SAMURAIのいろは 其の<の >

――サムライだけが軍馬を去勢しなかった

 

 武門とは戦闘術の継承であると前回で述べた。

 武士の興りは「弓馬の道」であった。武門の家は「弓取り」「弓馬の道」と呼ばれた。槍や火縄(銃)の出現で、弓は裏方にまわったが、徳川家康が「東海一の弓取り」と呼ばれたように武士=弓のイメージは消えることはなかった。

 

 現代の礼儀作法の原典「小笠原流」の興りは武士の弓馬術であった。室町時代になると、武士も為政者として公家衆のように礼法を学ばなくては、との気分が高まり、故事来歴や儀式、冠婚葬祭の服飾にもこだわりはじめた。小笠原流の弓馬に「礼」を加えた。これが武士の行儀作法となった。

 

武士の興り頃の戦闘の多くは、歩兵と轡<くつわ>取りを従えた20、30騎ぐらいの一族郎党の軍団が、「やあやあ、我こそは」と名乗りを挙げてから各一騎対一騎の、まさに一騎打ちだった。

武士の男子は、骨格が固まってきた頃から乗馬、弓の練習をした。一族郎党の興隆、滅亡は弓馬の腕前にかかっていた。馬上で向き合い、よーいドン!で馬を奔らせ矢を弓につがえ、鎧兜のスキ間、相手の顔と喉を狙って射る。

弓道競技の的(霞的)の大きさは、これに由来する。弓馬の道の残滓がいまなお残る。

弓は、梓<あずさ>の木で造った丸木の弓から、竹と木の合成弓の伏竹弓となり威力が増した。鎌倉時代になり、竹を合わせた三枚打弓が登場。さらに威力はました。戦国の世の弓は、竹の使用法をさらに改良した四方竹弓。

 

江戸の京都三十三間堂通しは、さらに改良されたものだった。初代チャンピオンは、慶長11年(1606年)の百本中51本。最終チャンピオンは八十年後の貞享の世に8133三本。 放った矢は1万を越えた。

表舞台から去らざるを得なかった弓が“スポーツ”で復活した。何せお互い殺傷せずに済む。藩の面子がかかり大いに盛り上がったが、幕府は、これは行き過ぎと、藩対抗戦はご法度となった。

 

馬に目を移そう。日本の原産馬は、ポニーより一回り大きいぐらい。とはいっても、騎乗のあるじの体重プラス鎧兜で、百キロはある。まさに「馬鹿馬力」。それに気性が激しい。去勢していないからだ。幕末に来日した外国人が、「日本には馬に似た野獣がいる」と本国に伝えた。

 

いざ合戦のとき、敵味方のメス馬めがけ駆け出すオス馬も多く、混乱した。

が、サムライは去勢しなかった。これは日本の軍人<いくさびと>だけだ。

去勢しないのには原日本人の心証があったことだろうが、軍馬に限って去勢してもよかったはずだ。

馬も戦友と考えていた。映画、TVでは絶対出てこないシーンだが、馬も戦っていたのだ。背のあるじ(戦友)に襲いかかってくる敵に前足で襲いかかったり、後足で蹴り飛ばしたり。

馬を知る御仁ならわかるだろう。馬は犬に劣らず利口だ。敵をしっかり見定めることができる。馬は戦友。拙者は、軍馬を去勢しなかったことにサムライの原像を見る。

 

いまでは見ることもできなくなった騎乗術も多くあった。たとえば馬上から降り立つ術、「離乗」(りじょう)。傷を負ったりバランスを崩したとき、体勢を立て直すためだ。

足並みも多々ある。礼法のもの早駈けのものなど。これも「人馬一体」でなければならない。だからサムライは馬を大切にし、可愛がった。人馬一体との熱き思いがあった。

 

余談。現代の弓道で、かかすことができない弽<ゆがけ>。語源は「かけがえのない」の「かけ」。生涯、これだけを使い切るものとされるからだ。拙者が弓を始めたとき、すでに弓は引いていなかった亡父の弽を譲り受けた。

亡父が旧制中学時代に作った弽だ。差し引き60年近い前のものだった。