日本人が帰りたいと願っている風景 

 

映画『蝉しぐれ』が日曜映画劇場なるテレビで放映されている。「いる」と進行形にしたのは、いまこの時間、放映されているからだ。テレビの前でなくPCの前で煙管をふかしながら綴っている。要は映画の仕上がりが二度観るに値しないからである。

こう酷評すれば15年の歳月、映画化への執念を燃やしつづけ完成させた黒土三男監督の原作への誠心に無礼である。が、作品の出来映えと制作への誠心とは別である。黒土監督も異議はなかろう。

 

一昨年、封切りで観た。その感想は折々に<草莽・杉山奮戦記>で綴った。

いま草莽奮戦記は、にわか「旧かなづかい」主義に凝っていて、その脈絡のなかでこう綴った。

「藤沢周平の『蝉しぐれ』を<蝉しぐれ>という語感で手にした読者も多かろうと想像するに易い。「蝉」と「しぐれ」が合わさった、その語感が音読と黙読の妙で養われた、日本語本来の眼と耳で<味わう>日本語で育った世代にはジーンと来るのだ」

 

この長編の題名につけられた蝉しぐれは、20余年後の主人公の心象風景を語るものとして巻末最終節の数行前にはじめて出てくる。それも2回だけ。

『蝉しぐれ』は山形新聞の連載小説ゆえ題名は脱稿してからではない。構想当初からこの題名を決めていた。ここに藤沢周平文学の極みがある。

 

「蝉しぐれ」は、日本人が帰りたいと願っている風景を象徴している。

失われていく日本の風景を、日本人の立ち振る舞いを日本語の中に探し求めていた。これが藤沢周平文学の懐にあり、我らを魅了するのである。誰も云わんが(笑)。

 

失われしサムライ文化を探る言葉が、まだ残っている。その多くは日本刀から発している。思いつく端から順に。

 

「付け焼き刃」「鎬を削る」「反りが合わない」「切羽詰まる」「渡金(めっき)がはげる」「抜き差しならない」「焼きを入れる」「焼きが戻る」「折り紙つき」「目貫通り」「おっとり刀」「単刀直入」「懐刀」「元の鞘に納まる」「折り紙付き」「抜き打ち」「なまくらもの」「一刀両断」「快刀乱麻」「大上段に振りかぶる」「鞘当て」「土壇場」。まだあるだろうが、思い出さない。

  いや、「土壇場」は試し斬りの場で、日本刀には直接、関係ないか。そう、その類に「首(クビ)」がある。いまでもよく使われている。数年前、日本列島を襲ったリストラ台風の折は、幾つの首が飛んだのだろうか。

 

 サムライは世界随一の首刈り族であった。首刈りの風習がどこから来たのか。

 この話しになると長くなる。酷暑に長文は似合わない。ではこれにて。

  酷暑もあとしばらく。諸氏、お身体、ご自愛くだされ。

 

  平成十九年 葉月之二十六日