天心流合気剣法 Tenshinryu Aiki-Kenpo

天心流のつぶやきから(このページ下)

天心流合気剣法DVD発売中  
     

 

 

西暦2023年の去年はエンジェルスの大谷に始まって大谷で終わったような

感じだったが辰年の今年も元旦から能登半島地震においても大谷はまたも

助け合いの精神で日本人の株を上げたのだった

世界中にその振る舞いにインスタグラムによって一瞬に知られることになる

日本人として当たり前のことが世界では驚きをもって受け止められている

小さな子供が一人で学校に通ったり夜女性が一人で歩いていても平気なんて

そんな国があるのか信じられないと

マイクロソフトのビルゲイツが軽井沢に別荘を持つのも分かるような気がする

もちろんどこかの国からのミサイル攻撃にも耐えれるように

地上一階地下一階か二階ぐらいにしてしっかり備えている

日本人はあんまり気づいていないが世界中が日本の素晴らしさに

気づき始めているそして日本人の精神を作り上げた

日本の古い文化や伝統に学ぼうとしている

日本は柔よく剛を制すで 後の先で攻められてから対応する

柔術から異次元の術が合気と言ったようなものだから

精神的なものが体現されたものが姿勢になるから

自然のフォームが美しくなければならない

大谷の打撃フォームは自然で美しいなと思うな

新年のお年玉として上げておこうか

佐川老師は合気上げの手を山吹の花のごとく上げよと言った

これは極意だと 五本の指が山吹の花が開くように上げる

   2024 1 6 天心

 

 

剣術は戦国時代飯の種だったから実用として重んじられていたが


明治維新になって武術家は食えなくなって撃剣を見世物にして投げ銭で


食いつないだりしていた


佐川老師のところに来ていた作家津本陽という人が書いた明治撃剣会


という小説に百五十年前の剣術家たちの生きざまが描かれている


会津藩の家老だった西郷頼母が西郷四郎に柔術を伝えるが


姿三四郎のモデルにもなった四郎は何故か加納治五郎の柔道の


講道館の方に行ってしまう


そこで合気柔術は武田惣角に伝えられたと言うことになっている


明治時代の柔道の三船久蔵という人の動画が流れていて


見てみると八十代でも若い人の力とスピードが通用しない


この時代の柔道家はその前に柔術をやっているから今の


スポーツ柔道とはちょつと違う


スポーツはニュートン力学だから段々歳をとると勝てなくなるだから


だいたいスポーツ選手は四十歳ぐらいで引退している人が多い


武術は超感覚的知覚を研ぎ澄ませるので筋肉を鍛えるのではなく


脳の感度を高める訓練をする抽象的な表現として心の気と言ったり


気の力などと言ったりするから自我意識の強い人たちは


知力の前に情力そして意力が技になるといって言葉にしてもわからないから


怪しんだりするのかも知れない


武術は言葉で伝えられない世界だから実際に自分の体で試して見なければ


分からない


柔よく剛を制すと言ってやわらの意味は後からついていくとあるから


紅葉と朧ことバルボラそして


新たに加わったレディと三人の女性たちが天心流の合気と柔術の道しるべに


なってくれるかもしれない


柔らかい波のような力で硬い岩や石を優しく包み込んでしまう


 
     2024    1    1     元旦     天心

 

 

皇室のシンボルと言われる三種の神器の一つ神剣はいま熱田神宮に


納められているというが見ることはできない


古代にさかのぼることスサノオウがヤマタノオロチを退治した時に尾っぽから


出た天の叢雲という剣はのちに日本武尊が伊勢神宮にいた叔母さん


倭姫から授かり駿河で草を薙いで難を逃れたときに草薙の剣と


名を変えることになった いまこの場所は静岡の焼津となっている


平安時代になると平家が壇ノ浦で義経に敗れたときに安徳天皇ともに


三種の神器は海の底にしずんでしまったが剣だけは見つからなかった


と言われる


剣にまつわる話はこれから室町時代の上泉伊勢守になる


この流派の流れを汲む無住心剣術は江戸時代になって真里谷円四郎が


のちに真里谷流と称した


天心の住むマンションの一階に出雲そばとあるからある時店主に


スサノオウにちなんでや久もとつけたのか聞くと松江と言えば


小泉八雲だからだと言うのだ 店のまえにはスサノオウがクシナダ姫に


歌った三十一文字が掲げてある


八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を


ロマンだなぁ
 
    2023    11   24          天心

 

 

北海道出身の宇宙漫画コブラの作者の寺沢武一氏が先日亡くなった

左腕にサイコガンという武器を装着した不死身の男

このサイコガンというのは精神エネルギーでもって相手をやっつける

1976年に上京して手塚治虫のところで修業しているから多分

1974年に北海道を舞台にした手塚治虫の作品シュマリをヒントに

したんじゃないかと思っている

剣の使い手で右手を常に包帯を巻いている

右手を使うときは相手が死ぬときになる

ここで天心の海馬の記憶から突然こんなことがよみがえった

1973年ごろサンフランシスコのとある公園でアメリカ在住の日本人の男性から

天心が日本で鍼灸の勉強をしているというと突然こんなことを言い始めたんだ

気というのは右の手から出て左の手に入って来るんだと言うじゅないか

まだ釈迦の接手や光明や慈念なんかも知らない時だから

どんな人か知らないしあんまり真面目に聞いていなかった

あの時もっといろいろ聞いておくんだったなぁと残念におもう

それから日本に戻ってから禅をやっている友人とこんな実験をやったりした

垂直に立てた針のさきに紙を水平に乗せて左右の手のひらで包み込むようにして

気で働きかけると紙はくるくると左回転に回り始める

手は脳と直結しているから手だけでやってもだめ

脳の働きがなければ電磁力が発生しない手の合気

接手は触れ合気 光明は空間の合気 慈念は精神感応力

おそらくテレパシーこれは脳のエネルギー相当使うから試さない方がいい

釈迦如来像が座って左の手のひらを上に向けて膝の上に乗せ

右手は正面に向けているのが光明だという

二千年前に仏陀が残してくれた目に見えない力を今もなお

無意識に治療にも使われていることなんか知らずにやっているんじゃないかな
 
    

2023 9 15 天心

 

 

 

佐川道場にやって来た人たちの職業は様々で今みたいにネットもない時代だから

噂を伝え聞いて合気という謎の技術を確かめに老師の門人となる

官僚 医者 警官 パイロット ボディガードなど一番多かったのは学校の先生で

老師は知的な人を好んだのかも知れない

野生の強いひとは近づくことは出来なかった

一番熱量が高かった人たちは他流で腕に覚えがある空手家の強者たちである

うわさどうりの業が どれほどの物か道場破りのように確かめにやって来ているから

その道の経験者たちは秘かに探って技を盗もうとしている

教わろうという気がないと負かそうと本気で来る人もいて

そんな男たちをまだ合気もない柔術の技で痛めつけて耐えきれずに

諦めて辞めていくのを待っているような状態

三十畳の道場の縁側には入りきれない男たちであふれかえっている

室内では汗にまみれた男たちが自分の番が来るのを列をなして待っている

まるで地獄の底で蜘蛛の糸をたぐって地上に はい上がろうとするやからたち

合気の糸を掴むことが出来たら 地上の楽園にはい出ることが出来るのだった

真夏の熱いさかりの情景を思い出してみるとこんな感じになる

稽古の最中は今みたいに休憩したり水なんか飲んだりしないよ

実は合気は柔術と違うから老師に手を取ってもらわないと分からないもの

弟子の人から教わっても技術の量も質も低いので知らないままで 終わってしまう

老師から選ばれた人だけが手を取らせてもらう

だから 他流から来ていた人たちは一人として老師の合気を感じることなく

去っていった人がほとんどである

合気は見るだけでは分からない実際に体験してみなければまた

体験して分かったとしてもできるとは限らない

老師に教えてもらえないから盗むしかないのだった

老師は女性には優しかったから正式に門人として入門していた二人は

彫刻家の小野田宇花 横笛の師匠の寺師美智子

こんなことも 老師亡き後で最近知ったことだ

そんな地獄の底から這い出してきた不動が二人の芸術家をまた天心の世界に連れてきた

男性は北海道出身のシンガーソングライターの 中森功女性はピアノと歌の工藤みのり

外国人が日本の伝統文化でもある武道や茶道や書道に憧れるように

興味をもって一日だけでも体験してみようという気になるのかも知れない

二人のツーリストはどんな事を感じて自分の世界にもどって行ったのか

天心流は佐川老師亡き後天心真里谷流として新しい世界へと 旅立っていくことになった

天心の世界に太郎も女性のヨガのインストラクターを柔流の一日体験に

連れてくることになっている      

 

2023 8 31 天心

 

 

 

合気についての解釈はいろいろな考え方があって面白いと思う


人によっては合気と言うものが万能であるかのような思い込みを持つ人が


いるかも知れない


合気は戦いの業ではなく知覚をすり抜ける術でもあるので体の合気だけでなく


心の合気も必要になってくる だから


武器を持たない徒手になると柔術や拳法もなければ合気だけでは


戦いにならない


むかし東京小平の佐川老師のもとに北海道の北見から大東流幸道会の堀川幸道氏


が来たことを聞いたときは何故か分からなかったが今なら分かる気がする


剣の世界は気剣体 剣と心と体のことを言う


天心流の稽古に二つほど面白い方法がある一つは短刀術で双方がお互いに


一回づつ皮だけ切って肉切らず切らず切られずを勝負を競わない運動を


続ける


 合気になっているから合気を外さないと終わらないと言うもの


もう一つは無刀て無構えの相手を短刀で面を真っ向から中心を切りつける


それを身をかわして捌くと言うものこれがなかなか簡単にできない


不動や秀は自然に捌いて身を守っている女性の朧も何故かできている


恐れる心が身をすくませるのか八百や観念は短刀を振り上げただけで崩れてしまう


平和な日本なら合気だけでもいいような気がしてくる


だんだん天心真里谷流の稽古がおもしろくなってきたようだ


 
2023    8    25         天心

 

