SAMURAIのいろは 其の<う>

――サムライ共通の信仰とは?

 

前回、戦国のサムライが正常な神經を保ちえた助けとなったものに二

つある。茶湯(茶道)と禅であると述べたが、もう一つ、肝心なもの

を忘れていた。精神安定などではない、サムライの信仰の原点といえ

るものだ。

 下克上の世のサムライにかぎったものではない。貴族(公家)の律令

 制度に異議申し立てをし、鎌倉幕府を興したサムライ一期生、いやそ

 れ以前の平源のもののふ(「武夫」との当て字もある)から江戸幕末 の

 最期のサムライまで、この信仰はかわることなかった。

 

異国の船が沿岸近くまで頻繁に現れ、支那の阿片戦争の脅威を肌で感

じていたころだ。この信仰心が沸騰した。それはたった一編の詩

(漢詩)だった。

正確の云えば戦国の世のピリオドを打った大阪夏の阪陣から213

年後、儒学者(当時の知識人&学者は皆、儒学者)頼山陽<らいさ

んよう>の漢詩集『日本楽府<にほんがくふ>』が刊行された。そ

の中の一編「蒙古、来<き>たる」の一節。

「羶血<せんけつ>を尽くして日本刀に膏<あぶら>せしめず」―

―現代訳にすると「日本刀で蒙古兵をバッタバッタと斬り倒し、鍔

元から中心に血が滲み込むまでの血刀としたかった」。つまり、神風

をありがたがってはいない。神風が吹いたせいで元寇は逃げてしま

ったと残念がっている。

 「そうか、腰に差しているのは日本刀と云うだな」……。実は幕末ま

 でサムライ自身、腰に差したものを「日本刀」とは呼んではいなかっ

 た。たんに刀。俗に腰のもの。

 攘夷に燃え上がっていた憂国の士は、頼山陽のネーミング「日本刀」

 にしびれたのだった。泰平で本業の戦さと無縁になり軍人<いくさび

 と>であることを肌身から抜け落ちていたサムライは、戦うアイデン

 ティティを見つけた。蒙古襲来のときのように「日本刀」で日本を守

 るのだ! と血潮がたぎった。

 

刀は骨を断ち切り、肉を裂き、血を吸う凶刃である。だが、日本の刀

は火と水をくぐり、美と清明さを宿した神器でもある。サムライが二

律背反を生きてこれたのは、日本刀を常に腰に帯びていたからだ。ゆ

えにサムライの信仰となりえた。ここをしっかり抑えておいていただ

きたい。

 日本刀あってのサムライである。他国の軍人と違うところだ。

答え、サムライ共通の信仰とは日本刀である。

 

余談。元寇(文永の役 弘安の役)は「二度とも大風が起って元艦の

沈没するものが多かった」(広辞苑などの辞書)は後世の創作。撤退

のわけは別にあった。祈祷で神風が吹いたと天皇に肩を持たせたの

だ。

 鎌倉幕府が興り、武家が政権をとったと云うが、当時、三つの権力が

 あった。天皇(公家=貴族)、宗門(寺)と武門の三つ巴であった。

 法律、治安、国防などは武士が仕切るというものであった。民は天皇

 と仏を崇め、治安(平和)は武門に託していた。

元寇のとき鎌倉幕府が生まれていなかったら支那大陸、朝鮮半島とと

もにモンゴルの植民地になっていた。天子樣の祈祷、仏にすがっても

モンゴル兵を撃墜できなかった。