――サムライの首の狩りでわかる「日本は一国文明」
首狩りは隣の支那にも世界各地、各文明にもあった。だが、厳粛、神聖な首実検。
そのための首化粧。他では見ない優しい首狩り族。やはり、サムライは人類史上最強の首
狩り族であった。
その技術も、「技術立国」と称せられる日本。首狩り技術は世界寃純唐ナあったろう。
太刀、打刀で斬るだけではない。首狩り用の刀が三種類もあった。
一つ、脇指。二つ、鎧通<よろいとおし>。三つ、馬手差<めてざし>。
脇指は、太刀の脇に差すから脇指と云われた小刀。江戸時代のサムライが差す脇指は首狩
り用ではなく、自刃(切腹)用の刀となった。
鎧通は、両刃の短刀で鎧の隙間を狙い、刺すためのもの。鍔はない。突き専門の錐のよう
な武器と思えばよい。これも首を狩るとき使った。
馬手差は、右でなく左腰に差す。敵と組討になったとき、利き手ですぐに抜けるためだ。
それを右手<めて>で抜く。だから「めてさし」。
なぜ、馬の字が当てられたか。サムライに「右手を出してください」と云っても???。
右手を弓手<ゆんで>といわなければ通じない。弓を引く手。左手は馬手(めて)。
馬の手綱をとる手であるからだ。
現代のサムライたらんとする者、右手はユンデ。左手はメテと呼ぼう。
合戦の最中で首を狩るには小刀、短刀がよい。どうしても組討になる。従者である若党に
押さえ込ませてから狩ることも多い。狩った首を持つのも若党。
鎌倉時代の戦法は、薙刀、太刀をもった従者を引き連れた二十騎ほどの集団同士が広地で、
まずは名乗りをあげてから弓箭<ゆみや>を射てからはじまる。目的は敵の騎馬武者の首。
従者ら雑兵<ぞうひょう>の首を取っても功名にならない。
時代はさがって、応仁の乱あたりからは従者、足軽も首を取るのは功名の証となった。
槍一本で大名への戦国ドリーム。
大阪の陣、三五六〇の首を取った家康の孫(越前忠直)は、得意満面で家康に報告。
恩賞はいかほどかと期待したにも関わらず、たった茶碗ひとつ。
家康の理は、勝ち戦とわかっている合戦で、逃げる兵の首を狩っても戦局には関係なかっ
たとの判断。
たしかに戦いの方法が一対一から集団戦になることで、首狩りの功名も変わってきた。
だが、時代の流れもあっても、その地下水流には他国(他民族)の首狩り族にはない、
サムライ独自の首狩りのエートスがあったからだ。
ここからが肝心。これは話すと長くなるから手短に。
例えば支那。敵(他部族)を殲滅(皆殺し)してから首狩りをする。日本は大将の首狩り
合戦。大将の首が取られたら負け。敵より兵の数も多く、余力があっても。
なぜか。
戦さは人材の確保が大事。人的財産が大事であった。敵のなかに優秀な者を登用し戦力を
高める。持ち駒(手駒)に使う。これが日本に奴隷制度が生まれなかった証なのだ。余談。
敗軍の武士が潔いよく腹を切れば、天晴れと勝軍の将はその子らを登用した。
支那の碁と日本の将棋。これらの源流はインドから広まった盤を使った遊び。敵の駒を自
分の駒として“生き返させる”将棋は日本だけ。
大和朝廷のころ、征伐した蝦夷<えみし>も奴隷にすることなく優秀な者は官位も与え
同化を計った。これは、それよりもっと前の、この国の成り立ちから発しているのだ。
ということで、サムライの首狩りは野蛮ではないと、わかっていただけただろう。