SAMURAIのいろは 其の<り>

 

――年賀のフォーマル・ウェア

 

 年賀のため江戸城に登城した大名、旗本はどんな服装であったろう。

 

武士の服装で時代劇ファンに一番ポピュラーなものは、肩衣半袴<かたぎぬはん

はかま>だろう。つまりは裃<かみしも>姿である。

袴の裾が長く、廊下を引きずるような長裃をはくと、武士全般の通常の礼服となる。

が、将軍への年賀の服装がこれであったかというと違う。

 

これまたランクがある。御三家や譜代大名は長直垂<ながひたたれ>だった。

鎌倉武士からの礼服であった。将軍の紫色、その嗣子は緋色(真っ赤)と決まってい

たので、大大名とてその色は着用できない。当然、袴は長裃。腰には小刀のみ。

それも殿中差しと云って柄に手をかけるとすぐにわかるように柄頭を思いっきり真前

に出してある。

 

これを江戸城松の廊下で抜いてしまったのが浅野内匠頭。しかし、時代劇ファンが

知るところの「松の廊下」も。「吉良への遺恨」の諸説も芝居小屋の捏<でっ>ち上げ

である。それはさておき、浅野内匠頭は長直垂ではなく大紋(だいもん)であった。

大大名ではないからだ。

直垂には、袖や胸に絹のひもの先をほぐして菊の花のようにした菊綴<きくとじ>

がついているが、大紋は。そのかわりに大きな家紋が染め抜かれている。

後年、礼服に家紋をつけるようになったのは、この大紋が因であろう。

 

浅野内匠頭のような大名でもない旗本以下の武士は、大紋を簡略化した形の素襖(す

おう)。胸紐や菊綴か絹でなく革紐。で、革緒の直垂ともいう。直垂や大紋の袴の腰紐

は白色であるが、素襖は共布(ともぎれ:同じ布)。能や狂言をよく観る御仁はわかろ

う。能、狂言の衣装であると思えばよい。

 

さて、最後に武士でも微禄の者は、どんな服装で上司宅へ年賀に出向いたのだろう。

多くは肩衣半袴であったろう。足軽もどきの武士といえども裃だけは持っていた。

 

江戸も後期になると、通常の礼服は裃でなくとも紋付の羽織袴でよいとなった。

裃は平時の鎧だという意識も薄れたのだ。

明治以降、西洋の服装、洋服に変わったとき、武士のDNAはネクタイを裃と見立

てた。朝、ネクタイをキリッと締め、会社へ“登城”したのだった。

 

                                                               平成二十二年正月八日