忍びの物は1962年に市川雷蔵という俳優が石川五右衛門を演じて上映された

まだモノクロの作品でいまは千葉にある武神館の館長初見良昭氏が監修を

やっていたこともあって後にその姪御さんと縁があり戸隠流忍法の本を借り受け

ずいぶんと忍術の研究をしたこともあったんだ

この話のタネは半世紀以上前の北海道にあるまだ夢かうつつか幻かの頃

おぼろ忍法帖という山田風太郎の小説が新聞の夕刊に載っていたから

毎日ワクワクしながら読んだ1980年代になって魔界転生でリメイクされ

天草四郎の役で沢田研二が演じている

ラジオからは徳川夢声の独特な語り口で宮本武蔵が聞こえている

アラビアの幻想小説千夜一夜物語もよんだりしているから

忍術と剣術のロマンを育んで何時か花ひらくのを待っていたのかも知れない

その後司馬遼太郎の梟の城から新選組の土方歳三の燃えよ剣とつながっていく

剣というものに本格的に興味を持ち始めたのは吉川栄治の小説宮本武蔵が

一番影響を受けたかもしれない人間の因果というものを感じさせたからかな

勝新太郎の座頭市の居合斬りの映画を見て憧れもあってか東京に

出て来た時居合の師と巡りあいその後合気柔術の師とも縁があって

天心流合気剣法が生まれる師の亡き後天心真里谷流として修行を続けている

先週の日曜日新宿のすし屋の前で会ったベルギーから来たという女性は

1549年戦国時代にスペインのカトリックのイエスズ会からはるばるやってきた

フランシスコ・ザビエルのように日本語を話せたからどうやって覚えたのと聞くと

ネットを見て独学で勉強したというなんともはや今は侵略者としてではなく

観光で来ていると言う五百年の時を超えるとこんなことになっているらしい

2023 1 28 天心

 

天と地の間で人が自然を見る時の映像は目を通しているから
 
人が自然と言うときには心の働きがあっての現象を言うようだ
 
自然科学という学問は自然界の物質の現象を研究するのだという
 
ところがこれには生命現象が入っていないと言う
 
かって剣の師と二人で歩いている時茜色に染まった夕焼けに
 
天心が美しいですねと言うと師は人の心がそう感じるからだと言う
 
肉の眼玉で見る自然でなく仏教でいう天眼心の眼で自然を見ることを
 
言ったものかその時はまだ心の眼が五つもあることも知らない
 
人の力がエネルギーに姿をかえて自然エネルギーと結びつくと
 
対立するエネルギーと共鳴現象をおこして面白いことになる
 
空間に備わっている自然エネルギーたとえば重力エネルギー
 
剣の上下運動のときに反重力のエネルギーを利用したり
 
運動エネルギーが電気エネルギーに置き換えられるとき
 
体の中にあるあらゆる細胞に発生するエレクトロンと磁力
 
神経細胞や筋肉細胞に発生する電磁力を利用して吸い着けてしまう
 
これが点の合気ではないかと想像しているのである
 
稽古のあとで六根清浄何を見ても清々しく感じるのだ
 
 
 
       2022   8  30        天心

 

 

昭和女子大の人見記念講堂の照明が落されると暗闇のなかから


ピアノの前に座っている壇上のフジコヘミングにスポットライトがあてられる


二千人ほどの聴衆は自我を消し去って物音一つ立てないように


じっと聞き耳を立てているとドビッシイの月の光を静かにゆっくりと


おもむろに奏ではじめる フジコのねいろのことを聞くまでは


心まで奪われることはなかったように思えるから耳で聞いてのかも知れない


静まり返ったしじまのなかでフジコのピアノのねいろだけが聞こえている


フジコヘミングの世界は殺伐とした世界からほんのひと時の間清々しい


気分に浸ることができるのだった


今年卒寿の九十歳になろうとしているピアノソロの演奏はあたかも


音のエネルギーに包まれているような感じさえ覚える
 
フジコが自分のためだけにピアノのねいろで語りかけてくるような気になって


いるからすでに隣の席の太郎の存在は忘れている


やはり最後の選曲はリストのラ・カンパネラだから文句はない


太郎の手配でフジコの生の演奏を生きている内に聴くことができたのは運が良かった


 
 
    2022  6   3         天心

 

 

早朝公園の梅の花をめじろがついばんでいる

 つがいのめじろを しばらく眺めていると何かしみじみとしてくる

今年もまた何の約束もしていないのに来てくれたのかと

稽古の最中にもケヤキの枝のまわりを飛び回って遊んでいる

もう春がすぐそこに訪れてくる気配がほんのりと感じられる

剣の基本刀法も書道の楷書と同じように形を崩さないように

きちんと横縦斜めと正しく振るのが一番難しい

次に行書のように少し崩した振り方

三番目の草書が変体仮名文字に変化していって

四番目のひらがなを書くように空間の切れ目なく時を止めないで

さらさらするすると書けるようになれれば大したものだ

もしかしたら榊莫山のようになれるかも知れない

日本酒のラベルにいいちこの文字を書いた人だ

剣の四番目も自然に溶け込んで風のように歩んでいって斬る

五番目は即行空になる

書の人に聞くところによると漢字の女と言う字を変体仮名文字に

崩すとひらがなのめという字になると言う

なるほどいい得て妙

女性の眼の色がものを言う 三角の眼になるとこわい 円がいい

 

2021 3 10 天心

 

 

 

 

以心伝心やはり心が通じているから伝わったものだろうか

五十年来の友である臨済禅をやっているカメラアイの男

東北震災以来途絶えていた便りも十年ぶりにも関わらず

突然の電話によって時を一気に埋めてしまった

1970年代十八の時にアメリカに渡りロサンゼルスで禅宗に巡りあい

その後に日本に帰ってきた時に友となった

超越瞑想のマハリシ・ヨーギがアメリカで人気になっていた頃

当時彼は日本もいずれジャンキィーの国になると予言していた

臨済と言えば鎌倉の円覚寺の無学祖元だ 八百年たった今の

観光地化した鶴岡八幡宮と違って五十年ぶりの鎌倉の円覚寺の

空気はちがっていた

中国から日本に来て帰化し蒙古襲来の時に北条時宗の

精神的な拠り所となった

時宗もこの言葉に示唆を受けただろうか

電光影裏 春風を切る

初心の頃は稲妻のようにピカリと剣で春の風を斬ることができるか

などと真剣に取り組んだりしたこともあった

友はまた剣を振って見たいと言っているのでいずれ

紅葉を伴って訪れて見ようと思う

いろいろ話したい事や聞きたいこともあって会いたいなぁと

思っていた時だからやはり

心のエネルギーは時間も空間も超えるのかも知れない

2021 3 3 天心

 

 

 

天心流の基本態勢は一見何も構えない無防備のような構えを取る

剣を晴眼から下段に下げて右四十五度の方向に裏を上にして

待の状態で相手の出方を待つ

さあ どうぞ いつでも いらっしゃいと

腕に覚えがあるものなら無構えの相手なら用心する

数多の剣士たちは戦うときは構えるのが常だからである

相手の心に迷いがあったり 疑ったり ためらったりした時には

相手が何もできない虚の時だから付けこむ隙が出来るわけである

相手が動かなければこちらから空間を風のように渡って行く

不思議なことに強くなれば強くなるほど自然に動くことができなくなる

物質的世界に生きているからだろうか?

自然に溶け込むことはなかなか難しいのだろうと思う

やはり心でなければ自然エネルギーを扱えない

言葉にすると簡単にできそうな気がするが相手がいる相対状態になると

これが自由になかなか出来なくなる

初心の頃は無防備というわけにはいかないからとりあえず

構えの型をまず覚える横一列に長老 三太郎 バガボンド 太郎 八百 

観念が並んで全員同時に八双に構えさせるとそれぞれ個性が出て面白い

晴眼から平晴眼 八双 脇構えの四つの動きをやらせてみると

全員同じ事を気を合わせてやるので秩序だって美しく見える

その中で八百だけが一人だけ勝手に動いているから余計目立つ

早朝に太郎と紅葉はいち早くこの稽古を終えている

紅葉は初めての四つの動きにまごまごしている

いままでは空間の中で動きを静止した状態での真っ向振り下ろしに

歩みが入った変わった動きは初めてだったから戸惑っているようだった

相手が晴眼に構えている剣のある一点に触れると相手は動けなくなる

合気で相手のある一点を抑えると動けなくなる合気押さえ

時間と空間を我が物にするということである

 

2021  2  18  天心

 

 

 

居合の稽古は基本一人稽古になるから観念的になりやすい


対象がいないのに居るかのように仮想の敵を想像して斬るから

 
実際に相手がいる相対状態になると勝手が違って


何も出来ないこともある


対象があるとどうしても自我意識の対立が起こって


気がぶつかり合って合気になり止まってしまうことになる


だから伊藤一刀斎は合気になるな合気を外せと言っていたのだろうと思う


太郎が調布の真里谷塾に帰ってきた


先日の稽古で太郎が言うには


二十代の頃の自分を思い出したものだろうか


他の物では決して味わえない気分を改めて知ることが出来たと


昔居合の師にある弟子が何故居合でなければならないのですかと


聞いていたのを思い出す


剣でなければ道は開けないのかという疑いを持って迷っていたのだろうか


武術の世界では二者択一


生か死か瞬間で行動を決めなければならない


気と言うのはエネルギーの躍動感だから肉体のエネルギーを解放して


ダイナミックな生命感を得ることが修行の目的でもある


修行によって得るものは命の息吹だ


2021 2 6 天心

 

 

 

陰陽師の安倍晴明を演じる狂言師の野村萬斎が映画のシーンの中で


臨兵闘者開陣列在前とかっこよく九字を切る場面があった


ガリレオが望遠鏡を発明する五百年前の平安時代の日本は


科学の精神などまだ芽生えていないような呪術の時代


何かあると怨霊の祟りだとか迷信がはびこっていたから


神仏の力や呪術的な力を借りて魔を払ったりしていたのかも知れない


兵 闘いに臨む者は陣列の前に在りというものだから


兵士が戦いの前にこの九つの字を唱えて十字を切ることで


興奮と緊張で乱れた心を整えたのだと想像する


もとは中国の晋の時代の道教から来ているらしいが


仏教とともに日本に伝わって来てから修験者や忍者なども


この九字を唱えることで祈祷や護身の法としたものだろうか


天心流がまだ生みだされる前には体捨流の丸目蔵人と同じように


魔法のような力を手に入れるために九字を切っていた時もあった


人の能力には限りがあるから魔術的な不思議な力を得て


超越的な力を身に着けようというのである


まだ摩利支天の加護を受ける前だから魅力的な呪術の力を


頼りに念の力をもって九字を切っていたものである


科学的な知をもって魔術的なものを払いたい所だが


魅力的なものは人の心を惑わすからそうはいかない


天地人の儀式をしてから剣の稽古を始める


光の神と剣の神そして人の神の三つに礼の心をもって拝する


この儀式も最初は形だけでもだんだん心が入って来て


作法が観念に入って来るとその意味がわかってくる


2020 11 6  天心

 

