SAMURAIのいろは 其の<す>

 

 「武と云うは、刀と見附けたり」

 

いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせ<す> 

 

 日本武道具さんの軒下をお借りし、締め切り日なしで、つれづれなるままに綴ってきた、この稿も最後となった。

 最後を締めくくる稿として、「SAMURAIとは何ぞや?」を一言で云い著す至言を絞ったが……

 

「武とは、刀なんだ!」――やはり、これか。

三島由紀夫は市ヶ谷自衛隊駐屯地の総監室バルコニーでの雄叫びの最後にこう叫んだ。地上の自衛隊の罵倒、上空の報道ヘリの騒音にかき消されるなか、かすかに聴きとれた叫びだった。

 

SAMURAIは絶滅人種である。

これは断言しておく。軍人{いくさびと}が武官・文官として政{まつりごと}を仕切り、それを世襲としないかぎりSAMURAIは蘇らない。

SAMURAIでありたいと願うしかない。

 

ありたいと願い、ハラキリした小説家は、いままで原稿にも、遺書にも著さなかった。檄文にもなかった。が、最期に発せられたのは、この一言だった。

本人も無意識に突然、立ち表れた一言だったにちがいない。ハラキリを覚悟していた小説家に、絶滅人種のSAMURAIが一瞬、黄泉の国から立ち現れたのだ。拙者はそう断言する。

 

三島由紀夫の「武と云うは、刀(日本刀)と見附けたり」――この至言を理解する者はごくわずかであろう。

 一国一文明の孤島のわが国にあって、他文明と戦うとき、生気を奮わせしめるのは日本刀。生の未練を断ち切ることができるのは日本刀。

 他文明にはありえない、奇跡と云うしかない鉄{かね}、作刀、研磨の製造方法。ここに日本民族のすべてが入魂されている。

 

日本刀信仰を非近代と哂えば哂え。日本刀でミサイルは落せないと哂えば哂え。これは信仰なのだ。

 いまの祖国の閉塞感、脱力感は信仰力の希薄さにある。不幸か幸福かは相対的。その点、現代人が一番不幸なのかも知れない。

 

いま、手にとどく古からの信仰心があるではないか。

絶滅人種SAMURAIの遺留品、日本刀。