SAMURAIのいろは 其の<ち>
――武士の年中行事で何が一番大事だったか
年も押し詰まってきた。そこで武士は、一年にどのような行事をしていたかを拾い出し
てみよう。
まず年始。これにも身分の枠があった。元旦は御三家、譜代大名、それに幕閣中枢の老
中ら閣僚、次官クラスが江戸城にあがり新年祝賀会。2日は外様大名と高級官僚。三日は
全大名の嫡男、つまり次の大名と決まった若様。
また3日には、江戸の市政担当の町人、町年寄・名主、将軍にお目見えできる町人、
つまり大店の社長も将軍と新年祝賀会。おわりだろう。「士農工商」で商が一番下などと
いうのは嘘っぱちであることが。
江戸の城下町は、<楽市・楽座>を城下に取り込むためのものだった。経済活動を町人
に肩代わりさせたのだ。あの百万石の加賀藩は、全国一、二の大店に帳簿管理させていた。
これが江戸幕政のミソであった。
それはさてき、5日は一休みして6日には武士でなく寺院関係者が将軍にお目見えし新
年の挨拶。
全国の各藩もこれに習い、同じようなスケジュールで年始が行われていた。殿様がいな
い藩は家老が殿様の代わりをしたのだろう。
そう藩とは明治維新の「廃藩置県」から生まれたのであって、それまで誰も、貴殿は
どこの藩?」などと聞かれても「??」であった。
次は季節の折々の節句だ。五節句といって新年と春夏秋冬の四季の節目に祝う。
1月7日の七草粥。3月3日の雛祭り。5月5日の端午の節句、5月といっても旧暦で
は夏だ。秋になっての7月7日は七夕さん。冬の陰気な季節の無事を祈る重陽<ちょうよ
う>の節句。菊の節句ともいう。
このほかにも、こんな行事があった。
6月になり、月が初めて見える日、朔日(ついたち)に氷室<ひむろ>のお祝い。冬か
ら貯えておいた氷作った粉餅を主君と家臣が一同で食べる。わけは主君の徳が厚いから
夏になっても氷が溶けなかったということだ。江戸の殿様は徳を常に求められたという
ことがわかる。
6月15日は厄病を払うため十六種の菓子や餅を神様に供える嘉祥<かじょう>の祝い。
主君から上級武士が賜る。
7月15日は中元のお祝い。主従とも、よくぞ半年を無事に生きてこれたと祝うのだ。
いまのお中元は、これが元祖。当時の医療、衞生はいまとは違うから人はよく死んだのだ。
赤子も同じ。
これを頭に叩き込んでおかないとSAMURAIの時代の風景は見えてこない。
11月最初の亥<い>の日の亥猪<げんちょう>の祝い。猪の多産にあやかって猪の形に
作ったぼた餅を城内に集い食べた。
武士の年中行事で何が一番大事だったかといえば、やはり元旦、新年の祝いである。
平時だろうと戦時であろうと、新しき年が明けるとき、人は、味方も敵も来る年の無事を
祈った。
以上。よいお年を。
平成二十一年師走之二十五日
杉山 頴男