 

 

都会で小さい頃から暮らしていると大声を出したり


人の迷惑にならないように小さい声でしゃべる


習慣が付いて声帯の筋肉も育っていないせいか


剣の稽古の時に気合いを入れてエィッと掛け声を


出させてみると母音の音声がしっかりとした懸声にならない


胸式呼吸で口を開けてエィと発声しても口から出る音声が


舌や歯で邪魔された子音が混ざって奇妙なかけ声になったり


頭の天辺から出ているような奇声を上げている女子も


よく見かけることがある


四十年前に居合の師の素晴らしい気合いのこもった懸声


エィッという掛け声は中野坂上の修道館道場の窓ガラスの面を


振るわすほどだった


下っ腹の臍下三寸の丹田から腹式で発声された懸声は


心地のよい響きとなって聞いたのを覚えている


肥田春充の話しをちょっと聞いてみよう


気合いの妙は動静の合一である


気合いとは静黙の最極致であり活動の最高潮である


勝手な解釈をしてみると気合いが動静の合一であるなら


陰陽の合一でもあるから気合いとは合気のことを


言っているのかも知れない


佐川老師の語録に初心のときは声を出さないと気が抜けてしまうから


エィとかヤァとか声を出して気合いを出していく


気合いを出すと気が抜けてしまうから


気力は表に出さずに内に秘めていく


剣は無声で行く


いずれ気息の陰陽の呼吸の息吹まで行くことになる


四つ目の抜き合気はこの息吹の呼吸力を


使うからである


2020 10 30 天心   

 

 

 

北海道にいた頃には夜になると必ず北斗七星の位置を確認したり


千年前の平安時代の陰陽師のように月と星ばかり見たりして


流れ星に願いをかけたりする癖が着いていた


日本の最北端の稚内という所から利尻礼文の島影が見える


その手前五十キロぐらいの所の豊富町から国道四十号線を


真夜中に車を走らせるとサロベツ原野に出る


車から下りて真っ暗闇の中でただ一人地平線を見渡すと


三百六十度の星屑がきらめいている満天の星が回転している自然現象


天空を見上げると満天の星たちを独り占めしているような感覚


宇宙の神秘に限りないロマンを感じるのだった


品川のアクアパークのワンダーチューブがその記憶を


一万五千日の時を超えて呼び覚ましたものだろうか


やはりあの時の出来事は忘れてはいなかった


津軽海峡を渡って来てからの東京の夜は明るすぎて


あまり月も星も見ることがなくなってしまった


それにあまり月を見ていると感傷的になり暗くなるから


今は太陽の光摩利支天を崇めて暮すようになって居る


 
2020 10 23 天心

 

 

上泉伊勢守が残したという転ばし(まろばし)という言葉も


何か新陰流の剣の形かのように思ってしまうのも


養老孟司が言うように日本語は視覚言語で日本人は


言葉にされると何か形があるかのように思ってしまう と


因みに英語は聴覚言語だという


物を見る目が優れている日本人だから視覚情報に


負う所が大きいのだろうか


ゼロ戦のパイロットだった坂井三郎という人が大空のサムライの中で


まだ戦闘機にレーダーが付いていないときに大空でいち早く敵機を


発見する目は日本人のほうが早かったと語っている


室町時代のまろばしという古語も目にすると時を止めてしまって


言葉によって観念化されてまう人も出てくるかも知れない


武芸の無意識の世界を意識の世界の人に言葉で


表現することが難しいから古人は歌に残したりしたのだろうか


非科学的な日本人の思考を思うとそれでも何か言葉にして


残しておけばヒントになって理解する人が出てくるかも知れない


意識の世界で薀蓄を傾けると味気なくなるが表現してみる


知で言ってみると前頭葉の興奮 感情でなく大脳の回路を


使わないで小脳を使うできれば頭頂葉の時を支配する


光の受容器を使いたい所だが人は退化しているらしい


情の表現にしてみるとこうなる


武術の母は柔術ともいわれ剣術だけでも足りない


柔術も雲か霞のようにふわりと入る


剣術の知と柔術の情それに意の心の三つ


心気力という言葉も残っている こっちの表現の方がしっくりくる


知だけで分かったような気になっても足りないから


転ぶを読み解くと ころがるとあるから時の流れと解く


そうするとやはり情緒で解かないと見えてこないかも知れない


2020 10 16 天心

 

 

 

何ともにぎやかな日曜日になってしまった


戸山公園は家族連れの子供たちが走り回って戯れ


三太郎が連れてきた長男と妹もそれに混ざって一緒になって遊んでいる


昨年の新年会のときには四歳でまだあどけなかった長男は


五歳になっていて自我が育ってきたのか強情なところがある


父親に対抗して素直に言うことを聞かなくなっている


愚図っていると四歳の妹にスネオと呼ばれて気に入らないと見えて


さらにダダをこねたりしている


体術の稽古のときには少し離れたところを走り回っていた


子供たちは剣術の型をやり始めるとがだんだん


近づいてきて興味深そうに見ている


子供はチャンバラごっこが好きなのだ


その中で江戸川区から来ているという五歳の女の子が


四歳の男の子を引き連れてちゃんと前に来て


名前と歳を言ってから私にも教えて下さいと言っている


五歳の女の子の剣の指南は初めてだったが


きちんとしているので気に入って女の子が持っていた


木の枝を気合いを出させて振らせてみるとなかなかいい


まだ骨も筋肉も柔らかすぎて形にならないけれど


何の屈託もなく自然にためらいもなく地面を叩いている


気合いは一番いいとほめてやると得意になって


鼻の穴をふくらませている


やはり七、八歳ぐらいにならないと形にならないかも知れない


女の子がまた来て会ったときに教えて下さいね と


子供の心にかえっている三太郎に話しかけている


また主役の座を三太郎に奪われてしまった


さながら剣の子供教室のような状態で


見知らぬ大人から教えられたファーストインプレッション


五歳の女の子の心にどう刻みつけられただろうか

 

2020 10 8 天心

 

 

 

スパルタ教育で知られている古代ギリシアのスパルタという国に

 
あやかってか二千年前の古代ローマにもスパルタカスという


奴隷にされていた男がいた この時代は力が強いものが崇められ


意志力中心の考え方が正しいとされていたらしい


スパルタカスは剣闘士にされた後大勢の奴隷たちと


自由を得るためにローマ軍と戦ったりしたという


自由になるにはまだ力がいる時代だった


1960年にアメリカで映画化されたスパルタカスは


カーク・ダグラス主演で黒人奴隷役のウディ・ストロードとの


激闘シーンが印象的だった


イタリヤも1500年代になると知性の自由がないと科学の


精神は発生しないと言っていたガリレオ・ガリレイが


望遠鏡を発明して地動説を説いてもイタリア人の観念を


変えることが出来ず裁判にかけられたりした


一方地球の裏側の日本はと言うと安土桃山の


信長の時代 ポルトガルやスペインの宣教師たちが


黄金の国ジパングを目指してやって来ている


1581年にイエズス会の伴天連が安土城の信長に会いに来る


その時に連れてきた黒人奴隷が信長に献上され


弥助と名付けられている


1メートル80以上の漆黒の偉丈夫


十人力だったと言うから多分相撲も取らせてみたことだろう


信長はよほど気に入ったと見えて家臣に取り立てて


黒人の武士になっている


1582年の本能寺の変の唯一の生き残りと伝えられ


その後どうなったのか気になる


この弥助をハリウッドで映画化されたというから


アフリカの黒人奴隷がジパングという国でサムライになるという


夢のような話だからお伽噺としか受け止められないかも知れない


世界が奴隷制の時代に東の果ての日本という国の


織田信長から近代の夜明けが始まったということを


改めて認識するかも知れない


2020 10 1 天心

 

 

 

有情という言葉を初めて目にした時のことはよく覚えている


1970年に漫画家のバロン吉元が書いた柔侠伝


主人公 柳勘太郎の背中に三文字の刺青


覚有情と入っている


明治時代親子三代に渡って繰り広げられる物語だから


作品の内容も牧歌的で叙情に満ちた時間が入っている


これもまた舞台は北海道で明治時代の蝦夷地で暴れまくる


シュマリ (アイヌ語で狐) 何故か右手に包帯をしている


これはあの手塚治虫の作品だけど


ロマンを感じるのは時代が明治だからかも知れない


それから有情を意識して調べてみると仏教によると


一切は空だから仮初めの和合とあり何か虚しくなる


物質世界の意味では心を持っている一切のものとあるから


やはり心のない無情より心がある有情の方がいい


心について養老孟司がいいことを言ってくれている


心の本質は情で知が働き意志が働く


この形式を心という

 
音楽の方にも目を向けてみると詩人の野口雨情


作曲中山晋平のあの町この町 雨降りお月さんなんか聞くと


心に深くしみ込んできて懐かしい気持ちになる


わらべ歌だからだろうか


そうしてだんだん岡潔の情緒へと近づいていくことになる


2020 9 20 天心

 

 

 

 

