SAMURAIのいろは 其の<は>
――武士道とは「農工商」をSAMURAIにするための新日本語だった
「武士道」という言葉は、日露戦争後までは日本語ではなかった。ほとんど、99%の
明治後半まで日本人は「武士道」なんて聞いたことも読んだこともなかった。
それはたしかだ。
そのむかし、元禄時代。赤穂浪士の討入りがあってから数年たったとき、九州の佐賀で
書かれた『葉隠』という本にはあったが、この本も佐賀藩では外部持ち出し禁止本であ
った。幕末にはチラホラ出始めたが、それもやはり造語、熟語扱いだった。
明治維新は戦さで武士の魂であった日本刀を捨てた。文明開化の国から野蛮人と思われ
るのがいやだったからだ。このことからも欧米の近代兵器に恐れおののき、圧倒されたこ
とがよくわかる。
だから西南の役で新政府軍は日本刀を持つことを禁止した。幸いのことに元新選組の斉
藤一ら警察隊は国軍ではないから日本刀を持てた。戊辰戦争の仇だと元賊軍の生き残りは、
元官軍の薩摩に日本刀で立ち向かった。やはり日本刀を持つと元武士は勇気百倍になると
政府軍部も少し反省した。
日本刀復活が決定的となったのが日露戦争の火蓋が切られたときだ。旅順で銃剣を持っ
たロシア兵と白兵戦、つまり肉弾のフルコンタクト戦となった。国民皆兵で急増された元
「農工商」は腰を抜かして逃げた。なにせ、いままで刃物の真劍勝負などやったことがな
かった。
軍部は知った。近代戰爭でも陸の上では白兵戦で決まるのだ。いや想い出したのかもし
れない。戦国の世、火縄銃が出現して戦さのかたちが変わっても、最後の決戦で止めを刺
すのは刀、槍の白兵戦であったことを。
武士道が江戸時代から広く使われていたという錯覚を生んだのが、武士道の聖典、新渡
戸稲造が『BUSHIDO』だ。
新渡戸は『BUSHIDO』を書く前『葉隠』を読んだことはなかったから、このタイ
トルは『葉隠』のパクリではない。『BUSHIDO』が米国で出てから2年後、日本で
『武士道発達史』が出た。初めて武士道を公の場で論じたのは日本人のキリスト教徒で
あり、それが米国であった。皮肉なものよ。
『武士道発達史』は、世界的に有名になった『BUSHIDO』に尻を押されるように
出たのだ。佐賀藩の発禁本『葉隠』も明治39年、日露戦争が終わった翌年に、その抄本
が印刷され、やっと世に知れることとなった。
おわかりか。長く兵役とは無縁だった農工商の男たちも国民皆兵で兵士となった。
元農工商を強い兵士にするため「武士道」は日本語となったのだ。
平成二十一年霜月之七日