SAMURAIのいろは 其の<ほ>
――袴の五つ襞<ひだ>が五常の徳目などは、後からの屁理屈
本題の前に、前回の仇討ちで言い忘れたことがあった。
室町幕府の刑法では親の仇を討った者は死罪であった。このころすでに喧嘩両成敗の作法が生まれてい
たからであろう。武辺者<ぶへんもの>が仲間内で死ぬことを止めにした、武士の作法はリアリティが
あった。武辺とは合戦で雄雄しく戦うこと。武辺者とは雄雄しく戦った者のこと。
さて本題。袴の起源は民族を問わず古い。要は腰巻である。日本の埴輪のモデルも袴をはいている。
日本でも古代から貴族社会、武家社会、そして江戸と袴の仕立てはいろいろとに変わってきた。
本題は江戸期に完成した現代の五つ襞の袴であるから経緯が省く。腰板は戦国の世に武士だけがはく袴
にあったが、それが当たり前になったのは江戸、といっても中期である。
袴になぜ襞があるか。足を動きやすくするためだ。武士の袴は軍服である。戦場では裾は結んでズボン
のようにするが、平時でもいつ斬り合いになるかわからない。足を動きやすくしておくためだ。
襞は最初、腰あたりまでだった。それも二本とか三本。これが増え、裾まで長くなった。現代の形にな
ったのは江戸も百年たっていた。四本は縁起が悪いと五本になった。
五本になってから、なぜ五本かの理屈をつけた。それが五倫五常。武士も泰平の世に酔って武士が武士
らしくなくなった。それでどこかの朱子学の儒者が、云い出した理屈である。
そう、「士農工商」もそうだ。支那の古代のことをよく知っている自慢したい儒者が云ったこと。儒者
間だけの隠語。徳川幕府が法令で定めたものでもないから江戸の“士農工商” はこんな文言は知らな
かった。
明治になり新政府が「♪徳川時代は暗かった~」と宣伝するために使った。新政府=善。徳川=悪。教
科書にも載り、そこで刷り込まれた。
さて、我らがはいている現代の袴が、江戸のいつごろに完成されたか。なぜ、襞が五本になった理由を
書き綴った資料はまったくない。
幕命として武士は庶民の手本となれ。そのため腰板をつけた五輪五常の象徴である襞がある袴を穿けな
どとの令が出ていたなら間違いなく文献に残っている。
まあ、杉山流薀蓄<うんちく>は当たらずとも遠からずである。
流行りに理由はない。無名の誰がやると、カッコいいとインフルエンザのように飛び火する。江戸の髪
型もそうだ。誰が最初にやったなどわからない。取りあえず、いま売れ子の芸者、花魁にしておこうと
なる。
現代の袴が武士の世が終わっても、変わることがないのは、やはりカッコいいのからである。
この美意識は連綿と伝わっている。伝えていかねばならぬ。
11月22日