっかり結び、鼻から息をウッと一気に力強く吐き出しながら、両肘を体側に引き、両肩を下げ、胸郭を充分に拡張させる。
D呼吸停止、三秒間。すると、大いに吸おうとする勢いが、そこに起こってくる。
Eその自然の働きを利用して、顎を上げ、唇に力を入れて、口から充分に吸い込み、両頬に一杯含んで口を閉じる。
F呼吸停止、三秒間。
G口を細く結んで、微かに、長く、強く、穏やかに、吐き出す。
H途中、両三回、息を吸い足しながら吐き出してしまう。それにつれて、全身の力をだんだんに抜き、柔軟な自然体に帰る。
I呼吸停止、三秒間。(以上で、胸式の二呼吸が終わる)
腹式二呼吸、胸式二呼吸で一回とし、夜寝るとき五回、朝起きたとき三回、それで充分である。
●腰腹練修法
次に、腰腹練修法について三種解説しよう。
一、腰腹練修法(上体)
@長さ約七五センチメートル、重さ三キログラム位の鉄棒を、手のひらを前方にして握る。両手の間隔は肩幅。
A両足を直角に踏み開いて立ち、爪先と爪先との間隔は、中指と親指とで計って三つ、すなわち約六十から六五センチ位とする。
B姿勢を、真っすぐにする。
C上体の力を抜き、腰を充分に反る。上体は真っすぐ。
Dそうすれば、体の重さが爪先へも多く落ちない。踵へも、多く落ちない。すなわち、体重が両足の中央に落ちて、最も正しい姿勢となる。
E両眼を、パッと大きく見開いて、視線を正面の空間に定めておき、瞬きを少なくする。これは、初めから終わりまで変わらない。すると、精神が自然に統一してきて、澄み渡った秋の空のような心持ちがする。
F上腕を体側に着けたまま、両肘を曲げて、鉄棒を胸部の上、両肩の前方に持ち上げる。あまり急激にしない。
G同時に、穏やかに、力強く息を吐く。
H上げきったとき、キュッと両手を握りしめ、鉄棒を固く掴む。
I中心力は十分、上腕二頭筋は九分の緊張。
J呼吸停止、三秒間。
K姿勢は、少しも変わらない。伸びもしない。縮みもしない。(鳩尾のところで、屈みたがるものであるから注意。腰は反ったままである)上体は垂直。
L静かに両腕を下ろしながら、穏やかに息を吸い込む。
M両手を下ろすとき、下ろしたとき、いずれも全身に力を入れない。
N息を吐ききったところで、呼吸停止、三秒間。
以上を十回行う。運動時間、約一分間この練修は、上体によって中心力を練る。
二、腰腹練修法(下体)
@両足の間、約三センチ離して揃える。両足は平行して少しも角を作らない。
A姿勢を正しくして、直立。
B上体に力を入れない。腰を反っている。
C眼光は、前方にそそぐ。
D心を落ちつけて、静かな自然呼吸、両三回。
E穏やかに、充分息を吸い込む。
Fスッカリ吸い込んだら、呼吸停止、三秒間。
G息を、ウムと加速度的に、力強く吐き出しながら、両膝を折って、上体を垂直に下ろす。真っすぐに下ろすことが肝要。
H体が下りるとき、踵が上がって爪先立ちとなる。
I両股は平行。なるたけ、密接させる。
J腰は、充分に反っていて、臀をスッカリ下ろさない。踵から、約十五センチ位、離れている。
K腰と腹とへ、等分の力が入る。
L腰をしっかり反れば、腹へはドッカッと、力が入る。入れるではない。この姿勢と動作のために自然に入るのである。ちょうど、下腹を腹の中から、太い木で、ドッと突かれたような緊張を覚える。腰の力を、下腹へ、ぶち込むのだ。
M上体は、いつでも真っすぐで、いつでも柔軟。肩、胸、腕は、いつも力を入れない。(上体は、柔らかに真っすぐにして、臀を後ろへ突き出し、腰をしっかり据える。腹で、膝を覆い隠してしまう心持ちとなる。上体へ力を入れたり、上体を伸び上げたりすることは大禁物。常に、引力の働きに従う。物理的重心と底面の中心とを連結した垂直線に従って上下する)
N腰を下ろしたとき、爪先で立ち、臀を踵から離していれば、両股は、ちょうどバネのようである。円満にして、強固なる中心力が、ストッと下腹部にまとまる。ここに、無限の妙諦が潜む。健康の極致、万芸の泉。
O鉄棒を持った両手は、両膝頭の前方にやる。両腕に力を入れないことは、もちろんである。
P中心力は十分、大腿四頭筋は九分の緊張。
Q呼吸停止、三秒間。
R息を吸い込みながら、立ち上がって、元の姿勢となる。
S吸いきったところで、呼吸停止、三秒間。
以上を十回行う。運動時間、約一分間。この練修は、下体から行って、最も強固にして円満なる中心力を養う。
三、腰腹練修法(中体)
