SAMURAIのいろは 其の<よ>

――夫婦の閨<ねや>の作法でサムライも四十八手使ったか?

 

武士モノ考証で、まったくわからないのが夫婦の閨<ねや>の作法。

 「東海道膝栗毛」の弥次さん喜多さんが、大名行列を見て、昼は大勢のサム

ライに囲まれ気が抜けないし、夜は夜で御女中に囲まれ、殿様は寝るヒマもな

いだろうと半分同情、半分やっかんでいる。

 これが庶民の大名の夜の生活だと思っていたのだろう。つまりは大名の私生

活は庶民には伝わっていなかった。

 

 大名の夜の生活を想像するには、大奥の資料から将軍の閨房の様子を探るし

かない。当然、将軍家に倣<なら>であったろうからだ。

 

 将軍家には「御精進日<おしょうじんび>」がある。先祖、親の忌日<きに

ち>命日は身を清めていなければならない。つまり、将軍は大奥へいけない、

いや行っても正妻、側室と閨<ねや>を共にできない。これが月に十日は以上

あったという。江戸末期の将軍は、もっとあったろう。

 いまの公方さま(将軍)は側室が何十人もいるとかの噂は、江戸八百八町に

も、それとなく立つだろう。弥次さん喜多さん、大奥をハーレムのように思っ

ていたろう。

 そうではなかった。将軍の中で一番に大奥通いが頻繁で、十数人の側室がい

た家斉でもスタンバイできるのは多くて三、四人だったろう。

 つまりこう云うことだ。正妻には定年制があった。いや、閨<ねや>だけの

ことであるが。三十歳だったか。それ以後の出産は、當時では赤子だけでなく

母体が危うかったからだ。側室も同じ。

大名の正妻は定年になると、自分の側女から気立てがよく、育ちがよく、器

量良しを推薦する。定年すぎても閨を譲らないと、奥樣、スキモノねなど陰口

を叩かれる。

 補足。サムライの妻女は女の特性とも云える嫉妬を抑えるのが美徳であった。

サムライは妬み、嫉妬を警戒した。それは勝負の感を鈍らし、命取りになるか

らだ。だから妻女もそれに習った。

 

大名は大抵、トータルで七、八人の側室をもった。男児を産むためだ。

一人では安心できない。當時の死亡率の70~80%は子供だった。

男児が無理とわかれば早めに親類縁者から養子をとる。

 これは平の武士とて同じこと。武士とは世襲である軍人である。跡を継ぐ男

子がいなければ武門は廃業である。

 

 さて、では閨ではどんな作法であったか。これはかいもくわからない。古文

書の資料などないからだ。あるのは廓、花街の浮世絵の春画、あぶな絵である。

要は四十八手あったわけだ。では、サムライも四十八手使ったか? 使いたか

ったが使えなかった……というのが真実だろう。

 

 戦友である妻に、廓の女郎のように扱えなかったし、妻の方も、閨で快楽に

走ったら女郎と同じだとプライドが許さないだろう。これは将軍から大名、旗

本、その他、平の武士まで似たようなものではなかったか。

大名たちは、よく吉原に通った。家老などの名家のサムライから平まで。

つまり……。もし、夫が四十八手に走ったら「殿、それは廓でどうぞ」と気丈

夫な妻から云われていたかも知れない。

 

 サムライは武門を残すために結婚した。子孫を残すことである。閨<ねや>

はそのためである。夫婦の不文律で快楽は建前として認めてはいなかった。

あくまで建前だと、もう一度云っておこう。

 

 元サムライの妻女が廓の女郎に身を落とすと、廓では「お武家の女だ」と大

宣伝する。客は一度だけでもお武家の女をと色めくが、すぐ醒める。何の反応

もないからだ。いや、頑なに閉じているのだろう。それは庶民に身を任せる屈

辱からでもあろうが、閨での快楽の訓練ができていないからだ。

 

そう、武士の夜具は袖のある掛け布団のこと。武家専用夜具だった。世も

下ると裕福な商人、廓の花魁がマネした。庶民は綿入れの夜着、掻巻<かいま

き>をかけて寝た。いまの四角い上掛け布団が現れたのは江戸も末になってか

らだ。

 拙者が十八の春、“江戸”に出てくるとき家人は、この袖のある夜具を作って

持たせた。五月人形の武者の鎧姿のような華やかな色合いだった。嫡男の初陣

だったからであろうか。