SAMURAIのいろは 其の<ふ>

――首狩り族サムライの首実験のマナー

 

サムライは、有史最強の首狩り族であろう。それも最高の礼法を持った首

狩り族であった。が、西洋文明をコピーするとやらの文明開化で、首狩り

は野蛮の証拠とされ封印された。戦国モノの時代劇でも首狩りシーンは御

法度となった。

NHKの「江」が、新しい戦国の姫像に挑むなら、ついでに戦国の武士の

娘たちの花嫁修行の一つ「首化粧」の練習シーンでも入れてほしいものだ。

まあ、NHKであるからしても無理であろう。

 

首実験の文献は、平安時代末の『東鑑<あずまかがみ>』に出てくるのが

最初。首実験のシーンが詳しく出ているのが、源義経が一の谷での平家と

の合戦に勝ち、平家の武者たちの首実検をした模様。首実検といっても科

学実験室でやるわけではない。大抵、寺の境内を借りていたようだ。山門

の中と外を実験場と首置き場の区切りとした。山門がない場合は幔幕で分

けた。

 

首実検は勝ち組にとっての最高のイベントである。論功行賞、手柄のご褒

美を大将から確約してもらう儀式である。と同時に、敵ながらあっぱれに

戦った武者たちの亡骸への畏敬の念を表す厳粛な儀式でもあった。

今度つくるハリウッドのサムライ映画に、ぜひ、この首実検儀式を入れて

ほしいものだ。敗者に対する「礼」こそ武士道であったと、世界へアピー

ルしてほしいものだ。日本の映画、TVは、我ら祖先が首狩り族であった

ことを忘れたふりしてスルーするのだから。

 

さて、義経の首実検。

大将義経は、中央に置かれた床几<しょうぎ>にデンと座る。膝に鞘を外

した薙刀(長刀)をのせている。脇に弓持が控える。

その左右前方に副将ら重臣が騎乗で居並ぶ。その数三十騎ほど。義経の後

ろにも騎馬武者五百騎が控える。門前の100メートル先、200メート

ル先にも騎馬武者が鎧兜で身を包んでいる。

台にのせた首を見せる者、奏者は山門の外に控えている。首を見定める実

検者は山門の中。両者とも同じく鎧兜で身を包んでいる。要は武者の礼服。

これは死者への礼である。

 

さて、一同、座に収まると弓持が義経に弓を渡す。義経は座ったまま受け

取り、弦を内側にして地面に立てる。これが首実検開始の合図。

これからが長い。身分で違った首の持ち方から、首を見るときの義経の見

得の切り方などなど……。以下省く。つまり大イベントであることがわか

ってもらえればよい。

一つだけ。首実検といっても身分により呼び名が違う。敵の大将や貴人は

「首対面」馬上の武者は「首実検」。徒立<かちだち>の葉武者は「首見知

り」。

 

日々、合戦が続いた戦国の世の首実験も、これを基本としている。すると

織田信長はやはり異端、革命児だった 妹のダンナの髑髏<しゃれこうべ

>で酒を飲むのだから。

切腹作法の介錯人のはじまりは、敵に首を取られないため、首実験させな

いためであった。家臣が介錯し、首を持ち去った。敗軍の将となっても敵

に首を取られの最大の恥辱であった。

 

首を胴体から離すことで敵の、死者の怨霊を払う。首を取ってはじめて討

ち取ったとする。天誅は留めは首を狩ること。桜田門の変、殺すだけなら

拳銃で充分。なぜ、リスクを犯してまで首を狩るのか。首を狩ってはじめ

て天のくだす罰、天誅となるのだ。拳銃なら私怨のテロでしかない。首狩

り族には首狩り族の信仰がある。

 

支那事変で大陸に侵攻した日本軍将校は、みなサーベルを吊るしていた。

邪魔よりカッコ良さを選んだであったろうか。支那人は首と胴体が離れる

と、輪廻転生できないとの信じていた。その恐怖心は大きかった。その実

益があったからだ。

 

正月早々から首の話で恐縮だが、正月の門松に「甲斐武田流の門松」とい

うのがある。普通、門松は竹を斜めに切るが、これを首切り型といって忌

み嫌い、平らに切る。戦国の世の敗者の遺伝子がそうさせた。

そう、門松の竹を斜め切るのは怨霊を絶つためでもあった。ここにも首狩

り族の遺産は引き継がれている。