@両足を、直角に踏み開いて立つ。(この練修には、鉄棒を持たない)
A両足爪先の間隔は、親指と中指とで計って四つ。すなわち、約七五センチメートル。
B腰を反り、腹をきめて、体重を両足の中央に落とす。
C上体は柔軟、両膝は、ピーンと伸ばす。
D眼光を決める。凝り固まるな、ゆったりせよ。
E両手の指を揃え、手のひらを上にして、両体側から上げながら、胸を充分に開いて息を吸い込む。
Fスッカリ吸い込んだところで、両手をピシャッと合わせる。
Gそのとき、顎は、両腕が上がるのと同時に仰いで、眼光は、両手指先を通じ、上体にそそぐ。
H呼吸停止、三秒間。
I呼吸停止間に、五指を組み合わせ、頭の上で小円を描いて、手のひらを上方に向け、両腕をグィッと真っすぐに伸ばす。
J息を吐きながら、組んだままの両手を、手のひらを前方に向け、腕を伸ばして、臍の前方まで下ろす。
K同時に、両膝を折り、下脚を地平に対して垂直にする。(膝が前へ出ないようにすることが大切、すなわち、体重が両足裏に平均に落ちて、爪先にも踵にも、内側にも外側にも片寄らないようにしなければならない。そうしないと、完全なる中心力ができない)
L上体は、垂直に下りる。前にも後ろにも傾かない。
M腕や肩に、力を入れない。鳩尾を折らない。
Nそうすると、腹の真ん中を通過する垂直線と、臍を通過して地平に対して平行な直線とがなす所の直角を二等分した直線の方向、すなわち臍下丹田に向かって、引きしぼるような力がストッと動く。そして、下腹部をドカッと叩く。(これが、本当の中心力だ。その力の動き方が分からないのは、やり方が間違っていて、真の要領に合しないからだ。意志を用いて、下腹に力を入れるのではない。虚心淡懐、無我無心、ただ物理的に、これらの姿勢と動作と呼吸のやり方をすれば、自ら生理的に、下腹筋肉が緊張してくるのである。そしてそれは、重心の安定を得た、最も強固かつ楽な姿勢なので、精神も自ら、そこへ集中統一されるのである。これすなわち、肉体鍛練の極致であり、精神修養の奥秘である)
O上体は柔軟、正しい中心力のみ、渾然として大なる明玉の如く、腹と腰との中央に納まる。
P眼光は、パッと無邪気に、しっかり前方にそそぐ。
Q息を吐いて、腰を下ろしたとき、ズーッと体を決める。(その際、息の吐き方、力の使い方、腰を下ろす動作が、自然に加速度的に行って、無理のないようにする)
R呼吸停止、三秒間。腹と腰とへ、等分の力を入れたままの状態。
S練修の終わりごとに、ピシャッと、両手で自然に両股を叩く。健康の精気、発々としてほとばしる。
以上を三回行う。運動時間、約三十秒。
●健康の中心を強くする法
健康の中心などと言うと、怪しげな行者か神霊療法家が口にしそうな言葉である。しかしこれは、多年にわたって、理学的研究を積んだ成果である。
人体の中心を練磨することは、すべての体育法、運動法、健康法、養生法、衛生法の根底であり、基礎であり、本源であるとの確信を得るに至ったのであって、曖昧な抽象的な点は少しもない。
徹頭徹尾、物理的であり、生理的であり、心理的である。
キリストは、世人がいたずらに不思議現象を有り難がることを戒められた。宇宙の大法則のほかに、何の奇跡を求める必要があるのだろうか。
ロウソクの火を口に入れて熱くないのは、酸化作用が不充分なうえに、水分が潜熱を吸収するからである。
ランプの火の中へ手を入れても何でもないのは、中心の無熱なガス体の部分だからである。
やけ火箸を、手のひらでしごいても火傷しないのは、汗や脂肪のために、蒸気遮断が行われるからである。熱湯中に手が入れられるのは、手の水分が気化するからである。
塩をふりまいて火渡りするのは、塩素の化学的不燃体を利用するからである。
炭火を口に加えても熱くないのは、琺瑯質は熱の不良導体だからである。
針を刺しても堪えられるのは、痛覚は皮膚の外部だけだからである。針を抜き取っても血が出ないのは、凝縮作用のためである。
ピカピカ光る刀で、紙を切り、竹を割っても、刃の上を、ちょっと砥石で引いてあれば肉は斬れない。剃刀のような鋭利なものでも、平押しでは斬れない。
身体で橋を架け、重いものを載せることができるのは、脊椎骨を緊密にし、靭帯や諸筋肉が強くつながるからである。
少女が肘を曲げて、手を頭につけると、大の男が腕を伸ばしても取ることができない。少女は屈筋で固め、大男は伸筋を働かすからである。
