SAMURAIのいろは 其の<ゑ>

 

 ――サムライは本当に桜が好きだった?

 

「花は桜木、人は武士」。この名セリフは『仮名手本忠臣蔵』。庶民の「よお!

おサムライ、日本一」の部類。

 むかしむかしは、桜は稲を植えるときを知らせる暦として使われていた。つまり農耕のシンボルの花だった。

 貴族が愛でたのは梅。荘園の作業員が愛でたのが桜。貴が梅で賎が桜。奈良時代の和歌で「花」といえば梅。

 

 この状況が一変したのが、遣唐使の廃止。大陸文化からもう学ぶものはない

と、国風文化が育ちはじめた。「おお、下々が愛でる桜も結構好いではないか」となった。平安末から桜が花の代名詞のようになった。

 ちなみに当時はまだ「櫻」との漢字は当てられていなかった。「さくら」と仮名であった。なぜなら純国産の美意識だとの自尊の精神から漢字が当てられなかった。漢字ができたのは江戸末期。朱子学に染まり、支那信仰の儒者が知ったかぶりでつけた。「櫻」は花の首飾りとの意味。まったくもって日本の意味と異なる。

 

日本の美意識の「花鳥風月」の花は桜。この当時の桜はソメイヨシノではない。山に自生して咲く山桜か八重咲きの桜。以来、さくらを詠んだ和歌が多い。その代表作が西行。

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

鳥羽上皇に仕えて北面の武士であった西行。武士には向いてないと、僧となり歌を詠んだ。当時では敗戦後の流行作家を束にしてもかなわない流行作家となった。

また、こんな一首もある。

「葉隠れに散りとどまれる花のみぞ 忍びし人に遭う心地する」

西行ファンであった山本定朝、田代陣基は『葉隠』の題名をここから取ったとの説もある。

 

 さくらの講釈はこのぐらいにして本題。

 武家は桜の家紋を嫌った。パッと散ってしまったら武門、家が長続きしない、縁起が悪いというわけだ。

 武士に「花鳥風月」は禁物。武士は現実主義、リアリストだった。勝ってナンボの武士の世界。武門を末永く栄えさせてナンボ。坊主の「諸行無常」などもクソ食らえ。

 坊主たち文書がうまいインテリは、武士が殺生から出家したなどの、ごく稀な例をことさら書きたて、自分たちの正当性を誇示した。

 

 が、この状況も一変した。合戦がなくなり武功から縁がなくなった天下泰平。武士に戦さ場の強さより為政者としての美意識が求められた。で、庶民も武辺な武士に無礼討ちされたくないから、お上品な武士像を煽った。

「武士イコールさくら」の情操操作が始まった。合戦もなくなり為政者としてのリアリティがなくなった武士も、それに乗った。

 

 きわめつけは、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」

 異国の船が日本海域を犯す時代となり、武士が危機感を持ち始め愛国主義が沸騰した。もとは庶民の芝居小屋のセリフ「花は桜木、人は武士」を武士自身が云い始めた。

 

 王政復古の大号令で明治となり、皇室は菊の御紋。元武家は櫻の紋となり、自衛隊、警察が櫻の紋章を使わされている。