今年最後のけむりは「巻き藁斬り」で
「師走」の言葉が生まれた頃の「師」とは僧侶のことだったらしい。『奥義
抄』と云う平安時代の歌学書に最初に出てきたそうだ。仏教が貴族間で流行り、
僧侶は引っ張りダコで大忙しであったのだろう。
師走もあと1週間。当HPの主(あるじ)にご挨拶に出向こうと思いつつ、
池袋まで足が伸びずにいる。武州多摩の裏だなの傘張り浪人も、師走はそれな
り走っている。
「週刊武道通信TV」も今年最後の25日に放映される番組の収録も終えた。
同日、チャンネル桜年末番組で、番組レギュラーが「かくし芸」を見せるとい
うのがあるそうな、その収録も済ませた。
チャンネル桜のレギュラーの多くは学者、評論家諸氏が多く、かくし芸とな
ると「芸などありません」と大抵はカラオケで済ませてしまうと云う。
「武道」を標榜する番組なので何か武芸を見せねばなるまいと、<昔取った
杵柄(きねづか)>で巻き藁斬りをすることにした。
四ヵ月前か、兵頭二十八さんの本、日本刀は果たしてどこまで斬れるかを主
要テーマにした本の取材の折(来年2月出版予定)、見学者として立ち会っ
た。その折、一太刀振らしてもらったが、最後に斬ったのは、たしか八年前、
BBM社退社の折の「送別会」のセレモニーで巻き藁斬りをしたのが最後だっ
た。
巻き藁は用意したものの、その台座まで運び込むところまではいかず、スタ
ジオのライト用三脚を替わりとした。で、斬る部分の巻きに結構隙間ができた。
「首の皮、一枚残るかもしれない」と、失敗した際の予防線を張っておいた(笑)。
(30日夜9時放映)
いや、今年最後の「けむり」に、焼き付け刃のかくし芸の話をふかすつもり
ではなかった。多忙の中、出向いていただいた「週刊武道通信TV」ゲスト諸
氏のことを御礼を込め<ふかし>たかったのだ。
東 孝、安藤毎夫、日野 晃、シーザー武志、籏谷嘉辰、猪狩元秀、佐山聡、
藤岡 弘各武道家に加え、軍学者・兵頭二十八さんと9名のゲストだった。改
めて、こうゲスト名を連ね、御一人々について<ふかし>ていては一日が終わ
ることに気づく。
各氏の共通することは「戦いを避けない人」ということではないか。
現代にも通じる「武士」とは何か? と問わば、「天下国家に責任を持つ、
持とうとする」こと。持てば不貞の輩は見過ごせない。その場を目にしたら戦
いは避けられない。
我ら世代は学校で中立防衛国スイスが絶賛された。愛国でなく反日勢力の日
米安保条約反対のプロパカンダのひとつだった。米軍を追い出し、ソ連軍を進
駐させようとする<秘められた意図>があった。だが、そのときスイスの女性
に参政権がなかったことは云わなかった、隠した。
か弱き女性に銃を取らせないと云うフェニミズムではない。古代ギリシャ市
民なら誰でもわかっていたことで、女性は直性的暴力に弱い、ゆえに正義、大
儀を守るとき、男と違い戦えないから信用できないということだ。大国の傘に
入らず自衛自尊の精神で中立を守ろうしたスイスでは兵士の資格のない女性は
<市民>ではなかった。
「戦いを避けない人」「死への恐れを抑え戦える人」、それが男であり軍人であ
る――これは万国共通であり、それが純化さ、思想教育となったものが「武士
道」である。それに世界は敬意を示すのである。
本日は今年最後の週イチ剣道である。そろそろ支度をしなければならない。
竹刀袋に木刀を入れる。竹刀でなく木刀でやろうという御仁が参加するのであ
る。指、手を折らず無事、午後から「草莽奮戦記」も、無事、綴れることを祈
って。
平成十七年 師走之二十四日