一本の棒で、数人を相手に押し合っても負けないのは、力の方向を低くするからである。
ある物を、ある所に持っていくと心に念ずれば、そこへ連れていくという読心術は、自分自身がやってみて的中したから敬服したと、某工学士が賛嘆していたが「それは、術者が被術者を連れていくのではなく、被術者が術者を導いていくのである」と私が解釈してやったら、「なるほど」と合点して失笑したことがある。
いわゆる賢者が、このようなごまかしを、神霊の御力などと仰ぎまつるから、怪しげなものが世に流行してしまうのである。
願わくば、「健康の中心」を以て、それらの御幣と混同しないように。
私の立脚するところは、徹頭徹尾、科学的基礎である。冷ややかな物理的、生理的台上にある。
したがって、その効果を得ようとするならば、あくまでも真面目に、着実に、実行継続の努力を積まなければならないことを切言しておく。
●強健術の原則から観た雄弁の秘訣
世界第一の雄弁家として知られるデモスゼニスに向かって、ある人が「雄弁の秘訣は何か?」と聞いたら「第一が、態度である」と答えた。
uその次は?」と聞いたら「第二も、態度である」と答えた。「更に、その次は?」と聞いたら「第三も、態度である」と答えた。
そして、言葉を改めて「雄弁家になるのに、態度が第一である。そのほかに、自分は説明すべき何物も持たない」と、彼が演説の要素として、俳優の技量に属するような点をもって、雄弁家の資格の第一としたことは、驚くべき事のように思われる。
雄弁家の資格としては、鋭敏なる感情、常識、熱心、活発な想像力、徳性、機知など、いろいろ重要な素質がいる。
また、雄弁の内容としては、音声、身振り、言語、語勢、論旨、材料の配置などがある。
ところが、デモスゼニスは、それらのいずれにも触れずに、徹頭徹尾、態度、姿勢をもって雄弁の主要条件とした。
これこそ彼が、多年の辛苦を積み、幾多の失敗を重ねて、ようやく体得した万古不磨の金言なのである。
私は、自己の虚弱醜悪な体質体格を改造一変しようとして、自ら組織した肥田式強健術を実行継続してきた。
その根本原則である「中心力」を鍛えて、その妙諦を会得するや、図らずも、真に、偶然、ふとデモスゼニスのこの言葉の中に、驚くべき一大真理が包含されていて、雄弁の秘訣の第一も、第二も、第三も、ただ一つの態度姿勢にあることが、ハッキリとわかってきた。
私は実に愕然として驚くとともに、彼の苦心鍛練が容易でないことを想って、讃嘆の情は、潮のごとく湧き起こった。
それでは、デモスゼニスの態度とは何か。姿勢とは何か。彼は、ただ態度と言ったが、態度とは一体どのような態度であるのか。
これを、運動生理の法則に照らして、詳細に説明していないから、私達は、ハッキリとそれを窺い知ることができなかった。
最もそれは、彼の専門外のことであったから、姿勢の分解的説明などはできなかったのであろう。
私は多年、姿勢、態度に関する新しい研究をしていた関係上、この問題が解決できたときは、ちょうど正宗の名刀一揮、万根錯節をぶち切ったような痛快を感じたのである。
私はもと、人の前に出れば、すぐと顔は真っ赤になる。陰鬱のために、声帯は喉の奥に乾からびついたようで、話をするにも小声しかでない。五、六人いるところで話すことなど不可能であった。
また、早くから宗教書なども読んで、謙遜の徳などというような事も深く考えていたから、私の性質はますます萎縮し、ますます臆病となり、卑怯となり、引っ込み思案となった。
それで父からは、しばしば「男は、大勢の前で、演説できないようでは駄目だ」と、デモスゼニスを始め、幾多の雄弁家の話を聞かされたものである。
それから私は、演説に関する沢山の書物を買い求めて読破した。そして特に、敬慕し私淑したのは、デモスゼニスであった。
私は、彼に倣って、鏡の前で話をしたり、滝の下へ行って大声を出したり、小石を口に入れて発声したりもした。
けれども、それらは何の効果ももたらさなかった。のみならず、年中、風邪は引く。腸は痛める。頭痛はするという状態で、ますます意気地のない弱虫となってしまっていた。
そこで私は、奮然として体の改造を志し、強健術を創始して、心身修養の第一秘訣は、円満なる中心力にあることを悟得した。
何度も言うように、中心力とは、人体の物理的重心に向かって、同一量の圧迫力を造ることであって、言葉を変えて言えば、腰と腹とに同量の力を造るということである。