二元の逆手を掛けられた痛みを紛らわせるためか

観念が雄叫びを上げている

 紅葉に掛ける刺激の 半分以下の量でもやはり女性の方が痛みに対する

耐える力は強いのかもしれない

二度目の観念の雄叫びを聞いてそそられたのか

不動がだしぬけに自分にも掛けてくれと言い出した

佐川道場時代にさんざんかけられて強化されていても

未知の痛みに対する好奇心は相変わらず旺盛だ

痛みの感覚は癖になると見えて

昔の記憶をまた呼び覚まそうとしたのかもしれないが

顔を真っ赤に紅潮させて耐えた後はスッキリしたなどと

涼しい顔をしている さすがに平幕のようには簡単に根を上げない

八百といえば相変わらず痛みに対する警戒心が強く

観念の様子を見ていたせいもあるのか恐れで

腰が引けて観念のように素直に痛みを受け入れて

耐えることを知らない

痛みは現実に直結して観念的なものが入り込む余地がないから

心を強化して情に流されないように心を粘り強く鍛える

剣を知でやると言っても心の情でやっているところがある

心を鍛え心の純度を高めるには玉鋼を造るときのように

絶妙な技術で刺激の反応をコントロールできなければ

心が折れてしまうからただ機械的に強くやっても

鍛錬に耐えることが出来ず失敗してしまう

どうしても情の力というものが必要になってくる

有情という言葉を初めて目にしたとき・・・・・  つづく

2020 9 16 天心

 

 

 

易占いの光龍という老人が生前合気を占った所

易経の十六番目の卦で雷地予という卦を出した

因みに書には重門撃たくをもって暴客を待つとあって

危害を加える人に手落ちのないように準備することである

彼の光龍という人は合気の技とは戦うためのものでは

ありませんねといみじくも言っていたこともあって以来

佐川老師の見せた技は超絶美技ともいうような

芸術的なような所もあったのかなと思うようになった

美の表現活動と言われる芸においても表現形式は

身体技術によるものだから芸にも術がいる

武は生存術にもなるし術は知覚をすり抜けるような所も

あるから武と芸は表裏一体となる

実用がなくなった武もスポーツも芸能のようになっている今でも

最初から芸術としてやっている人はあまりいないと思うが

美しいものを重んじる日本民族だから武も様式美でも

いいように思えるようになった

三太郎と八百が観念の世界で機械的に合気上げを

頭だけでやって知覚でぶつかり合っている

向こうでは長老と観念がもつれ合うようにじゃれあっているが

体操のように漫然とやっていては感覚は育たない

脳と直結している手の感覚を使わないで知覚だけで

機械的にやるのは岡潔のいう所の戦後の側頭葉教育の

なせる業なのだろうか

観念は自由な表現を邪魔すると言うから

頭だけでなく体をよく使って自由な心を得よとなるが

さて自由になるには力がいるしその力も

エネルギーに姿を変えなければなれないと思う

 

2020 9 11 天心

 

 

 

八百と観念の諸手取りの合気上げを見ていると


観念が手を上げようと頭の中で意図すると


知覚系で入力された情報だけで判断して


出力するとき随意筋の収縮であげようとするから


どうしても頑張られると力がぶつかって動かなくなる


多くの人はここで足踏みすることになると思う


いまだと随意運動としての屈筋と伸筋の収縮の働きになる


古流の言い方だと表の力とも表現するかもしれない


剣の世界では裏の力を使う 陰とも影とも言う 


陰陽とは表と裏の力の働き 虚実とは心の働きをいう


第三の力というような拮抗筋の働きがなければ


効かないように思う


空間的に内手を早く強く掴まれてきたときに


体を使って調子を外すかしないとタイミングが合って


止ってしまうから機械的な筋肉の収縮だけでは


力のある者を返すことは出来ない


頭の知覚と体の感覚を兼ね合わせた働き


超感覚的知覚と言うような感覚も必要になってくる


前頭葉だけでなく頭頂葉も使ってみたいものだ


頭の天辺に時を支配する光の受容器があると言う


この正体不明の光のエネルギーによって


人も生かされているようだ


人間エネルギーに運動エネルギーに電気エネルギー


そして自然エネルギーもちろん一番大事なのは


心の気であるエネルギーであることは言うまでもない


2020 9 4 天心

 

 

 

当時の武道具店はま だ先代のお父さんのときで

唐手の極真会館が裏通りにあった

その池袋の武道具店の窓ガラスに居合道の生徒募集の

張り紙に目を止めなければ今の天心は居なかったかも知れない

剣の師との出会いもここから始まったとも言える

後で知ることになるが明治時代に高知県の土佐から

お父さんの代に北海道の蝦夷地北見という所に入植して

農園をやっていた事があった

聞くと紅葉も四国の香川県から来たと言う

師も時々方言の土佐弁が出たりしていたから

似ているのか紅葉の方言を聞くと何となく懐かしく思ってしまう

これも何かの縁なのかなと思う

佐川道場を二十年前に去るときと同じように

鶯谷を再び訪れることはないなと思っていたが

物語の筋書きはとうに終わっていたが

紅葉との因縁によってまた呼び戻されることになってしまった

何時か師の郷里の高知県に足を運べたらいいなとも思っている

 

2020 8 28 天心

 

 

 

戦争とは運命と運命の戦いであるとも言われる

戦いには精神も物質も技術も必要となるし

科学技術も対立するものがあるから進歩するのである

当時日本は戦闘機のゼロ戦や世界最大の戦艦大和や

潜水艦の伊400などを作る優れた技術があったにもかかわらず

米国の物質に敗れたとも言うが

観念が現実に負けたと言うわけである

そのせいか戦後の日本は現実的な物質主義を

バブルが弾けるまで驀進して行ったのかも知れない

戦いがなくなっても人間の本能として競い合って

優劣を決めることが好きだし勝負事のギャンブルも

物質世界に生きている以上しょうがないのかもしれない

現象世界を五感で見ている限りは知覚や感覚は

相対状態を必要としているから物質的な力を

感じ取って五感を十分に研ぎ澄ませておく

相対の現象世界で面白いのは相手が自分の思い通りに

動いてくれないから意識に反する行為 (合気)によって

相手の無意識の抵抗を起こさせないところにある

相手が力を出して実で来たらこちらは虚で行く

力に逆らわないで相手に合わせていく

知覚が相対の世界から離れていくことが出来たら

もしかしたら五感以上の世界にたどり着けるかもしれない

旅は妙味のある時の情緒へと向かっていくはずだから

天心流の旅は剣術と柔術と心術で歩き続けるのである        

2020 8 21 天心

 

 

 

八月に入ってから猛暑の中不動以下の芸能部門の仲間も


天心会の真里谷塾の野外教室?に次々と復帰して来て


大関の不動、関脇の三太郎、小結のバガボンドと


相撲の三役が揃ったような感じがする


平幕の長老や妙珍、八百、観念の力は三太郎の柔らかい力に吸収されて


あまり効いていないように見えた


力がないと技で行くところ技があっても力に負けてしまうと


術もなければただの力比べになってしまう


思い出すと三太郎が仲間とともに天心のもとに現れたとき


たたら製法の技術で作られる玉鋼のように


一元二元の手首の逆手は手間をかけてじっくり鍛え上げて


粘り強くしてあったはずだった


面白いことに三太郎の痛みの感情表現が笑いになってしまうこと


肉体が想像を越える刺激を受けることで脳と心が極限状況のなかで


どう判断していいか分からなくって予想外の行動をとり出すものか


大脳に直結している手を鍛えられたせいで三太郎の脳は


タフな心に変化してるかは今のところ分からない


丈夫でタフな心を育てるには玉鋼の作り方に似ていると思う


ただ強く鍛えるだけでは脆く折れやすいから


砂鉄で作られる玉鋼と混ぜ合わせることで


粘り強くしなやかで美しくしかもよく切れる日本刀に変化するかは


刀匠次第、正宗ゃ村正のような名刀になるかは


運を天に任せるようなところがある


玉鋼のような粘り強い心としなやかな体を作り上げていくには


肉体の反応をコントロールする技術なくしては出来ないように思う (合気)


 2020 8 14 天心

 

 

 

 

梅雨もやっと明けた八月の野外稽古は久々に晴れ渡り

自然空間にはエネルギーが満ち溢れて気分がいい

不動の圧倒的な力もそうだけれどバガボンドの意識の集中力も凄い

肉体の潜勢力というか演劇の舞台での爆発的な表現力ともなっているのか

八百と観念三人同時に攻めてくるのを絡めとると三つ巴に

見事に決まってしまった

合気の掛かり方はエネルギーが大きいほど効きがいいようだ

合気操法だけだと力というものをあまり感じさせないから

体感として虚しく観念的なものになってしまう可能性があるから

経堂の住人こと観念にとって不動やバガボンドとの稽古は

物質世界の力の存在を実感できるから観念的なものを

取り払ってくれるはずである

当時岩手県の盛岡から来ていた男でベンチプレスで軽く

百二十キロを上げることができる力自慢も体重六十キロの

人の押さえた手を上げることは出来なかった

物質世界に生きる数多の強者たちが合気というものが

分からず道場から去っていったのも分かるような気がする

肉体の力がエネルギーに姿を変えるというものも

力が有り過ぎるとどうしても力だけに頼ざるを得ないのかも知れない

兎に角運動すると体の細胞にエネルギーが発生して

免疫力も高まり元気になるから稽古はやめられないのだ

 

2020 8 7 天心

 

 

 

試合うとき相手と晴眼同士で構え合うと合気になつて

なかなか勝負が着きにくいのでどちらかがやる気を

出して仕掛けなければ決着がつかない

だから一刀流で合気になるな 合気を外せという

稽古の時にはこれを約束組手で打ち太刀と受け太刀を

あらかじめ決めてやらないと稽古にならない

自然科学にならって一は分からないから置いといて

二から始める 二元的稽古から始めないと 三も四も分からないからである

相対状態の二元的稽古は物質世界の法則の支配に

したがって力と力がぶつかり合う撃剣のほうが

実感があって初心の人にとつて分かりやすいかもしれない

四元的稽古になると光陰矢の如しで時間も扱う

エネルギー問題になってくるからこの境界を

越えるのは量から質になるから難しくなるかも知れない

想像するに無住心剣術の真里谷円四郎の合抜けという術も

相方が勝負しない状態で間を超える時に互いが

合気を外して剣を打ち合わないと風のように

通り過ぎてしまう

宮本武蔵と同じ時代に生きた柳生新陰流の

石舟斎の孫にあたる柳生兵庫助も音無しの剣だったと言うから

合気を外して居たのかも知れない

時も場所も近かったから二人はどこかで

出会っている可能性もある

勝負は五分と五分だと相打ちになるから

強い者同士だとやり合わないで避ける

孫子の彼れを知り己を知れば百戦して危うからずで

勝敗は時の運では頼りないから偶然には賭けない

思うに武蔵は小次郎との勝負も道場での

試合だったら負けていたかもしれない

これもロマンだ

2020 4 16 天心

 

