<第六話>
「サムライの国」
この一文は、きのうの草莽・杉山奮戦日記のつづきである。
砂漠での人質事件の一報が流れたとき、「アフガンのサムライ」の顔が浮かんだ。
先日の奮戦日記でこう記した。
《その昔、「アフガンのサムライ」と稱された漢{をとこ}がをりました。
漢は常に二つの手榴彈を身につけてをりました。
一つは敵に投げるため、一つは自分の顏を爆破するため。
日本國に迷惑をかけないために。》 *奮戦日記は旧漢字・かな
先の土曜、日子流体術の本部道場を尋ねた。
http://hikoryu-taijutu.jimdo.com/
宗家、弟子たちに小太刀の稽古をつけていた。
目録に「小太刀は武士が身を守る最後の武器であり、捨て身となって刺し違える気概の剣」とある。
「アフガンのサムライ」であった体術宗家の田中光四郎が、剣と取ったとき刺し違えの小太刀となった。
拙者、真剣刃引きによる試合を体験したとき、三島由紀夫らが論するところの「自己尊敬、自己犠牲、自己責任」の三点セットの武士道でない武士のエートスを体感した気がした。
この三点セットは、新渡戸稲造『武士道』の「自己責任」「他者への配慮」「義務の遂行」の西欧貴族(騎士)の「ノーブレス・オブリージ」(身分にともなう義務)がベースにある。
いまだに、これが武士好きな御仁の武士道論の根にある。
『葉隠』を熟読すると、その対極の武士道がみえる。
これを記すと、とてつもなく長くなる。
で、「つづき」の「自己責任」の一席。
いま一日に何十回も写真が流れている日本のジャーナリストは、イスラム教スンニ派過激組織(ISIL)に拿捕されないと信じていたのだろうか。必ず生きて帰ると言い残していたのだから用心はしていたのだろう。
が、拿捕された。
いま、祖国に多大な迷惑をかけてしまったことを悔やんで、獄舎で居ても立っても居られないであろう。
サムライではないから、自害する毒や武器を持っていなかったこと責めてもせん無い。
「いざ本当に死ぬと決心したとき死ねるか」と、戦って死ぬためにアフガンの地を踏んだ「アフガンのサムライ」でない。
生活のためのジャーナリス。写真・記事を売って、家族を養う糧にするジャーナリストである。
このジャーナリストは自業自得である。自己責任であるから莫大な身代金を税金から出すことはない論。
同じ同胞であり、「人命尊重」からして救うべきだとのメディアが代表する論。いや、これは日本国政府の論である。
「自業自得」と「自己責任」とまったく違う。
「自己責任」の語は外来語からの翻訳造語だ。当然、敗戦後の言葉だ。
自己責任は西洋概念の「個人」における、いまの「責任」である。
仏法語の「自業自得」は「縁」(社会)の中での因果応報で、未来に敗者復活戦が含まれている。
ゆえに武士の辞書に「自業自得」はあるが「自己責任」はない。
「人命尊重」は現日本憲法の背骨、理念である。
別名「平和憲法」。またの名を「無抵抗主義憲法」
この憲法の下で68年も暮していると、日本人の背骨がまがってきた。
「人命尊重」以上の、自国、国民を守るという国家理念を持てなくなったしまった。
これが二つの文明の衝突に泡を食い、オタオタしている日本政府であることをメディアも当然、見えてないから同様にオタオタしている。
ISILどもに、このニュースをアラビア語に訳して聞かせやったら、腹を抱えて大笑いする。
女子学生による惨殺事件が報じられた。
いま日本の若者たちが、人命尊重以上の国家理念をもてない国の病に冒されている。
これに気づいている大人はいるのだろうか。
泡を食い、オタオタしている政府は気づいているだろうか。
テロリストが国家をつくれる時代だ。
日本列島内に「サムライの国」をつくるときがきたのではないか。
日本列島内に原油は出ない、資金をどうするか。
アフガンのサムライと傘貼り浪人のスポンサーになってくれる篤志家はいないものか(呵呵)。