そして、完全なる真の中心力は、正しい姿勢態度からでないと造ることはできない。
それでは、最も正しい姿勢とは何か。最も美しい態度とは何か。
●護身法
今から数十年前のことである。フランスに、アポットという妙齢の女姓がいた。彼女の体重はわずか三十数キログラム、非常にキャシャな体でありながら、数人の頑強な男たちを相手に恐るべき怪力を現して全欧州を驚嘆させたのである。
そして、各国皇室にまで招待されて、その妙技を振るった。学者たちは、人身電気の働き、人身磁力の作用などと言って絶賛したのである。
その方法を調べてみると、微妙な力学的関係によって生ずる結果であって、少しも不思議なことではない。
その要領にさえ合致すれば、誰にでも直ぐにできることである。
要するに、姿勢のとり方と力の使い方と屈筋伸筋の働かし方によるのである。
一つ一つ説明すれば、面白いことであるが、ここでは、それが目的でないから、これだけにしておいて、不正な暴力に対して、その身を護るのに、必要な方法と、その原則とを説明したいと思う。
相手が加えてくる力の方向を外せば、その力は、自分にとって無力となる。すなわち弱い者、必らずしも強い者に負けないという道理が分かる。
相手の力を外したうえ、更に自分の力を、それに加えれば、両者の力で、相手は安々と倒されてしまう。
その場合、中心力=腰と腹との等分の力=と合致した垂直の力を使用すれば、相手は、一層烈しく投げ飛ばされてしまう。
このように、弱い者でも強い者に勝つ道のあることが分かる。
w寡(少)なきは以て、衆(多)きに敵すべからず。弱きは以て、強きに適すべからず』というのは、孫子の兵法に説く所であるが、個人的組打ちの場合でも、この言葉は真理である。
相手からの攻撃に対しても、この道理を巧妙に利用して、その要所要所においては、結局、衆を以て寡に当たり、強を以て弱に対するようにしなければならない。
個人と個人の場合でも、またそれと同じように、手で掴まれたら、腕で払い、片手で捉えられたら両手で離し、両手で持たれたら、片手ずつねじ取るか、あるいは、脚で蹴り離すというように、衆(多)を以て寡に対し、強を以て弱に向かうようにするのである。
そのほか、筋肉骨格の構成上、相手の手や足が、なるたけ逆になるようにする。
一護身法の要点
そこで、肝腎な要領を、ザッと一まとめにしてみよう。
◇上体を真っすぐにして、姿勢を正しくする。
◇腕、肩、胸の力を抜いて、軟らかにする。
◇腰を、しっかり据える。
◇膝は、やゝ曲げる。膝が前へ出ないようにする。
◇姿勢を低くする。
◇体の重さを、支底面の中央(両足でつくる三角形の中心)に落とす。
◇両足を踏み開いて、踵と爪先との直角を拵える。
◇腰と腹とに、等分の力を作る。これを中心力という。あらゆる洗練徹底した姿勢動作の根本生命である。
◇力の使い方を、閃電的にする。
◇力を、加速度的に強くする。
◇閃電的、加速度的の力を、中心力と合致させる。
◇力を垂直に使用する。
◇力を中心にまとめる。
◇相手に当たる部分の筋肉を、緊張させる。
◇反対に、直接必要でない箇所の筋肉は、なるべく弛緩させる。
◇中心力十、部分力九の割合に、力を使う。
◇防御の場合は、主として、屈筋を使用する。
◇力を入れる時は、息を強く吐き出す。
◇息の吐き方も、加速度的にする。
◇両眼を、パッ見開いている。剛く…軟らかに…。
◇精神を、腹のドン底に落ちつける。
◇相手の筋肉骨格が、なるべく逆になるようにする。
◇衆を以て寡に、強を以て弱に向かうと同様になるよう、手、足、体を働かす。
◇もぎ取る場合には、相手の体に接近していく。
◇こうして、相手の弱い所を、非常な勢いで突き破る。その間、真に一瞬時。一回で、相手の心胆を砕いてしまう。
これらは、大切な要領を、分解的に全部列挙したので、いかにも煩雑で難しそうであるが、分かってみれば何でもないことである。
そして、これだけのことができさえすれば、細かな方法など一々教わらなくても、あらゆる場合に応じて、たちまちこれを切り開く動作が、自ら中心より迸り出るものである。
以上の要領は、私が創案した「肥田式強健術」の姿勢のとり方、力の使い方であるが、それを応用して、直接、護身に必要な勝負の型、十数種に対し、説明を加えてみようと思う。
二護身法の型
@左手を下げている時、相手が右手で左手首を握った場合、引っぱって取ろうとしたのでは、五本の指で、しっかり掴まれているから、なかなか取れない。
