再び日本刀が心魂となる日

 

「刀女子」が火付け役になったのだろうか、店頭に大判の豪華な日本刀本が並ぶ。パラパラとめくってみた。

 

日本刀を日本工芸最高峰の「美術品」から一歩外れて見てみよう。

日本刀は、サムライ独自の剣法を生んだ。

青竜刀、フェンシングの片手での半身構えは、相手の剣先から遠ざかろうとする本能的恐怖心からだ。日本の直刀時代もそうだ。

湾刀の日本刀を持ったサムライは、胸を開いての諸手(両手)で持つ法をつかんだ。刀と身が一つになって動く。刀が光なら影となって付き添う「刀身一如」を生んだ。これが日本の剣術の原型。いまある竹刀剣道のルールは日本でしかない。

同時代に生まれた能、茶の湯の身体動作の美と共時(シンクロニシティ)していた。拙者は剣術が能、茶の湯に先んじていたと確信する。

 

さて、時代は下って、幕末の国防の危機、尊皇攘夷。日本刀はナショナリズムの心魂となった。

明治以降、日本刀は武器として無用なものになった。

しかし、西洋列強の「神は一つ」の強さに「国家神道」で立ち向ったとき、日本刀はナショナリズムの心魂となった。

戦時、「武運長久」を日本刀に託した。特攻隊員は靖国への道しるべとした。

敗戦、GHQは日本ナショナリズム撲滅策で、まずもって日本刀を封印した。「美術品」をお題目に生き延びるしかなかった。

 

 日本刀本には、これらを物語る、痕跡は一つもなかった。日本刀と日本人の未来との思索がない。

もし、これら本の編集士に<日本刀と日本人の未来>との思考の一片でもあったら巻末の囲みでよい、編集後記でよい、“村で一番小さな刀鍛冶屋”小柄工房の取材記事があってしかるべきだ。

小柄工房では近年、おんな鍛冶が増えたそうだ。追体験の希望もおんな鍛冶が多いとのこと。

 

日本人及び日本国に、再び日本刀が心魂となる日はあるのだろうか。あるとしたらどのような「かたち」であろうか。