藤村の煙管(きせる)
島崎藤村記念館にある、藤村終焉の地・大磯の書斎を復元した展示室内のガラスケ
ースに藤村の煙管(きせる)と煙草入れがあった。未完の絶筆『東方の門』執筆中
の書斎である。初代日本ペンクラブ会長、名実共に文壇第一人者の愛用の煙管にし
ては質素な、武州の傘張り浪人でも手に入りそうな代物に見えた。
ここ馬籠で作られた煙管か、また馬籠に縁ある人の遺品を譲りうけたか。まあそれ
はよい。小輩のリックに土産物屋で求めた安物の煙管が入っていた。どこで作られ
たかはわからぬが、あま、木曽路の竹を使って作ったと思い込んでおこう。さすれ
ば藤村と同じ馬籠産の煙管をふかすことになる。
軍歌の余韻が残っているせいで「藤村と軍歌」。
『若菜集』に始まり『千曲川スケッチ』、そして童謡『椰子の実』などの名作を持つ
藤村にレコード会社から戦時歌謡(戦時軍歌)の依頼があってもおかしくない。
軍歌の作詞は作風に向いてないと感じていたとか、また意図的に断ったのかも知れぬ。
御一新(明治維新)とは何であったか。日本近代化の過誤を問うた『夜明け前』の作者には
大東亜戦争の勝敗の行く末は見えていたのだろうか。
帰宅し、馬籠の煙管をふかし煙の流れる様を目で追う。
しかし、軍歌ではないが、当時の国民意識を鼓舞するような「朝」というのがある。
童謡のジャンルであろう。支那事変勃発の昭和12年作である。作曲は小田進吾。
どのようなメロディか知らぬが流行りはしなかったようだ。
この歌詞を最後に記す。この詩から藤村の戦時歌謡(軍歌)に手を出さなかったわけを知る
しかない。
朝はふたたびここにあり 朝はわれらと共にあり 埋れよ眠り行けよ夢 隠れよ
さらば
小夜嵐 諸羽うちふる鶏は 咽喉の笛を吹き鳴らし きょうの命の戦闘
の よそおいせよと叫ぶかな
野に出でよ野に出でよ 稲の穂は黄にみのりたり 草鞋とく結え鎌も執れ 風に
嘶く馬もやれ