五章 日本刀の姿見の変遷
支那人、朝鮮人は日本独特の反りがある湾刀を「日本刀」と呼んだ。日本刀は武器輸出品ナンバーワンであつた。室町時代の半世紀だけでも九万本。その多くは倭寇(わこう)と呼ばれた海岸海賊の武器となつた。倭寇の多くは支那、朝鮮の沿岸の民であつた。
日本人自身が「日本刀」と呼んだのは幕末であつた。日本の近海に外国船が出没し始め、攘夷のナショナルリズムが生まれた時期である。日本刀で夷狄(いてき)を討つのだと。国防の危機が迫まり、日本と外国を対比したとき日本人(武士)は「日本刀」を日本のシンボルであると知った。日本刀は武士の自画像であった、そう知ったのだ。
前おきが長くなりそうだ。本題に入ろう。
日本刀と呼ばれる湾刀が出現したのは平安中期である。それまではまっすぐで先が両刃である直刀。断ち割る、突く剣(つるぎ)である。
刀剣学では直刀は「上古刀」(じょうことう)と呼ばれる。日本刀となつた平安中期から桃山時代の中期までが「古刀(ことう)」。それ以降から江戸末期前までを「新刀」。明治中期までを「新々刀」。それ以降、現代までを「現代刀」と呼ぶ。
なぜ直刀から鎬(しのぎ)がある湾刀に変化したか。また刃を下にし腰に吊るす太刀(たち)から室町時代になり刃を上に腰に差す内刀(うちがたな)に変化したか。これは後に「日本刀の操作」の項で述べる。
今回は姿見だけ追う。政治史からの区分けで鎌倉時代初期からその時代を下っていこう。
〇鎌倉時代初期――素朴でいて優美典雅
武士の時代となり日本刀の需要は多くなった。
刀身は2尺7、8寸(81~85センチ)前後。現在の模擬刀(2尺3、4寸)より少し長い。刃の肉も厚い。反りは「腰反り」で根元、鍔元の反りが大きく剣先にいくにしたがい細くなり「小切っ先」となる。顔が小さく、して肉感的な女性が思い浮かべられる。樋や彫刻があっても形は素朴で優美典雅だ。
刀匠の名を入れる「銘を打つ」のもこの時期から始まる。
〇鎌倉時代中期から後期――対蒙古兵に身幅広く、刀身長く。刃文が出現
刀身は1、2寸長くなり、身幅(刃の広さ)も広くなり、先もさほど細くならず、元と先の身幅の差が少ない。肉も厚めで切っ先が猪の首を思わせる頑丈さである。よくいわれる「蛤刃」(はまぐりは)である。切っ先にかけ肉が厚い。太刀の姿身は豪壮である。剛者、男性的である。
中期から後期にかけ身幅はさらに太く、鋒も刀身長さも延びた。なぜか。そのわけは蒙古襲来である。蒙古兵の頑丈な革の鎧、武器に対抗することからであった。また、この時代から日本刀に日本刀足らしめる刃文が出現した。刃文を刃紋、波紋と書く者が多いが注意されよ。刃文は姿見の次に述べる。
この時期、各地に個性的な刀匠が多く出始めた。そしてさらに大きく変化していくのが南北朝時代である。
南北朝時代――大太刀に見る豪壮の趣
応仁の乱へつづく乱世の始まり。野太刀と呼ばれた3尺(90センチ)以上の背負う太刀も現れた。刀身、身幅もこの時代が一番長い。要は大仰である。声高に自己主張しなければならない時代だったのだろう。
当然、重さを軽くすべく重ねを薄くしたり、刀身に沿ってみぞを彫ったものが多くなっている。後の安土桃山地時代には、これを短くし、無銘の打刀になった太刀が多い。
室町時代――戦国の世、太刀から内刀へ
この時代の日本刀は、応仁の乱を分けて見るとわかりやすい。
前期は鎌倉時代の作刀風となり、南北朝時代の大仰さは失せ、身幅も切先も細くなっていった。ただ鎌倉時代の太刀の反りが全体に強かったが、この時代は先の反りが強くなる。
初期の長さ2尺3、4寸(69.7~72.2センチ)が多かったが、後期は2尺前後が多く、長くても2尺3寸。これが打刀だ。この時代の特筆すべきことは、太刀から刀に代わっていったことだ。室町時代が「古刀(ことう)」の最後であった。
太刀は刃を下にして帯取りで佩用する。要は吊るす。刀は刃を上にして腰に差す。腰帯の間に入れる。このことから打刀とも云う。太刀は「佩く」、刀は「差す」、これは覚えておこう。銘は差すとき中心の外側に切ることになっている。ゆえに太刀と刀では逆になる。
室町時代が「古刀(ことう)」の最後であった。桃山時代―江戸時代――江戸時代末期から明治初期は次回で。