SAMURAIのいろは 其の<つ>
――江戸のサムライは、刀の使い方まで忘れてしまった
ときは元禄14年3月14日。注、15年の12月ではない。なぜな
ら場面は吉良屋敷でなく、江戸城内の松の廊下である。本丸の大広間
から白書院に通じる、要は江戸城のメインストリート。赤穂浪士討ち
入りの第一幕が切って降ろされた舞台であった。
全長約50メートル、幅4メートルの畳敷の廊下。映画や歌舞伎では
松の巨木だけが画かれているが、襖絵は松原で、松林の間から見える
海辺や千鳥が描かれている。拙者、この絵柄は東海道五十三次の沼津
宿の千本浜から見た光景ではないかと独り合点している、と云うより
も、そう信じたい、いや、信じている。これが偏狭的郷土愛と申すも
のだ(笑)。
実は、上野介に斬りかかった廊下が松の廊下ではない。仮名手本忠臣
蔵のような庶民の芝居では、その場面は、やはり江戸城のメインスト
リートとしたい。芝居はそれでよい。
正しい時代考証でなくては感動は生まれないといったものでもない。
その逆の方が多い。赤穂浪士の義士に憧れた近藤や土方は。芝居の赤
穂浪士の衣装を真似て新選組のユニフォームを作った。
では、刃傷沙汰の廊下はどこであったか。実は白書院の前の廊下だっ
た。白書院とは大広間のサブのように使う、こじんまりとした公式行
事用の部屋だ。「浅野殿、殿中でござる!」と叫んで止めた梶川何某
の日記には、白書院の前の廊下を松の廊下の方へ6~7間、向ってい
たところだとある。
まあ、そんなことはどうでもよい。本題である。
肝心なのは浅野内匠守が使った刀、いや、その使用方法である。
戦国の世から100年も経つと、サムライは刀の使い方の「いろは」
もわからなくなっていたのかとため息がでる。
浅野内匠守は、癇癪もちであのときプッツンしてしまったとの説もあ
る。が、刀の使い方は身体で覚えているものだ。頭はキレていたとし
ても刺していたはずだ。要は大刀と小刀(短刀)の使い分けを知らな
かったのだ。初太刀は吉良の烏帽子の縁に斬りつけた。
かすった程度だ。
二太刀目は、これまた背中をかすっただけ。
この刃傷沙汰が起きて、江戸のまちにこんな落首が評判になった。
「初手は突き、二度目はなどか切ら(吉良)ざらん 石見がえぐる穴
を見ながら」石見とは稲葉石見守正休のこと。この刃傷事件の17年
前、やはり江戸城で大老の堀田正俊が、若年寄稲葉石見守正休に刺殺
された。このとき稲葉は、脇差で堀田の右脇下を突き通したのだ。そ
れに比べたら赤穂のお殿様は何だ。小刀なら初手は突きでしょう。そ
んなことも知らないのと哂われた。
赤穂藩の殿様、山鹿流兵法や山鹿素行流武士道を学んでも小刀の使い
方を知らなかった。殿様であるからとも云えるが、これが江戸の武士
の風潮ではなかったろうか。頭デッカチになっていた。特に役方とい
われるデスクワークのサムライは真剣での稽古などやらなくなってい
た。
赤穂浪士となった藩士300分の47人のほとんどは番役。馬廻とか
警護が仕事の武闘派。忠義心があるかないかの前に、やはり腕に自信
があったのではないか。残りの250名ほどは。主君の仇を討ちのが
サムライの義であることはわかってはいたが、眞劍での斬り合いに自
信がなくて、腰が引けたわけだ。
余談。番役のボスが番頭。商人の番頭さんも武士語。
いま一つ。打ち下ろすから打刀<うちがたな>。この対語が刺刀<さ
すが>。突き専門の両刃の合口<あいくち>の脇指である。鍔がなく、
柄口と鞘口がぴたり合う刃物だから合口。匕首とも書く。ヤクザの得
物である。皆、ご存知のように、ヤクザの殺法は、この合口での突き
である。