SAMURAIのいろは 其の<れ>

――妖刀村正、徳川家ご法度は作り話

 

前回、戦国と江戸のサムライの違いを述べた。これは諸説云々す

るより武士の魂の剣を見れば一目瞭然である。わかりやすく云えば、

戦国の剣は長くてゴツイ。江戸の剣は短くなってスリムになった。

 

 いまの世では美術品とだけなった日本刀と違い、武器であるから

戦さの方法によってそのかたちは変わる。騎馬での弓矢が主流の鎌

倉から戦国の鑓、そして鉄砲が幅を利かす信長、秀吉の世へ変わっ

た。大阪冬・夏の陣を最後の合戦としたかった徳川幕府は「元和偃

武」(武器はもうしまおう)を宣し、サムライは大小二本差しを定め

とした。要はシンボル化したかった。その移り変わりをもっと詳し

く知りたい御仁は、当HPにある拙者の「日本刀 日本人の自画像

をお読みくだされ。ここでは戦国と江戸のサムライの気質を誰もが

知る逸話で述べたい。

 

 徳川将軍家ご法度の剣である血に餓えた妖刀、村正伝説はご存知

であろう。血に飢えた、人殺しの大好きな剣とされた。

家康の祖父が村正で斬り殺された。父も、家来の裏切りで村正の

脇差で暗殺された。嫡男の信康が、織田信長から自害に追い込まれ

たとき、村正が介錯に使われた。

これは「徳川実紀」にある。歴代将軍の出来事と逸話を集めたも

のだ。で、家康は「今後、当家に村正があったら即刻捨てるように」

と命じたとの話になった。江戸の世、村正は忌むべき刀となり、こ

れを持つものは徳川に弓引く心がある者とされた。

討幕をめざした幕末の勤皇浪士は競って村正を持ちたがった。勤

皇浪士は「徳川家ご法度の村正」を信じていたのだ。たから偽村正

が数多く打たれた。後年、西郷隆盛が偽村正をつかまされたとか、

真田幸村が村正を振りかざし、家康の本陣を突いたとか尾ヒレがつ

いた。

 

 実は、家康は村正を二、三振り持っていた。その一振りが名古屋

にある徳川記念館に保存されている。徳川家の末裔は、家康が村正

をご法度にしたことを完全否定している。

尾張徳川家も持っていた。寛政の改革の松平定信もしかり。定信

は吉宗の孫で、御三家に継ぐ格式の、将軍を継ぐ資格を持つ御三

卿の生まれである。「徳川家ご法度の村正」なら持つことはない。

 

「徳川実紀」の資料は明暦の大火で焼かれ、その後、史料を寄せ

集めて、また編纂された。ここで家康はこんなことを云ったとの話

になったのだ。

江戸中期の幕府御用儒学者、新井白石は徳川家に恩がある者は、

村正を持つなと自書で書いた。白石は、どこからネタを拾ってきて、

この理屈をつくったのだろう。白石が書いたことで、徳川家呪われ

た刀。忌むべき刀説が広まった。

村正を持っていたサムライは慌てて銘を削ったりし、売り飛ばし

た。買った刀剣商は売れないから、銘をちょっといじって「村正」

を「正宗」とした。正宗の偽モノが多いのはこれである。

 拙著『使ってみたい武士の作法』では、江戸中期の武士の作法とのこと

から「徳川実紀」に即して述べておいた。このような捏造が信じ

られたのも、江戸の中期以降になると、戦国の気風はなくなって

いた証拠である。

戦国武将は仏教の根本思想である因縁生起、つまり縁起などはか

ついだ。それに古くからある古代支那の易学、陰陽五行説で天地の

変異、災祥、人事の吉凶を占った。科学的現代人からすれば迷信で

ある。ここが違う。これを忘れると「心の時代考証」は見えない。

これを忘れた時代考証モノが多すぎる。

神仏に武運を心底祈った。戦いは天候に左右される。視界が良い

とき、悪いときでも運不運がある。雨、風も同じこと。勝か、負け

るか。人智が及ばないことは神仏、天に祈る。無線やレーダーがあ

る科学文明の恩恵を受けている我らにはわからない。

が、人力人智が及ぶことはリアリズムに徹した。鋭利な武器を持

つこと、この合戦にはどんな武器、作戦を使うかということだ。そ

れと陰謀もその一つだ。

 

家康が村正を持っていたのは、家にとって不吉かどうかでなく、

よく斬れる優秀な刀だったからだ。屍山血河<しざんけつが>を経

験した者は、よく斬れるかどうかが大事だった。それが戦国のサム

ライであった。家、武門を守るには勝たねばならぬ。そのために優

秀な武器は欠かせない。

サラリーマンになった泰平の江戸のサムライは、それを忘れた。

あいつは村正をもっているとの同僚の御注進を恐れた。戦さが本業

のサムライが何百年も遠ざかればしかたがないか。

でも家康さん、いまだ村正伝説を信じている現代の講釈師に「ワ

シは村正を持つななど、料簡の狭いことは云ってない」と泉下で怒

っておられるだろう。