SAMURAIのいろは 其の<そ>
――サムライは鉄砲が嫌いだったのか?
江戸初期の流行語大賞に「入り鉄砲に出女」があった。これは
関所の第一の仕事が、鉄砲が江戸に入ることと、江戸に人質に
とってある大名の妻女が江戸を出るのを監視することだったの
をズバリ、七文字で表したからだ。
注:人質といっても外様大名の方から忠義の証しにと家族を差
し出したのだ。細川家と藤堂家が最初。で、他の大名もこれに
習った。そこから参勤交代が生まれたと説<い>う。
徳川将軍も三代、四代目あたりまでは、西国の大名が討幕の火
蓋を切る恐れをもっていた。あの戦国の下克上を、いやという
ほど見てみた記憶は、まだ生々しく語り継がれていた。
一挺や二挺の銃が関所をうまく抜けたとしても幕府は倒せな
い。倒すなら二、三千挺ぐらいの銃が箱根を越えなければなら
い。だが、幕府はなぜ一挺や二挺の銃に神経を尖らせたのか。
答えは将軍、要人の暗殺を恐れたからだ。
織田信長の設楽ヶ原での三千挺丁の鉄砲による三段撃ちの作り
話で、後世の人は、當時の火縄銃がいまのような銃と、つい錯
覚し、勝敗を決する武器だと思い込んでしまっている。実際は
合戦のいちパターンのみ有効な武器であった。あとは行軍中の
大将暗殺に適した武器であった。
小瀬甫庵<おぜ ほあん>の『信長記』は、太田牛一の『信長
公記』をネタ本に庶民向けに脚色した講談噺しである。甫庵、
末尾に「これはフィクションです」と、いまの世のテレビドラ
マのように断りを入れるべきだった。
信長と同世代の大久保彦左衛門が『信長記』を読んで、三分の
一はあったこと。三分の一は似たことがあった。三分の一はま
ったくなかったことと云っている。
歯に衣ぬ着せぬ、この戦国の生き残りの頑固爺さんは、さらに
歴史学会で一級の資料とされる牛一の『信長公記』も、所詮、
家来が書いた贔屓目の書だとも云う。
今川義元の首を取った、あの桶狭間の快挙。彦左衛門さんは信
長の謀<はかりごと>ではなかったかと疑っているのではない
かと、拙者は推察している。つまり、信長は義元に降伏を告げ
にいった。義元はそれがわかっていたからスキができた。
信長は策士の点でも超一流であった。だから天下取りの一歩手
前までいった。
長々と前口上を述べているが、さて、本題のサムライは鉄砲が
嫌いだったのか? である。だが、これがむずかしい。で、ど
う簡単に述べようかと考えあぐんでいたの前口上が長くなった
のだ。これを懇切丁寧に話すと、一冊の本になる。
これを読まれておる御仁は、時代考証の切紙(初段)は持って
おられえるだろうから、要点のみ箇条書き風に云う。ヒントと
するからあとは自分でお考えあれ。
サムライの戦闘方式は元来、一対一。首(首級)を取って勝
負が決まる。自分が倒した相手の首を持参してこそ恩賞が出
た。合戦は首取り合戦であった。が、合戦での銃で倒れた敵
の首では恩賞にならない。誰が撃ったかわからぬし、鉄砲隊
は自分が撃った武将の首を掻くヒマなどない。
武士はその昔、武士道を「弓矢の道」とか「弓矢を取る者の道」
また「弓馬の道」と呼んでいた。つまり技術を重んじていた。
習得に少年時代から何年もかかる。その点、銃は雑兵でも一ヵ
月も訓練すれば18間、32メートル離れた名のある騎馬武者
を射抜くことができた。火縄銃の訓練の的は18間。で、銃砲
隊は足軽、雑兵の役割となった。足軽の多くは傭兵である。 設
楽ヶ原の合戦の織田軍の鉄砲隊の多くは傭兵であった。