――サムライは弁護士が嫌いであった
* 「いろは」の「あ」は36番目。残り「<あ>さきゆめみし ゑひもせす」
である。大震災でアドレナリンが沸騰し、本宅の草莽奮戦日記に日々、綴っているため、
つい、ご無沙汰している。
次回で「切腹が作法になった」わけを述べる――としたが、失念しいて草莽奮戦日記に
「サムライは弁護士が大嫌いであった」と予告してしまった。
で、「切腹が作法になった」わけをひと言で述べる。
乱世が終わり江戸になり、切腹が武士の刑罰となったことから作法ができた。
切腹は殿様から命じられた刑。厳粛な儀式。刑罰と云っても「名誉刑」。情状酌量がない
悪行の場合は切腹は許されず、斬首のみ。
赤穂浪士を斬首にするか、切腹にするか、二、三日もめた。
切腹の作法は拙著「使ってみたい武士の作法」で綴ったが、これは上級クラス。下級武
士とでは異なるし、また、お国柄でも違う。当時は武家の棟梁徳川家を戴いた合衆国だ
った。
共通していることは介錯人がつくこと。切腹は「上意」である。腹を割くことが怨念で
はなく、粛々と罪に服することから腸<はらわた>を露わにすることは殿樣に無礼。で、
腹の皮を裂いたところで、介錯人が首を落す。
さて、本題。
元寇の役での一番駆けの武功を肥後国(熊本)から鎌倉まで出向いて直訴した竹崎季長
<たけさき すえなが>の話はつとに有名。竹崎をそこまでさせたのはなぜか。そのむか
し、弁護士に痛い目にあっていたからだ。
平安時代まで口入<くにゅう>という訴訟の代理人が繁盛していた。
荘園の縄張りのトラブルは尽きなかった。竹崎は同族内の所領争いに敗れて没落し、所
領を失い、「無足の御家人」になった。口入を入れたのが失敗だった。口入は相手
方に親戚縁者だった。
鎌倉幕府は「御成敗式目」(第30条)で口入を禁止していた。門閥、親戚縁者の
加担行為がミエミエになってきたからだ。
一対一の勝負こそ武士。助っ人を頼むなど武士の風上におけぬ。武士のエートス
に目覚めた。竹崎も北条執権と直に談判したわけだ。
室町幕府もこれに準じた。江戸幕府も同じく。
口入は農民&町人のみ。時代小説に出てくる「口入屋(くちいれや)は私営
職安。手数料をとった。この手数料もサムライは嫌った。
江戸時代にも公事師(くじし)という訴訟の代行業がいた。弁護士を嫌う武士が為政者
であった世であったから身分は卑しかった。二束三文のように価値の少い者、「三百代
言<さんびゃくだいげん>」の語源となった。
明治になっての、いまの弁護士の始まり、「代言人<だいげんにん>」がいた。
彼らも「三百代言」と罵られていた。武士の世の遺風が残っていた。つまり、
こいつらは詭弁を使うと蔑まれていたのだ。
いまの世の弁護士、ピンからキリまでいるだろうが、社会的権威は大したものだ。
政治家に転身することからも窺える。
弁護士バッジは正義の象徴の花である「ひまわり」を模して、中央には衡平のしるして
ある天秤が彫ってある。弁護士制度が生まれた当時の、正義感に燃えた心意気が伝わる。
が、江戸の世の熊さん八さん、地獄の沙汰も金次第と知っていた。現代の熊さん八さん
も弁護士も金次第だと知っている。