英米の罠から目を醒ませ、日本人よ! 《41─────────

 

                    鎖帷子剣士

 

 

ドゥテルテ大統領の暴言が代弁するフィリピンの反米感情

 

★40年前「戒厳令下」のマニラ

 

昨今、米国共和党候補ドナルド・トランプ氏と並び、オバマ大統領に暴

言を吐いて以来、マスメディアに叩かれっぱなしのフィリピン大統領ド

ゥテルテ氏です。

が、筆者は40年前のマニラ市の風景を思い出します。

 今もあまり変化はないと思いますが、マニラ市内の高級ホテルから市

街を見下ろせば、赤く錆びたトタン屋根の貧民窟が眼下に点在し、米軍

の払い下げジープを改造した、銀ぴかメッキに赤や黄色のデコレーショ

ンを施した、けばけばしい、乗り合いタクシーが縦横に走り回り、政変

による「戒厳令下」夜間外出禁止の街中の、夕方の喧噪の雑踏を抜けな

がらクルー全員でひとかたまりとなり、滞在ホテル近くのレストランへ

夕食に出かけたものでした。

 

 南国特有の解放感と共に、マ二ラ湾に沈む夕陽は評判の通りに美しく、

こんな遠隔の地で日米の激しい地上戦や、洋上決戦が行われたことなど

想像も困難で、飛行前に会社で受講した路線教育で、『現地の反日感情

に気を付けるよう』、先輩乗員の親身のアドバイスも、若い身空にはま

ったくどこ吹く風で、土産物店を物色したりしたものでした。

 印象的だったのは、昼食に入った大衆食堂の中央壁面に、若き皇太子

妃・美智子妃殿下の着物姿の大きな上半身肖像画が掲げられており、揉

み手であらわれた主人とおぼしき男性が、『ニッポンファーストレディ

 ナンバラワン!ウツクシイ!』と言った光景を思い出します。美智子

妃殿下は、誠に清楚で気品高く美しく、当時の海外出張の日本人の誇り

でありました。

 そのお姿は、日本文化を一身に具現しておられたのです。

 

 もう一つの思い出は、日本でも大当たりした映画「トラトラトラ」の

マニラでの上映でした。評判のこの映画を、マニラ市内の映画館で見た、

クルー仲間から聞いたのですが、日本海軍の航空機が真珠湾上空に飛来

するや、次々と米戦艦に魚雷や爆弾を命中させるたびに、館内の現地フ

ィリピン人達は絶叫して、躍り上がり飛び上がり、手を叩いて大喜びだ

と言うのです。

 

 同じ映画を、軍港サンディエゴの映画館で見た、日曜外出のパイロッ

ト訓練生達は、並み居るアメリカ水兵達の怒号と、靴で床を打ち叩くブ

ーイングの激しさに恐れをなして、水兵達に見つからぬよう、上映途中

からそっと映画館を抜け出してきたと言う証言とは、真反対の光景でし

た。

 

 日本海軍を、カッコよく英雄的に画いたこの映画の「深謀遠慮」は、

日本人に日米開戦の責任を、「民族的快感」と引き換えに、知らず知ら

ずの内に、ごく自然に日本人自身にあるものとして、攻撃の負い目を抱

かせると同時に、アメリカの開戦責任を回避させようと狙った、それも

絶対的責任当事者である、ルーズベルト大統領が、一度も画面に顔を出

さないことに象徴されるように、「ルーズベルトの犯罪」を隠蔽すべく

作られた、極めて「意味深長な映画」でした。

 東洋のイエローモンキーパイロットを、こんなに立派にカッコよく画

く異質な映画の真の意図には、名匠黒沢明監督と言えども、自己裁量の

立ち入った解釈は許されなかった上での、アメリカ側との深刻な衝突が

あったものと思います。

 「20世紀FOX社」に与えられた制作意図は、監督以下少数の関係者にし

か、多分開陳されていなかったことでしょう。

 

米西戦争とフィリピン独立戦争を援助した「大アジア主義」

 