 

 

 

メジロが梅の花をついばむ頃になると

何となく春がほんのりと近づいてくるのが感じられる

可憐なメジロを撮りたくてカメラのレンズを向けると

自然に見ている分には逃げていかないのに

人の物質的な気配を感じるのか

直ぐ様飛び゜去ってしまう

そばで稽古している時はつがいのメジロも一心になって

いるから梅の木から離れていかない

二次元世界にメジロを止めておきたいという

心の気を覚られるのかもしれない

撮りたい心で撮ろうとすると取れない

無心で撮ると取れるのかもしれない

いにしえの人は春の訪れを和歌で残してくれているから

鳥羽上皇のやまとうたを上げておくことにする

ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし

天の香具山 かすみたなびく

もうすぐ春がやってくるようだ

2020 2 29 天心

 

 

 

天心会のパーティー2020年第一回目の天心祭りは

みんなに楽しんでもらえただろうか

今回の仕掛けは灯台下暗し

ミミが仙台から東京に出て来た頃から

いつも近くで聞いていた歌声の素晴しさに

気づかずにいままで来てしまっていたこと

スタジオにやって来たミミに音の女神になつて

みんなの眠りを覚ましてやってほしいなどと言って

頼み込んでみたところサラ・ブライトマンで有名になった曲

Time to say good byeをイタリヤ語でマイクなしで

さりげなく歌ってくれたあの声に心を動かせられた

人もいたのだろうか 場の空気も ミミ 霞 紅葉の

三人によって華やいで賑やかなものにしてくれた

ブラボーも叶わなかった夢をミミとの重唱が出来たことで

少しは満たされたのだろうか

どんな表情をして聞いているのかみんなを

撮りたかったけれどミミの声から離れられず

カメラを動かすことが出来なかったのは残念

ミミはこれから札幌公演のために夜行便に乗って

北海道に行くのだと言って霞とともに帰っていったのでした

帰ってきたらミミに我儘を謝らなければいけない

 

2020 1 22  天心

 

 

 

剣を始めたころはまだ物質的な世界の中で

一寸先は闇のような中をさ迷い歩くような時だったから

何か精神的なものがほしくなり仏教や儒教などの

書物を読み漁っていたその中に言志四録があった

一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂うることなかれ

ただ一燈を頼めとこの言葉は心に残った

勝海舟や吉田松陰の先生でもあった佐久間象山の

師になる佐藤一斎という儒学者が書いたものなんだ

この言葉の力によってかすかな光を頼りに歩み続けられた

それともう一つ情は時を止め意は振り返らないというものも

剣の修行の頼りに少しはなったかも知れない

歴史の表舞台にあまり出てこない人たちが沢山いる中で

勝海舟の少年時代の剣の師匠で島田寅之助

直新影流の達人で名前は忘れられていても

有名な言葉は残っている

剣は心なり 心正しからざれば 剣また正しからず

すべからず剣を学ばんと欲する者はまず心より学べとある

これは英信流二十代宗家河野百錬の書にもこの言葉が

掲げられていたが当時は島田寅之助の言葉だとは

まだ知らなかったこんな言葉を残すくらいだから

その人柄や直心影流の雰囲気が伝わってくるようだ

新陰流の流れを汲んでいるからか

勝海舟ものちに俺が今あるのは少年時代の

剣の修行で島田先生から受けた教えの賜物なんだ

と回想している

この言志四録も少しは観念的な手助けになつたようで

いまだに手元に残っている

 

2020 1 20 天心

 

 

 

ブラボーと突然向かいの席からイタリヤ語の掛け声が上がった

プッチーニ作曲の歌劇ラ・ボエーム第一幕のミミの独唱の

いい所らしい

歌舞伎の何々屋と声を掛けるようなものか

絶妙な間合いなのか間が悪いと演奏者も

調子が狂うらしく幕の合間に楽屋でミミに聞くと

あの人誰?となっていたらしい

多分その男性も若い頃声楽やっていたらしく

ラ・ボエームが好きでこのコンサートにやって来たらしく

蝶々夫人トスカと並んでプッチーニの三大オペラだと言う話など

いろいろなことを聞いて西洋文化の啓蒙を開いてもらったりした

オペラというと映画のオペラ座の怪人とレ・ミゼラブルの

スーザン・ボイルの歌う夢破れてしかしらないものだから

先週にまたミミに呼ばれて新春の演奏会に新橋に

行ってきたわけだ例の如く開場の二時間前の

リハーサルの最中に入って第三幕と第四幕の

ミミが病気で死んでしまう所を近くで見届けてしまう

日本人が西洋文化に惹かれるのも分かる気がする

歌劇も舞踊も日本人が求めているものは

情熱なのかなと思ったりする激しく燃え上がる感情は

日本文化の中で強く抑えられたきたものだから

だからいまの時代感情を表現したがる若者たちが

増えているのかな

そのブラボーとミミが新年会に顔を出すというから

どんなパーティーになることやら今から楽しみだ

 

2020 1 17 天心

 

 

初稽古の夜お正月のテレビの定番といえば

大間のマグロの一本釣りだからつい見入ってしまった

北海道側からしか見ることができた津軽海峡は

函館山からしか見たことのない夜景だった

沖合のイカ釣り漁船の漁火が美しかった

印象しか残っていなかった

本州側からだと青森の大間のマグロは高く売れる

東京の築地のほうに行ってしまうのか

北海道で食べていたマグロは美味しいと

思ったことはなく津軽海峡を青函連絡船を

使って東京に出て来た時店屋物の

鉄火丼を食べたときに美味しかったので

少し驚いた記憶がある

その一本のマグロを追いかける男たち

マグロを釣り上げるために命を掛ける

マグロとの一騎打ち

餌に食いついてくれてもすんなり水から揚がってくれる

とは限らないから格闘が始まる

たくさん大間の漁師の中でもやはり達人と言われる

人の漁法もただマグロを釣るだけでなく

日常生活の心構えと態度からして他の

漁師たちとは違っていた

やはりここでもマグロと巡り会える縁が無ければ

夢もかなわないのだ

男のロマンはまだ津軽海峡の大間に残っていた

かって北海道の男たちがやん衆として鰊漁に

一攫千金の夢を掛けたように

 

2020 1 6 天心

 

 

年が明けた令和二年子の年の元旦から

晴れ渡って清々しく迎えた

素振りの稽古の前に今年も

ご照覧あれと神に祈りを捧げる

ケヤキの枝の先っぽに止まった

スズメたちも参加して興を添えている

所で一本の掛け軸がいまも手元にある

林崎居合大神という道場の床の間に

掛ける大きな掛け軸でこれは

泰山老師が戦後復員した後に北海道で

居合を始めた時英信流二十代宗家

河野百錬先生が北海道を訪れた際に

揮毫されたものなんだけれど・・・・・

山形県に生まれたという林崎甚助 (1542-1621)は

丸目蔵人(1540-1629)や伊藤一刀斎(1550-1628)と

同じ時代に生きていたからまだ畳のない

立膝の生活でいまの正座して抜く英信流

という居合術ではなく五百年前は立ち合いでの

抜刀術で遠間から相手をし止めるというものでは

なかったかと想像される 佐々木小次郎は生年不明だけれど

1612年に宮本武蔵に敗れたときの 刃の寸法も勘助とおなじぐらいの

三尺三寸近くあったと言われる これに八寸の柄を入れて片手切りするとなると

小次郎や武蔵と同じぐらいの六尺近くの大男 ではなかったのかと思われる 

(この時代五尺ぐらいが普通) 当時は神夢想流というような流名の流れを汲むという

十七代宗家で奥山勧禅という人が生前山形で

甚助の刀を所有していたと言うがその後

林崎神社に納められているのだろうか

居合をやっている人たちは奉納稽古に

山形まで行くという

その居合の神様である林崎居合大神と

いう掛け軸と師の愛刀 (二尺八寸)とともに

所持しているわけであるが 今となってはすでに守り神は

光の神となっている天心流なので

この掛け軸は居合を極めようという人に

何時か託したいと思っているところだ

 

2020 1 1 天心 天心夜話

 

 

欅の葉っぱも散ってしまって景色がもの淋しくなって来た公園

令和元年の一人稽古もあと残り少しとなってきた

人工的に作られた公園にケヤキの大木(十メートル)が立っている

その下で一年間同じ位置で素振りをし続けていると何か風情を

感じさせることが多い

隠れ里のようなところだからあまり人が立ち入らないせいか

地面に万遍なく落ちた葉っぱが風の力で絶妙な

散らばり方をしてなかなかいい景色を見せてくれる

こういう風景を自然の仕業というか自然の妙法とも

言うものなのだろうか

人の手が入ると態とらしい所が見えて

整然としてなにか面白くない

自然は雑然と見えても法則でもあるかのように

それが美しく見えてしまうから不思議だ

こんなことを書いている内に

昔稽古の帰り居合の師と一緒に歩いている時に

夕陽が美しいですねと言うと

自然の素晴しさの共感を得られると思っていたら

師はそれを美しいと感じる人の心が

素晴らしいのだと言っていたことを思い出したりした

こういうことが数学の天才岡潔の言うところの

時の情緒なのかなと勝手に思ったりしている        

 

2019 12 19 天心

 

 

合気という言葉を初めて聞いた時響きに何か

限りない可能性を秘めたようなものを感じた

まだ魔術的な夢のような力を夢想していた時だから

居合の泰山老師からその合気の使い手に

佐川という人物が小平にいるということを

聞くといてもたってもいられなくなり直ぐ様

八月の夏の暑い盛りに訪れることになった

その合気の原理に女郎蜘蛛が巣を掛けるのを

観察して発見したという話もある

蜘蛛の糸がふわりと相手に絡みつくように密着すると

動けなくなり相手の力を受けずに攻めることが出来る

合気剣法の別名でもある天心真里谷流は

居合と合気が融け合った

剣術 柔術 心術の三般からなる

日本精神ともいうべき和の心をもって

伝統の技術を新しい形で表現する

新日本剣法ともいえるものです

剣の技術の極まるところが合気になると言っていた

合気の妙境に到ったと思われる佐川老師は

こんな歌を残している?失念しているので思い違いかもしれない

老師の情緒を感じさせるような歌なので上げてみる

 

