〈第十話〉
地鉄、刃文に見えるのは己の心に刻まれた光景
イザナミは火の神を生んだときに産道を焼いて死んだ。
刀鍛冶が鉄を焼く炉をホド(火床)と云い、ホドの炎の具合を見る穴をホド穴と云う。
ホドは女性の性器を指す隠語「ホト」からきている。ホドの中で鉄が燃えているのをホド穴から覗くとホトによく似ているからだ。
砂鉄から鋼鉄をつくる作業は、古代では神秘的なこととされていた。赤子が誕生することのように。
「古事記」のイザナミの話は、ホドが子宮の役割を果たしていることを教える。また鍛冶技術は産婆術になぞられていた。柳田国男は「狼と鍛冶屋の誕生」で、鍛冶屋の妣(母)が産婆の前身であるという考えは古代からあると云う。狼が安産の守り神であるのも古代からだと。
「日本刀女子」よ、刀鍛冶になるなと云ったのは、貴女の産道を焼いてしまうからだ。刀鍛冶でなく、刀鍛冶の母になれ。
さて、冗談はともかくとして高野行光{ゆきみつ}刀匠。
高野刀匠、「刀匠」などと呼ばれるとこそばゆいだろう。なにせ高野さんの師は「刀匠と呼んでくれるな、刀工、刀鍛冶で結構」と云う“奇人”である。天才の名をほしいままにした刀鍛冶は永遠に弟子は高野刀工ただ一人とした。
師の“奇人”を継いで“奇人”になったわけではない。“奇人”同士だから生涯一師一弟子であろう。“奇人”と云うが、新聞に出てくるような奇人、変人のたぐいでもない。刀匠らしくないから刀剣界では奇人呼ばわりされたのである。
高野行光の経歴も、師の大野義光の経歴も省く。
経歴など誰も知ることができる。昨今、ネットで手軽に仕入れられる経歴を知って、<知ったつもり>になる罠がネット社会の負。肝心な事が漏れる。Face book常用者が陥る罠。
拙著『サムライと日本刀――土方歳三からの言伝て』の筆をとりはじめた頃だ。胸の奥がなにやらざわつく。肌も危険を察知したような触覚を感じた。
なにか大きなカン違いしている。脇の名刀の鑑定・解説本を横目でみた。
日本武道具さんの主{あるじ}に頼み、作刀体験の「小柄工房」の師だった高野刀工に読んでもらうことにした。拙著の奥付からして七年前だろうと察する。
高野刀工がどう云ったかは覚えていない。
ただすぐ「わかった!」と胸の奥で膝を打った。地肌(地鉄)、刃文は見る者によって違う。己の心に刻まれた光景が浮かびあがるのだ。それで好い。四百年前の鑑定書の文言をなぞることはないと。
帰宅し、すぐ書き直しをはじめたのはよく覚えている。ネタ本の名刀の鑑定・解説本を“捨てた”。
司馬遼太郎の数々の名作にある日本刀観は、江戸庶民の<名刀伝説>がネタ本であり、司馬自身がいつしか“名刀伝説史観”に落ち入っていると弁じている矢先、自らも落ち入ろうとしていたことに気づかせていただいたのが高野さんだ。
いま流行りの名刀伝説本も大和撫子の復古ブームの余波だろう。名刀伝説に口角泡を飛ばしても、いずれ消えていくだろう。
なぜか。名刀伝説にいまどきの人間が食いついてもわかろうはずがない。
魂や霊が手の中につかめる信仰、宗教、もっと云えば精霊を信じるアニミズムがなくてはわからないからだ。魂や霊を心底、信じている者が焼けた鉄を打っていた。武将はだれも自分の守護神と共に戦っていると心底、信じていた。
泰平の江戸庶民はすでにわからなくなっていた。ましてや現代人はなおさらだ。
刀工以外の“現代人”が日本刀を肌で感じるにはイチからはじめなくてはならない。小刀製作の一日鍛冶体験がよい。ホドの中で鉄が燃えているのをホド穴から覗き、火の神の神秘をかいま見ることだ。ジューという響きを聞く焼入れをし、水の神の神秘をかいま見ることだ。
男女問わず素人に小刀製作させることは“奇人”だからできたことだ。
談余。先の武道通信かわら版で記した。
「鍛錬」との言葉は中国から伝わった。「百錬鉄」と云うものがあった一度折り返して鍛錬すると二錬。二度折り返しすると四錬。七回すると百を超える。「百」はと多いとの意味。そしてその意味するところは鍛錬の回数、「結果」だ。
日本の「鍛錬」とは折り返して、大小の鎚で相槌を打ち、汗水流す、その「過程」を云う。その後、この刀鍛冶の「鍛錬」が日本人の「修養・訓練を積んで心身を鍛える」美徳となった。
日本武道具さんのHPにある「作刀工程は日本のものづくりの原点です」
小刀製作を試す男女、この心をしかと胸に折りたたんで試されよ。