そこで腰を据え、腹に力を入れて息を強く吐く(エイッと腹のドン底から、気合を発すれば、より具合よく力が働くものである。無声でも差し支えない。以下同じ)。
同時に、左肘を下から、相手の右肘に付けるように、相手に近づいて前腕を上げれば、相手の一番弱い親指と中指との間から、容易に抜き取ることができる。
この際、左手は指を揃えて平らに開いていると、手首は筋が張って太くなり、相手は持ちにくくなる。反対に、指を固く握ると、手首の筋が緊張して皮膚は弛みかえって相手から掴まれやすくなる。したがって、抜き取りが難しくなる。
開いた手のひらは、正しく側方に向き、小指の外側が正しく相手に向かうようにする。
前腕を上げる時は、腕の力で上げるのではなく、体を前に進め、肘を押し上げるようにするのである。そうすると、左腕全体の力、および腹と腰との中心の力、すなわち全身の統一した力で、相手の右手の親指、たった一本に向かうこととなるから、相手が相当の力でも、苦もなく、もぎ取ることができるのである。
A今度は、左手を上げて頬にでも当てていたところを、相手が右手で、こちらの左手首を掴んだとする。
その時は、やはり前と同じ要領で、手のひらを開いて指をピーンと揃え、息を吐きながら腹に力を入れ、肘を押し下げて、小指を相手の手首に付けるのである。そうすると、親指のところから、スルリと抜ける。
B相手が右手で、四指を上に親指を下にして、こちらの右手首を外側から掴んだならば、息を吐いて腹に力を入れるとともに、体を進めて、こちらの右肘を相手の右肘の内側に付けるようにすれば、容易に抜き取れる。その瞬間、右前腕を急激に伸ばせば、ちょうど相手の横顔を拳固で叩くことになる。
C相手が、こちらの右手を捉えた場合でも、また相手が左手で、こららの左手首をとり、もしくは右手で右手首を握った場合でも、すべて同一の要領で、もぎ取ることができる。
D右手を下げて立っていたら、相手が両手で内側と外側の両方からしっかりと右手首をつかんだ。(両手の指を揃えて掴んだ場合も、両手の指を組み合わせて掴んだ場合も同じ)。
ただ引っぱったくらいでは、なかなか取れるものではない。けれども、もぎ取りの型がわかっていたら、少しも狼狽することはない。
落ち着きはらって右手を開き、五指を正しく揃え、手のひらを左側方向に正しく向け、小指の側が正しく下に向くようにする。
左手を開いて指をそろえ、相手の両腕の間から差し込んで指先をちょっと折り、両手のひらをピタリと合わせる。
それから姿勢を正しくして、腰を据え、腹に力を入れ、息を力強く吐いて、両手を真つ直ぐに押し上げ、同時に右肘を相手の胸に当てるくらいのつもりであげる。すると、相手の両親指の間から、こちらの右手は易々と抜き取れる。
その際、体を進めて相手に接近すれば、いっそう容易に取れるだけでなく、右肘で相手のみぞおちを突くこともできる。
E右前腕を上げた時、前と同じように相手が両手で右手首を両側から掴んだ場合には、左手を相手の両腕下から差し込んで、指先を右手人差し指の外側にちょっとかけ、息を吐き、腹に力を入れると同時に、自分の両手を相手の下腹部に付けるつもりで体を進める。この場合、力は特に垂直に使用する。
左手を差し込むかわりに、右手人さし指と親指との間に、左手四指を十字形に乗せて垂直に切り落としてもよい。
F相手が両手を揃えて右手首の外側からつかんだ場合、両手は各五指を密着させて伸ばし、両手のひらをピタリと合わせて真っ直ぐに立てる。ちょうど合掌したときの形を作る。そして両手首をちよっとひねり、両手小指の外側が相手の右手首に対して直角になるようにし、相手の右手首に当てる。腹に力を入れると同時に息を強く吐き出し、真っ直ぐに立てた両手を向こうに倒し、垂直に押し落とす。相手の右手首は逆にねじられ、両手は一気に振りほどかれる。こうして相手の右手首は、固い棒で叩かれたと同じような激痛を与えられる。二、三度繰り返せば、相手は手首が痛くて掴むことさえできなくなる。
Gこちらの右手首を相手が両手で上と下から十指を組んで掴んだ場合は、左手のひらを右手人さし指と親指との間に十字形に当て、垂直に押し落とす。
H相手が左手でこちらの右手指先を握った場合には、左手を相手の左手首に当て、息を吐き、腹に力を入れるとともに体を右方に向けると、スルリと抜ける。左手の指を掴まれた場合でも同じ。