悟り得て 心の花の開けなば 尋ねん先に色ぞ染むべき

 

2019 12 5 天心

 

 

 

ライブは二十年ぶりぐらいになるだろうか


今回もまた不動とクレオのお招きをあずかったので

シンガーソングライター(森圭一郎)の今年最後の


ライブだというので目黒に聞きに行くことにした


津軽三味線の盲目の奏者高橋竹山の


ライブしか聞いたことなかったから


車椅子の剣士のギターの語り弾き初めてだった


一時間半のライブを聴衆のこころをそらすことなく


語るように歌い 歌うように語って一気に歌い終えた


音楽の合間に詩を歌うように読み上げながら


そして音楽に自然に入っていく


即興でやっているのか空気を支配している


ここはファンと合気になっているな感じた


エネルギーが音楽に姿を変えて表現されているような


音が生きている これが生でないとこんな感覚は


持てないんだろうな


生命の息吹を感じる だからライブがいいのか


音楽はこうでなくちゃ楽しくない


音だけ聞かせるだけでなく音で楽しませる


ふと閃いて車椅子の剣士に天心流のメインテーマの


作曲を頼んでみた


コンセプトは情緒 こころの故郷みたいな勝手なことを


思ってみたりして


形のない天心流だから合気というエネルギーが音楽に姿を


変えたらと思うとどんなインストルメントができるのか楽しくなる


      2019 11 14  天心

 

 

 

2001年からつぶやき続けてきた天心独語も

始めは天心だよりとして書き始めたものだった

とりとめのない拙い文章だから文も武も立った

剣の師匠のように毛筆で書かれたものを門人に

送っていたから 何となく心に感じることもあるんだ

それがいまだと味気ない機械語を送信するから

どれほど伝わっているのか分からない

最近はネット上にも乗せられているらしく

あんまり本当の事を言うと問題になる時代だ

事実を夢のように語る表現方法は

勝海舟のお父さんの勝小吉の夢酔独言を

読んだときに学んだものなんだ

小説じゃない小吉の人生のいき様 演出のないドラマだ

語り口が何とも言えない情緒に満ちている

アラビアの千夜一夜物語のように天心夜話として

事実を夢のように語ってみるがどう伝わっているか分からない

身体表現だと無形で残らないけど口は立たなくても言葉は

残っていくから 言語表現でも門外の人が何かを感じて

コメントをくれるのは少しは伝わっているのだろうと思う

2019 10 27 天心

 

 

 

手は大脳に直結しているから手首の直接刺激は

脳の中の神経細胞が活性化されて

眠っている遺伝子にスイッチが入るかもしれない

自我の強化訓練とも言える手首の関節の刺激

八百や経堂の住人も根を上げる刺激量では

かって佐川道場で鍛えられた不動には効かないから

さらに上の手で締め上げる

さすが黄泉の国に行きかけて戻って来た不動だ

顔色を少しも変えなかった

稽古の後でしきりに両腕をさすっている

痛感刺激で血液の流れが血管の中を激しく

駆け巡るせいで細胞が活性化されたようだ

休眠状態だった肉体に臨戦態勢のスイッチが入ったのか

眼光に鋭さが戻っている

愛は相手との同一ともいう人が合気を愛気とも呼ぶのだろうか

瑜伽も心と対象を一致させると言うことらしいから

心の合気のような感じがする

手の合気 足の合気 体の合気が心の合気と

一つになるそうすると

気が全身に漲ってくると細胞が活性化されて

光の電磁波が発生して共鳴現象が起きる

このエネルギー現象が原始本能の回帰ともなり

岡潔がいう所の時の情緒

創造のエネルギーともなりうるんじゃないかと思っている

2019 10 12 天心

 

 

 

アイヌ民族を題材にした公演でバガボンドがゲストとして

出演した舞台も終えて久々に稽古に出てきた

エネルギーの強いバガボンドだと技の掛かり方も

エネルギー現象として面白いものを見せてくれるのである

生命体はカエルやホタルイカのように生命現象として

光を発するように出来ているらしい

人間もやる気が起こると脳内の60兆もあると言う

神経細胞から伝達物質が飛び交って光の電磁波が出るというから

人間エネルギーも集中と爆発によって光輝く現象を

見せることができるのだろうか

物質のエネルギー現象はアインシュタインの相対性原理をもって

ウランとプルトニウムですでに実証済みだから

人間はどうだろう

光の電磁波によって観客との共鳴現象が起きても

微弱な電位だと電子の飛び交いも少ないから オーラにならないかもしれない

体術の稽古では感情の爆発だけでは術にならない

情力と知力と意力の三つの心が体と一つになった技術を

合気とも言うから高いエネルギー現象を合気と

呼んでも言いかもしれない

稽古では相撲の組み合いや抱き着いて倒す練習で

強いエネルギーを持ったバガボンドの掛かり方が

一番効いていたようだ

合気は相手のエネルギーを利用する術でもあるから

弱いエネルギーだと必要としないので柔術になる

ところでバガボンドは舞台では光の電磁波によって

沢山の観客と共鳴現象を起こして合気で引き付けることが

出来たのだろうか蝦夷地での公演も予定されているというから

多分起きたのかも知れない

観客と合気になるだけではまだ足りないその先の

必要なものに挑戦しようとしていたバガボンドだった

2019 10 1  天心

 

日本の八月は歴史の変わり目になっているから毎年賑やかになる

思い返すと1945年の終戦から日本は朝鮮戦争 ベトナム戦争と

アメリカの後方支援で経済戦争を邁進していたころの1973年頃

一ドル300円時代南ベトナムにいたアメリカ兵の

五十万人以上がほぼ撤退を終えたころの話になる

当時アメリカではイギリスのビートルズやローリングストーンズが

一時夢中になっていたインドのヒンドゥー教の流れを汲む

マントラ・ヨガが世界中で信者を増やしていた T・M (トランセンデンタル・メディテーション)

マハリシ・ヨーギーというインド人は超越瞑想という宗教としてでなく瞑想技術によって

科学的に心と体をコントロールするという瞑想法によつて

西洋人に観念的に受け入れ易い方法を取っていたからだった

それに 1965年から続いていたベトナム戦争の最中でもあり

アメリカ国内では黒人の公民権運動 白人学生の反戦運動

ラフ゛&ピースのヒッピーのムーブメント等々

1970年公開の映画のイージー・ライダーやイチゴ白書なんか

見るとこの時代の空気分かると思う

アメリカも悩み苦しんでいたと見えて

仏教の禅宗やインド哲学にはまった人も多かったようだ

このマハリシ・ヨーギーのことはロサンゼルスで禅をやっていた友人が

帰国していて早くから聞いていたがブームにはならなかった

それから二十年後のサイババ・ブームで日本は飛びつくんだ

不動もインドに行ってこのサイババに会ったことあると言っていた

日本では瞑想法はバブル崩壊のあと1995年のオウム真理教の事件で

カルトとして捉えられて下火になっていった

江戸時代に禅宗の坊主が瞑想法で禅病になる人が増えて白隠禅師が

自律神経の乱れを調整する方法を残してくれたことは前にも話した

正しい姿勢で座禅を組んで瞑想しないと体の中心の腰椎の三番の

気の流れが滞って自律神経が乱れておかしくなってくる

心の観念だけでも偏るから体も伴った修行で修正が必要になる

45年前の1974年八月九日アメリカサンフランシスコのバークレイ大学前の

レコード店のラジオ放送でリチャード・ニクソン大統領の辞任の

ニュースを能天気に聞いていたのを思い出すのでした

       2019 8 9 天心

 

 

 

新橋に降り立つとSLの機関車が広場に展示してあった

そうだ 明治時代に新橋横浜間に日本で初めて蒸気機関車が

走り始めた記念に置いてあるのか

駅前の交番には女性の警官がいたから目当ての場所を尋ねると

血が通っていないような冷たい目で方向を教えてもらう

少し歩いて近づいた所でスマホを見ている優しい大学生に

場所を探してもらう 目と鼻の先のビルの地下に

その場所はあった

まだリハーサルの最中でも親しくしているから自由に入って

勝手にビデオを撮っても許される関係なのだ

観客が誰も入っていない空間でマイクなしの発声なのに

目の前でソプラノの迫力のある声量に圧倒される

これが歌劇の妙味というものなのか

仙台から出てきて東京の桐朋学園声楽科をでた後も

彼女はいまも活動を続けている

オペラの世界には二千八百名ぐらいの声楽家が

しのぎを削っているらしいと聞く

どの世界でも同じでその中で光を浴びることのできる人は

ほんの一握りでただ技術と才能だけでなく美もなければとと言っていた

そして縁もと付け加えた

腕を上げたから見に来てと言われても体の動きは分かっても

声の内容が十年前からどう変わったなんて分からないから

違うところを見てしまう背中をだしたドレスが素晴らしいとか

どうしても色を見てしまうのだった

こちらもビデオの撮り方の腕は三年前のコンサートよりは上がっている

と思っている

 

2019 7 17 天心

 

 

合気というものが見ても分からないからどうしても何か神秘的な

不思議で超自然的な現象として捉えられているのかもしれない

この現象世界であり得ないようなものを見せつけられて

想像力も不足していれば宇宙に行った人しか分からないような

体験は個人的な体験に止まるから言語の世界のように

共有化出来ないから惜しい気がする

合気は一つの概念でこれが合気だと言う原理的なものではない

佐川老師曰く 合気は技術だからどこまでも進化する

この言葉に励まされて観念世界に止まらなければ

合気の技術も進化していくと思っている

ただ言語の世界のように形式があると共有化されて

一般化されてしまうと合気の神秘性は薄れてしまうかもしれない

剣の技術だけが進化し向上しただけでは

合気剣にならない

心の三つの力 知の力 情の力意の力 が一つになって

合気にならないとそれに体の力がエネルギーに姿を変えて

具現化されなければ気剣体の一致とならない

これで剣術 心術 体術 の三つが一つになる

2019 7 16 天心

 

 

 

