SAMURAIのいろは 其の<へ>

 

――月代<さかやき>は、いつから武士のシンボルになったか

 

 海外のSAMURAIファンは、前回で述べた五つ襞の袴より武士のシンボルは、なんと云

ってもチョンマゲ(丁髷)であろう。このチョンマゲでも武士と庶民の男では違うことを

知っている海外のSAMURAIファンはどのくらいいるだろうか。

 知らなかった日本在住のSAMURAIファンは、TV時代劇を見てもらうとして、

今回は]江戸の武士のシンボル、月代について述べる。

 

 江戸(徳川)幕府が開闢<かいびゃく=開府>したばかりのころに画かれた屏風絵をみ

ると月代の者と、そうでない浪人風の髷と半々である。いや、浪人風が多いか。

それにほとんどがヒゲをはやしている。その二百年後に描かれたものは武士、町人も

オール月代。

ヒゲをはやしている者は皆無。江戸中期には武士は浪人、隠居を例外で、武士はみな月代

となったのだった。

 

 毎日、月代を剃るのは我々がヒゲを剃るより手間がかかるだろう。これは幕府が仕組ん

だことだった。武士を戦国の世の武事にすぐれた者、武辺者からデスクワークの得意な

文官、つまり行政マンにしたかったからだ。

 おわかりだろう。もう戦争はゴリゴリ。元和偃武<げんなえんぶ>(武器をしまう)で

平和になろうよ。これが幕府の基本方針であった。武官(戰爭担当)は出世街道から外れ

ていった。腕自慢は藩の剣術指南役になるか、剣術指南所(道場)をひらき細々とやって

いた。

 

 月代を強制したのは、毎朝、月代を剃る几帳面な優等生にしたかったのだ。また武辺者

気風のヒゲも禁止された。余談。その反動で明治になると天皇さんからはじめ男たちは

みなヒゲをはやした。

そう、月代は自分で剃る。これを武士は少年時代から躾けられていた。なぜなら戦さの

日々は、兄弟、妻もいない。みな自分のことは自分でするのが戦場の掟。映画、TVで

妻が夫の髪を整えているのが、まあ、これも時代、お国柄、身分でありえたことであろう。

月代を剃る広さもお国柄、時代の流行でかわった。

そう、武士は床屋(髪結い)へはいかなった。床屋は町家の者でいくところ。

町内に一件あり、毎月、「あいつはまだ来てないな」と町内の人別監視役も兼ねていた。

怖い人だった。

 

 月代がはじめて出てくる物的証拠は、室町後期の絵に画かれた絵だ。織田信長の時代あ

たりにも多少、月代の武士もいたのだろうが、この月代、いつ、どこで、だれが、何の理

由ではじめたかの資料はまったくない。ただ、江戸も中期か、武士が軟弱になり戦国の世

を懐かしむ回顧主義は流行ったころ、兜が蒸れるからだという珍説が出た。

 もう、この頃になると、昔のことはまったくわからなくなっていた。時代考証という学

問もなかったから我々、現代人以上に戦国、室町時代のことには無知だったのだろう。

 

 そう、頭巾をかぶった女が描かれている。女性がかぶる御高祖頭巾<おこそずきん> が

ある。辞書には防寒とあるが、江戸時代の頭巾は顔を隠すのでなく、実は髪型を隠すため

であった。髪型で身分が知れるからだ。着物はサッと町人風のものに着替えればよい。

 町人は武士の格好はできなかったが、武士は息抜きで結構、町人になった。

 

                             12月1日