Iもうひとつの方法としては、体を左方に向けるとともに右ひざを上げてこれを曲げ、相手の左手首の上に乗せかける。そして息を吐くとともに、腹に力を入れ、グッと踏みおろすとともに、右手を上に引けば、いっそう力強く、もぎ取ることができる。帯を捉えられたときにも、この方法でたやすく取れる。
相手が右手でこちらの左腰の帯を取った時には、左ひざで、相手が左手でこちらの右腰の帯を取ったなら右ひざで踏み落とせばよい。腹の真ん中を持たれた時には、左ひざでも右ひざでも、働かせやすいほうのひざで踏み落とせばよいのである。
J相手が右手でこちらの左手の指を四本つかんで逆に上へ持ちあげた場合、この体勢では指を離そうとしても、痛くてなかなか取れない。それを取るには、逆関節に反らされている四本の指を元に戻さなければならない。それには指のつけ根をしっかりさせなければならないが、そのためには親指を伏せて、手のひらにつけなければならない。そして親指を手のひらにつけるには、ひじを曲げなければならないが、といって前腕を引き寄せるわけにはいかないから、自ら上体を進めて肘を折り、それから親指を手のひらに伏せ、同時に左肘を相手の右胸下に当てるつもりで突き出し、指先に力を入れれば、相手の親指は弾きあげられて、たやすくもぎ取ることができる。この瞬間、攻勢に出るためには、そのまま拳を突き出せば、相手のあご、もしくは鼻の下に自然とぶつかる。
K相手が右拳で打ってきたら、左前腕をあげて、これを受け止め、右拳で相手の右脇下を突く。
L相手が右拳で打ってきた時、右足を相手の右足前に踏み込み、右前腕で突きを受けながら右足を一歩後ろに引けば、相手は自分の力の方向に体を引かれて、その右手首は自ずからこちらの右手で掴まれる形となる。その自然の勢いを利用して相手の右手首を下のほうから逆にとって引き倒し、相手の後ろにねじあげる。そして左足では相手の右上腕を踏みつけ、こちらの右脚のむこうずねに相手の右前腕を当てれば、左足だけで大の男ひとりを地べたに押さえつけることができ、そのまま手帳と鉛筆を取り出して「お前はどこの何という馬鹿者だ。正直に白状しろ」と、悠々と書きつけることもできる。
相手が強いて起きあがろうとするようなら、左拳で相手の左肋骨部を圧してやればよい。強く突けば、呼吸も止まってしまう。
M相手の左腕の内から外へ、こちらの右腕を巻き付けて相手の腕を逆にとってもと同じように押さえることができる。相手の右腕をとるには、こちらの左腕を巻き付ける。
Nもし後ろから抱きつかれたら、ヤッと息を吐き、腹へ力を込めながら、後頭部を激しく後ろへやって相手の鼻柱を叩き、同時に足をあげて相手の股を蹴りあげる。
Oそんな酷いことをせずに取る方法は、息を吐いて腹に力を込め、上体をズッと下げ、同時に両肘に力を入れて水平に張る。そうすると相手の両腕はスッポリと外れる。
Pもし前後左右、同時にかかって来たら、後ろの者は、後頭部で叩きつけ、前の者は、足で蹴り上げ、左右の者は、近寄った所を両肘で突いてやる。
Q倒されたら、腹に力を入れて体を縮めてしまうのが一番である。相手が近寄ってきたら、足で蹴飛ばすのである。脚には驚くべき力が潜んでいることを忘れてはならない。仰向けに押さえられたら、両脚を組んで相手の胴をはさみ、両手で相手の襟を取って自分のほうに引きつけ、腰を反って両足を伸ばせば、相手は万力に押さえられたようで息もできなくなる。
R相手が打ってきたら、それを受けるか外すかして直ちに突く。突いてきたら、蹴る。蹴って来たら、手もしくは足で、これを払う。
S相手がこちらの前襟をつかんできた場合のはずし方を、以下に何通りか紹介する。
○相手が右手でこちらの前襟を掴んだら、上体をやや後ろに引いて、相手の腕を伸ばさせ、左手の指をそろえ、手のひらを開いて小指側のほうで相手の右肘を外側から叩く。肘の間接が逆になって痛いから、すぐに取れる。
○相手の肘に左手を添え、右手は相手の右手の下の襟を掴み、息を吐きながら腹に力を入れ、体を右方に開くとともに左手で相手の右肘を押さえ、右手で襟を引っ張れば、たいてい取れる。
○相手の胸とこちらの胸とが平行になるような姿勢をとり、右手を相手の右手首の下から入れ、右手のひらと左手のひらとをピタリと合わせて立てる。両小指の側を相手の左肩の方向に向けて、息を吐き腹に力を入れるとともに、両肘の力を合わせて斜めに突き出す。
○相手の右腕の内から外へとこちらの左腕を巻きつけて、相手の腕を逆に取る。そのまま引き倒せば、と同様に押さえつけることができる。