佐川老師が言っていたことがある

剣の極意は合気になることである と

相対の世界に生きている以上どうしても対象と対立せざるを

得ないからなかなか合気になれない

古の数多の武芸者はこれにいち早く気づいたと思う

塚原卜伝の一つの太刀や伊藤一刀斎の一刀流

二刀流と言われる宮本武蔵も戦うときは一刀だったと思う

みんな一で戦っていた

仏教の空観が意識で自己と他者との区別をこえて

それを一つに見るというなら

合気の術も身体感覚でそれを目指している

武道も仏道もどうやら同じ方向に向かっているのか

体捨といっても身体の欲を捨て去ることだから

自己保存の本能が抵抗するので簡単に

捨て身になることは簡単にできない

二つが一つになれなければ相対状態は維持されたままになる

全ての物の実体性を否定して自由な境地になる

 

五の境地の空は遥かかなたなので  せめて

二つを一つにして三を知る これに四の時間が

入って来るとがぜん面白くなってくる

 

2019 7 10 天心

 

 

仏教でいうところの色即是空

物の本質として実体は持たないという空の認識を

知だけで分かったような気でいたが人は物質的世界に

生きている以上知だけではなく情も知る必要がある

密教の解釈では理趣即愛染といって妙適清浄

人間の情愛は自他の対立を超えた愛に転じうるというもので

人間存在の自然を知って生きようというのである

これが宇宙にあまねく情 天地有情の意味が何となく解りかけてくる

空(くう)とは事実の認識 色(しき)とは物質的なもの

物質的な現象世界から実在がつかみ出された場合

第六識の自我意識が対立したままの状態で向き合うことになる

せっかく人間本来の自然を知っても人間界の欲の対象は

相対状態から離れることが出来ないからである

どうしても理趣の情をつかみ取るには心の第八識をかりなければ

情緒にたどり着けないだろうとそんな気がしている

昨日の稽古 妙珍と八百そして紅花のエネルギーはぶつかって止まっていた

肉体を柔らかいエネルギーが止まることなく突き抜けていく

即行空の空のエネルギー

2019 7 8 天心

 

 

ある画家が絵は祈るように描くと言っていた

なるほど芸術でも似たような心境になるものなのか

剣も振るときは祈るようにして振る 斬るときは拝むようにして打つ

勿論三昧になると涅槃寂静というか振っている時だけは

脳の思考は停止しているらしく全ての悩みを忘れているが

日常に戻ると釈尊のように悟りを開いて暮らしているわけではないから

せめて朝晩の束の間だけでも脳細胞を休ませることにしている

肥田春充の精神でもある正中心

人の中心線を斬ることを心掛けていたせいか

こんな感覚をもつようになった

左右の脳細胞がそれぞれの働きをしているから

これを一つにすることがなかなか難しい

剣の刃筋が中心線を左右どちらかにずれてしまう

二つを一つにする さらに頭の下の手も足も胴体の五体を

一つに統一させる もっとちょっと言うと

左右の側頭葉二つと前頭葉と後頭葉の二つの四つを

頭頂葉の一つでまとめ上げることが出来れば

情緒が生まれるとそう思って剣を振っている

そうすると物質的自然界から離れて宇宙と一つになるという感覚か

若い頃肥田春充の宇宙倫理の書というのがよく分からなかったが

同じ年頃になったからか少し分かってきたような気がしてい

天と地の間に人が剣を振って一つになる

 

2019 7 5 天心

 

 

朝見るとたった三個しかなっていない盆栽の梅の実が一個

なくなっている

毎朝必ず梅の実を確認するからすぐわかるんだ

どこかに落ちていると思っていくら探しても見つからない

諦めかけてもう一度さがすととんでもない所にあった

エアコンの室外機の上に乗せてある鉢の上から落ちた

丸い実はどこかあらぬ方向に飛んで室外機の下に潜り込んでいた

やれやれほっとしたのも束の間翌朝になるともう一個無くなっている

また探してみるとないもしやと思いまた同じところを見てみると

あったあった二度目になると偶然がもたらす必然かと思ったりする

自然の働きは意図せずにこんな不思議を見せてくれた

最後の一個の実は三度目の偶然が起こる前に取ってしまった

今年は杏の実も九個なってくれたから取ってこれもジャムにした

 

2019 7 1 天心

 

 

相撲の勝負は丸い土俵の上で約五メーターぐらいの円の中で

行われ目に見えている

剣の場合だと目に見えない自然空間のなかで

双方とも武器を持っているから徒手の倍ぐらいの

間合いから空間の場で一瞬の出合いの因果が展開される

室内競技の試合だと空間の枠は限定されているが

屋外の自然空間だと円は見えないが人は物質的自然に

支配されているから無意識に感じている人は

その空間の枠から自由にでられないかもしれない

真里谷円四郎を知ったときから何故円四と名付けたかを

ずっと考えていた丸い円の中を四角い人間がくるくる回っている内に

角がとれて丸くなってくる 円転とはそういうことか

室町時代の上泉伊勢守のまろばしを追っているうちに

江戸時代の真里谷円四郎にたどり着いてやっと気づかされた

人間だんだん角が取れて丸くなるとはそういうことか

円やかに優しく柔和無拍子に動く

これによって即行空がやっと見えてきた

足利幕府の235年 風姿花伝の世阿弥もそうだけれど

伊勢守 信玄 謙信 信長と室町時代には

凄い人が多いな

2019 6 27 天心

 

 

天心真里谷流が密教的でもあるなと感じたのは

光の神 摩利支天を守り神としているからで

空海の真言密教の大日如来の化身として明王や尊天

その中に摩利支天も入っているからでもある

1990年に千日行の鍛錬を終えたときに八角鍛錬棒の表に

その証として九字を刻み込んだ

臨兵闘者開陣列在前と

すこし呪術的なところもあるのは

人間の能力の限界を試そうとするときにはどうしても

人間界の自然を超えた超自然的な魔術的な力を借りたくなる

だからどうしても呪術的にならざるを得なくなる

鍛錬しているうちに光のエネルギーの恩寵を

感じたからこそ光に感謝したくなるんだ

五百年前に上泉伊勢守が亡くなった後 肥後熊本の

丸目蔵人佐は新影体捨流をのちに

流名をタイ捨流と名付けて稽古の前にこの

九字を唱えてから始めると知って呪術的な所

似ているなと感じた 伊勢守の新陰流の流れを汲んでいると勝手に思っていると

自然とそうなるのかもしれない

 

それで天心流の稽古の前の儀式としての心構えは

心は神道 道教 仏教をひとつにして

体は天地人と自然界の光に感謝しつつ刀礼し

そして師に挨拶してから稽古を始める

剣は知でやるから九字は唱えない

 

2019 6 18 天心

 

 

水無月

梅雨の時期に入ったから今年も

梅を十キロ漬けてジュースにして晩酌がわりにして飲む

酒を飲む習慣がなかったので四十年ぐらい前に

居合の泰山老師に梅ジャムをもらったことがきっかけで

梅酒でも作って見るかなと始めたことだ

都合のよいことに青梅市に住む知人が高齢で

自宅の庭の梅の実をどうぞ取っていってくださいというので

これ幸いとばかり梅を十キロもらって背負って調布まで

やっと帰ってきた

これで山男のすごさがわかった山で足を怪我した女性をおぶって下りてくる

五十キロぐらい一人で背負って歩いてくるんだから地力がちがう

話をもどすとそれ以来梅酒といえどもアルコール分つよいから

自然と梅ジュースになったそれでこの六月は安い梅を探し回る

今年はコンビニのセブンイレブンで発見

すかさず十キロ漬け終えた

老師は戦後昭和23年には四国の土佐で無給で結核

療養所で働いていた生計はどうしていたかと言うと

まだ食糧難の時代だから豚を飼っていたと言う

その餌はどうしていたかというと結核の患者の残した食糧が

たくさんあったから豚はどんどん太ったという

それを売りにいって生計のたしにしていたという

あと米の自然農法や養鶏や養蜂などいろいろな話を聞き

興味もわいたが都会だから梅だけにしている

だからこの六月の梅の時期になると師の誕生月でもあり

恒例の儀式?でもあるんだ

2019 6 14 天心

 

 

武芸についてちょっとまた語ってみたいと思う

武器をとって相手を殺めることを武とする殺法

徒手で人を活かす芸を活法と言ってもいいだろうか

佐川老師の晩年九十代の体の合気の技が

あまりにも超絶した見せ技で

息をのむという感覚はこれで知った

老師を百キロぐらいの猛者の弟子が相撲の四つの

がっぷり組ませた状態からあっと言う間に体ごと

裏返しにされて畳に叩きつけられる

受け身をとる暇もないくらいの速さで百キロの物体の

凄まじい音が道場に響き渡り衝撃波が畳を伝わってくる

この技は八十代から見ているがいまだに原理が分からない

一瞬の技だから何が起きたのか全く分からない

前後左右の原理とは違い上下の重力操作を

手でなく体だけであっと言う間に裏返しにしてしまう

2004年に栃木の那須塩原に剣を教えに行った時に

もと自衛隊上がりの百キロぐらいの人に

師が見せてくれた技を初めて試して見たりしたが擬きで

この技だけは真似出来ないでいる

この合気の技を武術ではありませんねと言っていた人がいたが

ただ見ているだけで鑑賞するしかないなら芸術的とも言える

だから武術と芸術芸能は切り離せない表裏一体なのだろう

佐々木小次郎も横笛を嗜んだと聞く本当かどうかは分からないが

それを知ったとき風流だなあと思ってそれに肖った

2019 6 12 天心

 

 

上泉伊勢守の新陰流は愛洲移香斎の陰流転し(まろばし)という技から 生み出されたと伝えられている

天心流の元は五百年前のこの転しを解き明かす道でもあったから 楽しい旅でもあった

柳生流の正伝新陰流の書にある影目録にも伊勢守のまろばしの 記述は何も残ってはいなかったから

はたしてどのような技だったのか想像していくしかなかった 歴史は色々なヒントを残してくれている 

例えば 二千五百年前の中国の孫子の兵法書に車懸りの陣というのがある

五百年前の日本の戦国時代にも越後の上杉謙信が甲州の武田信玄と戦った際この車懸りの戦法をとったとも言われている

江戸時代の甲源一刀流の刀法にも車の構え(脇構え)から左回転でぐるぐる剣を回しながら間を詰めて打ち込む型があったりする

新陰流の刀法は殺人剣でなく活人剣だから回転運動でなく剣を下から上にあげる直線運動ではないのか

だから江戸時代の真里谷円四郎の無住心剣術はただ 剣は上げて下げるだけという言葉を残したのではなかったのか

どうやら空間と時間の問題だということが分かってきた

しかしながら一番肝心な問題が残っている 心が体捨できるかだ 

人は生き物としてどうしても身を守ろうという精神があるから

すでに悟りを開いている女なら恋に身を捨てることができても 男はなかなか捨て身とはなれないのだ

伊勢守の新影流の流れを汲んで熊本に帰った丸目蔵人佐も この心をもって体捨流としたのではなかったのか

平成の世で佐川老師の剣の語録で残しているのは 次のようなものだ

私は身体を敵にさらすことを心掛けている いわば 身体を捨ててゆく 斬らせる誘いをかける 

これに 相手が乗って斬ってくるのを待っている と

古人は身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと言った

2019 5 31 天心

 

