五章 日本刀の姿見の変遷(二)

 

桃山時代――刀工の新旧交代、整った形に

室町時代が「古刀(ことう)」の最後であったなら、桃山時代は「新刀(しんとう)時代のはじまりであった。新刀と呼ばれたわけは、時代区分だけの名称ではなかった。やはり大きな変化があった。古刀の名のある刀工が衰退し、新たな名刀群が現れた。

秀吉の天下統一で、戦国大名の庇護の下で、良質の鉄や炭に不自由することなかった刀工たちは、その大名の領地没収、国替で基盤を失った。それに代った振興大名の下に多くの刀工が集り、進取の気分に満ちた。交通の発達が材料の入手も楽にした。南蛮鉄も入って、技術革新が成された新作刀時代であった。古刀と新刀の鑑別の際の違いとは地鉄(地肌)であるとされる。

さて、姿身だが、慶長新刀が登場し、鎌倉、南北時代を理想としつつも、太刀姿は消え、幅広であるが反りは浅く、全体に整った形になった。江戸の武士の定番となった二本差しも一般化し、脇指に鍔をつけた小刀も差すようになった。剣術が盛んになったことも姿身に大いに影響した。

余談。秀吉時代、家来に刀を与えることが多くなった。分け与える土地がなくなったからだ。そのため刀剣のありがた味を高めるため、本阿弥家が本阿弥家が鑑定目録を秀吉の命で出した。これが正宗伝説を生んだ。

 

 

江戸時代――東の江戸、西の京、大阪で対照的作風

江戸時代は270年と長い。慶長から8年(1603)から幕末慶応3年(1868)まで。

新刀の時代は安土桃山時代から江戸時代の寛永まで。刀剣史では、正保(1644~)から安永(~1781)頃までを江戸時代とする。それ以降は「新々刀」から「現代刀」へ移る。

江戸反りは浅いのは同じだが、より整った姿になった。元幅に対して先の幅を細身にしたからだ。刃文も華やかなものが出てきた。数珠刃(じゅずば)、濤爛乱(とうらんみだれ)が代表的である。元禄の頃になると、寸を少し延び、反りもいくぶん深くなる。

特筆されるが、東西の作風の違いが見られるようになったことだ。東の江戸は素朴でいて力強いのに対し、西の京、大阪は華麗さが目立った。質実剛健の新興、江戸幕府の膝元。片や、都と経済都市大阪、おのずと違いが出た。

元禄以降となると、東も西も刀剣の需要は減った。刀工も減り、大名から離れ、豪商の後押しで作刀するようになる。武士の時代の終焉を予兆するようだ。

 


 江戸時代末期から明治初期――無反の直刀、勤皇刀

武士の時代が終わる。風雲告げる幕末、勤皇刀と呼ばれた、無反り鎬づくりの直刀が現れた。勤皇派浪士が、王政復古を叫び、王朝の世の直刀を、そのシンボルとしたからだ。西は衰え、江戸が中心となり、全国にその影響を与えた。そして、営々に守られてきた、備前伝とか相州伝との一工一伝も廃れ、各地の刀工が、それぞれの造りをはじめた。それが新々刀の特徴といえる。

さて、明治初期以降から平成の世の現代までを「現代刀」というが、廃刀令で武士もいなくなったので、姿見の変遷は、ここで終わる。

 

 

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