○相手の右手首外側に右手をかけ、左手は親指を下に、四指を上にして相手の手首を下から掴み、息を吐きながら腹に力を入れ、両手でギュッと握りしめながら、右方へ逆にひねってもぎ取る。
○そのまま手首を逆にとって、右下方に引っぱれば、相手は倒れてしまう。
○あるいは手首を逆にしたまま、相手の手の甲を胸で押しつければ、手首の関節は折れる。
○両手で相手の肘を持ち、相手の手の甲をこちらの胸に押しつけてもよい。
○最初から両手で相手の肘をつかみ、相手が握っている手のひらのほうをこちらの胸に押しつけても、酷くやれば関節は折れる。
○相手が両手で、こちらの胸元を捉えた場合、外側から二本の腕をしっかり抱いて締めあげてもよい。
○急場の際、一番簡単で恐るべき方法は、相手が両手でこちらの肩なり、襟なり、帯なりを捉えたならば、そんなものを取ろうとせず、右拳であご、あるいは鼻の下、やむをえなければ目を突き、左拳では相手のみぞおちを突き、ひざ頭あるいは足で相手の下腹またはむこうずねを蹴れば、相手は再び立つこともできなくなる。ただし、九死一生の正当防衛の場合でなければ、こんな酷いことは、やるべきでない。
真理は平凡である
大自然の法則は、秩序整然、一糸乱れず、分秒の誤差もなければ寸毫の破格もない。したがって何の不可思議もなければ、何の奇跡もない。不思議と見え、奇跡と見えても、厳正細察に審査検討すれば、すべてはことごとく合理的である。不可思議と言い、奇跡と言っても、無始の劫初から無終の永恒にわたり、無限の微小から無窮の太虚を貫き、一定不変の大法則が厳然として存在している。これこそまさに絶大の不可思議、驚倒すべき大奇跡と言わねばならない。
私達はこの法則を生かしている真理の力、真理の生命である神の全能の前に、排跪して、ひたすらその妙義を賛嘆せざるを得ないのである。
真理は平凡である。平凡は玄妙である。私達は、健康治病の道においても、平凡の流れに、真理の至宝を汲まねばならない。
真理は平凡にして玄妙ゆえに、すべての人から閑却されている。よこしまな世は奇跡を求める。世人は、ただ珍奇な流行を追って狂奔しつつある。翻って見すぼらしい自然の道に、ひざまずく者が何人いるだろうか。
腰腹正中心の鍛練、玄米もしくは麦飯および野菜の節食、生水を飲む、そうして日光に親しむ
心身ともに健全に生きる道は、タッタそれだけの事なのだ。それだけで良いのだ。何と簡単極まることではないか。コンナ事で丈夫でいられるのだという真理が、ハッキリとわかった時、私の全身の熱血は、うれしさに沸き上がった。ありがたいなア、そんなことで?・・・コンナことで?、?。おおそうだ!。タッタそれだけのことで人はみんな丈夫でピンピンと、元気よく愉快に、楽しく生きていくことができるのだ。
イヤ、それ以上のことそれ以外のことをやるからこそ、人は皆、病気などになるのだ。金をかけ、時を費やし、体に余計な仕事を負わせながら、人は病気のもとをセッセと努力しつつ注ぎ込んでいるのだ。わかった者から見ると、気の毒な浅ましき限りだ。
人が病気になるのは、すベて自然の道にそむいたからである。故に病気になったならば、安静を厳守して、休養を与え、精力を蓄積して治癒能力の活動をさかんにすると同時に、一切の不自然的行為を改めて、合理的の養生法を守るのである。簡単に言い換えれば、淡白な野菜食を取って、静かに寝ていれば、それでよろしい。惑わずに、それをやってさえいけば、時は必ず治してくれる。そんなことで、治るのか。その通り。それだけで治るのだ。それだけの事をチャントやってさえすれば治るのだ。
イヤ、それ以上のことを、やるからこそ、かえって治癒を長引かせ、時によると、しばしば命をさえ失うことにもなるのだ。薬責め、注射責め、機械責め、滋養責めで。
病気で弱っているから、滋養物を取らせる。それが間違いなんだ。病気で寝ている者には、そんな濃厚な栄養分は必要ないのだ。やせ衰えているのは、栄養物がゆかないのではあるが、それは一方、栄養物が充分取れない病気になっているからである。それに栄養分をやる。摂取されないから、持て余すのは当然ではないか。病気で疲れ衰えている。それを、更に生理的に不自然な服薬注射でいじめるとは何事だ。
そんなことをせずに、ジイッと休んでいて、淡白な食物を取ってさえいれば、次第に安全にいやされてゆく。天真療法は即ち、真の生理的療法であって、明確に科学の台上に立脚したものである。故に私は、その真を立証するために、天体、星辰の発生、生長、運行から説き起こしたのである。
