騎馬戦――縄文のサムライたちの遺伝子
前号の武道通信かわら版で鎧(よろい)の話をした。
古流武術家、日野晃さんの「不自由なからだが自由なからだを生んだ」――要は重たい鎧の中でいかにからだを自由に動かすか?――長い時をかけサムライたちは知恵を使い修練した。これが古流武術の身体操作の核となった、と日野さんは云う。
そう、鎧の話である。
日本武道具さんにも鎧兜(甲冑)が飾られていたことを思い出す、「煙管のけむり」もご無沙汰していることを思い出した。で、鎧の話の折、思い出したことがあったので、それををふかそう。めっきり涼しくなると思い出すことが多くなる。
流鏑馬(やぶさめ)を見た方は多くおられるだろう。意外や馬上から的までが近いことに気づかれたことだろう。弓道を始めた頃、なんだ、あの距離なら馬に乗れたなら小輩にでも……とつぶやいたことがあった。知識がなかったからである。
源平合戦の頃、人馬一対の騎馬戦、騎射戦だった。ゆえに兵の数は「一騎」と数えた。騎馬戦は馬の産地、東国武士の得意とするところであった。
しかし、当時の弓は後年のような竹を上下に張り合わせたような合わせ弓ではなく、射程距離も長くはなかった。射たあとの返りも大きく、あまり引き絞ることができなかったし、また兜が邪魔になった。つまり敵に接近しないと鎧を射抜いて致命傷を与えることはできなかった。
源平合戦のあの有名なシーン、奈須与一が平家の女官が掲げた扇を射たとき、兜を脱いで背にして引き絞ったのである。
馬上から己の家名、名を挙げてからの一騎打ちであった。28メートルの的を射る現代の弓道家は想像でいない至近距離での騎射戦であった。流鏑馬のように10メートルもなかっただろう。
敵の武者の顔がはっきり見えただろう。安全圏から射るのではない。一対一の“一射一殺”、わが身も死の領域に身をさらすのだ。この“気分”は騎馬戦が廃れ、集団戦の地上戦となった室町、戦国時代では消えた。現代の弓道家にはまったくもって爪の垢にさえない。
日本の武士の源流である縄文時代の狩猟民も、獣との<一対一>の対等な条件のもとの真剣勝負であった。縄文の弓である、射程距離はさらに近かったろう。彼ら武士の祖先は決して安全圏から狙っていたのではない。外したら獣の餌食となる。
獣が牙や鋭い爪がある。だから人は弓矢を持つ。これは同じ条件での真剣勝負である。
戦国の世が終わり、泰平の世になり道場剣法で一対一の勝負は復活したが、当時の武士の心の底にもあった真剣勝負の“美学”は縄文のサムライたちの遺伝子である。