 

調布の夜の公園稽古のさなかに姿を現したのは二十歳の青年だった

目黒の秘密パーティー?も終わった二日後の日曜日だから

浮かれ気分がまだ残っているなか調布から高田馬場の稽古にいく途中新宿駅ビルで財布を拾ってしまったのだ

女性が持つような物入れで一万数千円ほど入っている

何とか当たりを付けて連絡してみるとここは盛岡ですと言っている

どうやら盛岡から東京にきているらしい人だとわかってきた

稽古の最中連絡ががきて秋葉原のイベントにきているので戸山公園に一時にいけません四時ではというから

じゃあ新宿駅ビルの猿田彦に預けておくからと言ったものの

猿田彦ではお金入っているから預かれませんというのでとうとう財布は調布まで来てしまったのだった

盛岡から秋葉原に遊びにきて夢中になっているから青年は財布をなくしたの現実ではなく夢うつつだったのかもしれないな

盛岡の大学生との縁を考えると多分二度と会うことのない 一期一会の縁

映画じゃないから寸劇にもならず感動の嵐もなく九時間の物語は自然に終わりを遂げて

その因縁の財布は持ち主とともに深夜バスで 盛岡に帰っていったのでした

2019 5 21 天心

 

 

千夜一夜物語のアラビアンナイトの舞台になっているところは

イラクのバグダッドだった バスラといって唐の長安におもむくシルクロードの始発点であった

アラビアでは当時インド支那の東方にある極東の島に

黄金の国があり黄金の島では極楽鳥がワクワクと鳴くというのだ

七世紀以前の日本の呼び名は倭国と言われていた時代だ

陸からはアーリヤ人がペルシア インド シナと渡っていった

海からはシンドバットのような船乗りがスペインの伴天連を乗せて

日本にやって来たムスリムは水先案内人だけだった

ギリシア人は火に入っても燃えないサラマンダルという鳥を後に不死鳥に変えインドに伝わると

怖いサラマンダーに 支那にわたって鳳凰に日本に伝わると不死鳥 手塚治の火の鳥になった

中国の想像上の鳥 鳳凰はいまも日本の旧一万円札の裏面に描かれている

黄金の国ジパングはいま都市に眠っている金の埋蔵量がなんと六千八百トンと言われるからいまも日本は

極楽鳥が鳴く夢のような島なのだ

2019 5 4 天心 令和

 

 

平成の世が終わろうとしている

思うに明治時代ぐらいまではまだ文武両道でやっていたから 心映えの美しい素晴らしい日本人がたくさん居たのだろうか

日露戦争では奇跡的に勝ちすぎて 若い人がそれでたくさん死んでしまった

大東亜戦争が終わってアメリカに占領された日本に 強制されたのは教育改革だけでなく日本古来の武術 なども禁止されていた

1945年から1952年の八年間にかけてGHGの占領政策 として行なったWGIP ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

3S政策 スポーツ、スクリーン、セックス などで 日本人を洗脳するための工作によって戦後多くの日本人の 心を観念的に縛った 

武を抜かれてしまったから 戦後七十年以上過ぎても現実を見ようとしない 念仏平和主義の日本人が増えているから

ほぼ成功したのだろう

戦後復員した後に四国の土佐に武者修行にいった泰山老師に 聞いた話で占領軍に禁止された武術の中で

土佐の英信流の居合と北海道北見の大東流合気武術だけは 隠れて秘かに続けられていたと言うのだ

ところで日本人の価値はアメリカが押しつけて来た価値に 染まってしまっているのかどうか

日本人の精神は科学技術の物質に負けたのだから今度は経済で勝つといったところで高度経済成長を

実現して物に満ちあふれた生活をしていても 心の充足感は低いらしい

気になるのはもう一つのS若い人のスマホ中毒だ

目と指だけでなく頭と心と五体をもっと動かさないと

日本人はダメになる         

2019 04 29  天心

 

 

精神と物質といっても 心と肉体のことなんだけれど

物質的な闘争はなくなっても精神的な戦いはなくならない

と歴史学者のトィンビーは言っているように 人の精神は勝負事を好むから前頭葉の抑止力によって

戦争のない今代償的行為としてのスポーツなんかでうさを晴らしているのだろうか

社会生活や人間関係のストレスから頭を守るための手段の一つとして酒を必要としているかも知れない

酒と女に歌と踊りで脳を酔わせるほかにも心のうさを晴らすもう一つの方法もある

身体運動のリズミカルな機械的刺激によって脳の新皮質を酔わせることで意識の水準が低下してきて

心のうさ晴らすことができるのである

病は気からというだろう気晴らしがないと人間おかしくなる

社会生活のフラストレーションを遊びでうつつを抜かしていても行為に創造の喜びを感じることができなければ

どうしてもお金で飲んだり踊ったり賭け事したりしてうっぷんを晴らすほかないのである

日常行為の木剣の素振りも統一状態には四十秒ほどかかるが脳は酔うどころか頭は澄み切ってしまうから朦朧状態にはなれない

夢といえば随分まえに夢酔独言を読んだ事がある

勝海舟のお父さんで勝小吉という人の書いた本で大変な人だよ

幕末の剣聖といわれて江戸の三大道場の三人が手も出なかった直心影流の男谷清十郎をあしらった程の腕前だったという

こんな父親から幕末の日本を救った勝海舟という男が生まれるんだと思って忘れなかった

四十九年を夢のように生きた男だ

2019 4 30 天心

 

 

花鳥風月

蘇東坡の花は紅 柳は緑というより 花と言えば桜より梅

鳥といえばウグイスよりメジロだ

二月に咲いた梅の花の蜜を花びらを散らさないように メジロが上品に吸って飛び回っていたのも束の間

サクラの三月も昨日で終わってしまった

その最終日の稽古に色のない男所帯の天心会にとうとう 紅一点が登場

四国の香川県から来たという

ちょっと前から瀬戸内海や四国地方の方に興味を

持っていたのも居合の老師が二十代の若い頃 戦争が終わって復員したあと

郷里の北海道北見から 四国の土佐に居合の武者修行に行っていた所でもあったからだ

そう言えばバガボンドのおじいさんも高知県の室戸に いたんじゃないか 

何かの縁でもあるのかな

桃の花があまりにも目に鮮やかに映るから大伴家持が歌った

桃の花 紅色に にほいたる 

から思い立って 調べると日本の国旗の赤丸が紅色と定められているじゃないか

日本の伝統色だ 紅花の趣があったから綽名はくれない 

末摘花 八百の合気上げより筋がいい

天心真里谷流の女流剣士の印可の第一の塾生となるかもしれない        

2019 4 1 天心

 

 

この時師は60代、佐川老師80代


天心は30代で、二人の師について修行に励んでいたわけです


剣をもって摩利支天を拝し、天なく地なし,心何処にも住する所なく、自然にして


万変に応ず、すべからく私心を捨て、不惜身命の心をもって修行すべし


道は近きにあり、心境明らかなれば、一朝豁然として天心を知るべし


2014 9 25 天心

 

 

『佐川老師の夢をみて』

天心流の由来を物語ると 居合刀法は泰山流河西老師から柔術は大東流合気武術佐川老師の教えによって導かれ生まれ出たものです


柳生新陰流21代宗家柳生延春先生はじめ土佐英信流20代宗家竹嶋壽雄先生大東流合気柔術六方会岡本正剛先生などの縁もあったのですが


抜刀術に止まっていた業に示唆を与えてくれたのはやはり甲源一刀流佐川老師の合気剣と即行空によってでした


何故なら 居合をはじめた頃泰山老師から若いとき即行空という技に見事に破れた話を聞かされていて老師を破ったと言う合気というも

のを知りたくてまだなにも知らないままどうしても合気というものを手に入れる ために佐川老師のもとを訪ねた話は以前したね


そして暑い夏の昼下がり佐川老師を訪れた道場にはまだ誰も居ないなかで坐取りで老師から合気というものを初めて体験させられたんだ


したではなくさせられたに注意主体がなくなって客体になってしまっている老師が生きているとき合気をかけられたのはこの一回かぎり

だよ 居合をやっていたので佐川老師は剣は教えないというでもこれで十分 合気という鮮烈な感覚は忘れることがなかったから


それを頼りにやっていったんだ 居合 剣 合気と 老師二人とも北海道北見の出身で父上たちも会津の小天狗といわれた

武田惣角先生の弟子でもあり東京に出た植芝盛平先生や堀川幸道先生の弟子として末席にいた岡本正剛先生の時代に河西老師のご子息も

堀川先生の道場に通っていたりとのちに武田先生亡きあと堀川先生も佐川老師に師事したり河西老師もまた中国大陸の上海に渡る前

当時東京中野の佐川老師を訪れ3本立合った際即行空によって見事に敗れ去っています


会津 武田惣角 合気 北海道と 何かの縁を感じるな

佐川老師の夢をみて


2012  8 16   虚舟

 

 

 

謝礼について


感謝報恩の心の現われが、謝礼(月謝)となり、之が定額化して唯物的傾向が指導料、講習料的考えになり、指導を買う、免許、允可、

段位等の資格を買うという考え方となり、その結果心の観念が薄れ、技術的な事は理解出来ても道の心を理解会得し難い時代に

なっている


1979   泰山

 

 

天心余禄

1979年昭和54年7月から書き始めた泰山語録


現代の日本人が忘れてしまっている大切なことを数多く書き残しているので


新しい人も参加し始めたこともあり日本の文化を知る上でも貴重な資料を


紹介していこうと思います