と言えば、なかなか厄介なことになるが、方法そのものに至っては、極めて簡易簡単である。
平凡も平凡、平凡極まることだ。何とかモットこう、もったいをつけ、金箔を貼る方法はないものかな。あんまりアッケなさ過ぎるぞ。もうチット偉そうに見せかける仕組はないか。奇を好む現代人の心理に対して、余りに認識不足であるぞ。チト気を利かしてありがたそうな神様か目のくらむような機械でも引つ張ってきたらどうだ。
休養と正しい栄養法
だが友よ。健康治病の道は平凡である。平凡の真こそは、偉大なる力である。平凡の道こそは玄妙の極致である。文は拙をもって貴く、道は拙をもって成る。
人為的の方法によらずして、天理に順う方法を、肥田式とは何のことだ。何というキザなことだ。第一内容と相添わぬではないか。よし各種の注意をするとしたところが、それはただ、天理に順うの道を尽くすの方法に過ぎないではないか。その本体実質はあくまでも、天の力、天が人に与えられたる、治癒能力の作用にすぎないではないか。それを何だ。肥田式とは・・・。自分の姓を冠するが如き、何というキザ気紛々たることだ。
同感である。もっともである。御同様自分も、好い感じはしないのだ。しかし、ちょっと、それを除き去ってみると、その題名の余りにも平凡なるが故に、その感じが非常に、力弱きものになるのを、覚えざるを得ない。即ち方法はもとより私の特殊のものではないが、他人の賛否のいかんにかかわらず、私、即ち肥田春充は、自己の生命を賭してまでも断固として確信し、またその所信に対しては、明らかに自己の姓名を掲げて、その責を負うの意味に解して頂きたいのである。事実私は、その意気で命名し、その信念をもって筆を運んだのである。私は雑木と雑草とを愛する。見栄えのしない雑木雑草、そんなもは、天下いたるところ田舎へさえ行けばどこにもある。だが、私は雑木雑草の生い茂ったところにこそ、自然の力と自然の真とを認めるのだ。
この平凡の真と美とを、感得する者でなければ、健康治病の神秘を、平凡の道に、ひらくことはできないであろう。気の毒なるかな、いたずらに煩瑣の巷に惑うて、かえって己れを苦しめ、あたら生命を捨てることさえあるとは。翻然として振り仰いで、天地の真を達観せよ。生きる道は、すこぶる単純だ。治る法も、極めて簡易だ。そこに天寵の洪大なるものがあることを、友よ、御身は悟ることを得ざるか。
ソクラテス言う。「智は徳なり」と。無智なれば即ち知らずして不徳に陥る。明らかなれば即ち、おのずから強し、明徳は即ち確信を起こし、確信は即ち、真勇を伴う。簡易簡単極まる私の健康術と治病法との原理を、そのまま直ちに信じ得る者が、広い天下に有るだろうか?。
u天路歴程vの箸者、ジョン・バンヤンは言った。「私はプラトンの本も、アリストテレスの本も読んだことはない。ただイエスキリストの恩寵にあずかった哀れな罪人であるから自分自身が感じたそのままを書く」と。
私もまた、強い確信のもとに、随分突き詰めた言葉で、力強く、筆を運んではいるけれども、顧みて、私の心懐は淡々空々、清風地を払うが如きものであるのみならず、仰いで天恩の広大無辺なるに感泣し、どうかこの神の恵みによって、病床の同胞の幾人かが救済せられ、そして真理の光が、世に証せられ、栄を天に帰せんことを希ってやまぬ次第である。
人が病気になった場合、薬も要らない。いわゆる滋養物も要らない。電気ラジウム等の治療器も要らない。神霊療法も、艮神様療法も、何も要らない。ただ休養姿勢の執り方と、正しい食養法とで、あらゆる内科的疾患を安全に自分で治し、時にはひん死の重患でさえも、それによって、しばしば救われる。的確簡易な道を、私は、天文学、地質学、生物発生学、動植物学、生理学、病理学、臨床医学、薬物学、心理学等から、科学的にまた実験的に、帰納し来たったことを真理のために心ひそかに喜びとするところである。
友よ。強くなる道も、病を治す法も、すべては我々自身のうちに、ことごとく与えられ、備えられている。無限の天寵を、私共は仰いで、至誠の神に、感謝しなければならない。
サラバ。病床の同胞よ。御身は感激の涙をもって、生きる宇宙の力を、御身自身の正中心に汲まねばならないのである。筆をおくに臨んで、私は繰り返して言う。友よ。すべては御身に備えられている。