 本題に入ります。

 このマニラ市内での映画館の激しい反米感情は、一応「米西戦争」に

までさかのぼります。

 1898年(明治31年)215日、キューバのハバナでの暴動に対して、

アメリカ市民保護の名目で派遣され、ハバナ湾に停泊していた米戦艦メ

イン号が、原因不明の爆発事故で沈没し、260人の犠牲者を出しています。

 アメリカは原因不明のまま、これをスペイン側の工作によるものと決

めつけ、「リメンバー・メイン」を合言葉に「スペインの植民地支配に

苦しむ人々を助ける」という名目で、スペインと戦争。

 「素晴らしき小戦争」と呼ぶ短期間での大勝利で、キューバ、フィリ

ピン、プエルトリコ、グアムを米国は手に入れました。

 

 戦争は太平洋を越え、スペイン領フィリピンにも及びます。

 米国は最初フィリピン人に宗主国スペインを負かしたら独立させると

約束し、フィリピン人反徒を革命軍として利用します。

 ところが、スペインが降伏すると、パリの講和会議でスペインとの密

約(領土権譲渡)により、フィリピンを植民地にした米国は、米本国か

ら呼び寄せた8万人の陸戦隊でフィリピン革命軍を徹底的に壊滅させます。

 この掃討戦の指揮を執ったのが、アーサー・マッカーサーと、後に大

統領になる、ウイリアム・タフトらであり、アーサー・マッカーサーは

後の、日本占領統治の連合軍最高司令長官、ダグラス・マッカーサーの

父です。

 

 マッカーサー家にとって、植民地フィリピンは深い因縁の地なのです。

 ジャングル地帯に追われたフィリピン革命軍のリカルテ将軍は、同志

マリアーノ・ポンセ(のちに独立政府の外務大臣)を日本に派遣し、軍

事援助を求めます。

 これに対して、頭山満、犬養毅、宮崎滔天、平岡浩太郎(九州の石炭

王、実業家)等が協力し、時の参謀総長川上操六を動かします。

 川上は「武士は相見互いである!」と決断し、外務省の意向に反し、

国内から大量の武器をドイツの商社を通じて三井物産の手配した「布引

丸」で秘かに運搬に当たりますが、1899年(明治32年)721日長崎を

出港後、船は上海沖で嵐により沈没、石川船長以下16名が遭難します。

 

 この話は今も日比の友情物語として語り伝えられ、遭難者達はフィリ

ピン国から顕彰されています。

 その後、リカルテ将軍は米軍の捕虜となり、グアムへ流刑、幾多の流

転の後についに日本への亡命を果たします。もちろん、日本政府にも外

務省にも内緒で、多くの「大アジア主義」の日本人志士達が、リカルテ

将軍の救出劇と援助に力を尽くしています。

 

 リカルテ将軍が再び祖国の地を踏んだのは、大東亜戦争で日本軍がフ

ィリピンを占領した時で、既に75歳でした。「リカルテ将軍帰る!」の

報に、フィリピン国民は熱狂しますが、劣勢となった日本軍からの日本

亡命の勧めを断り、山下将軍と行動を共にし、19457月、北部ルソン島

の山中で司令部要員に看取られながら、陣没しています。享年80歳、遺

骨は遺言通り日本に分骨され、現在横浜山下公園内に「リカルテ将軍記

念碑」が建っています。

 横浜山下町は、亡命中の将軍の寓居だったのです。

 

 米国に裏切られたフィリピン人達は、対米独立戦争を起こしましたが、

米国は一方的に「彼らは正規の軍隊ではなくゲリラである」と宣言し、

逮捕、拘束、拷問、虐殺、処刑、あらゆる国際法規の適用外行為を公然

と行い弾圧を続けます。

 (ゲリラ、レジスタンスには今日でも国際法規の保護適用はされない

ことを、軍事常識として知る日本人は、自衛隊員以外ほとんどいません)

 

 ルソン島北部に追い詰められたフィリピン独立軍を追う米軍は、地元

の村人を道案内に立てます。ところが、「八人の道案内人がわざと遠回

りの道をとらせた」ことが判るや米軍士官は怒り、七人を銃殺にし、リ

ーダー格の一人には一日一発ずつ、ひざ頭など致命傷にならない部位に

銃弾を撃ち込み、やっと四日目に処刑を終えるような蛮行で報復してい

ます。

 

 このような仕打ちを、日本では「底知れぬ外道」、「人非人」と言い、

「ムゴイ」と言う。もはや道に外れた人にして、人に非ずの意です。

 そしてサマール島虐殺事件が起きます。この島に75人の米兵が進駐し

てきた際に、村人達が隠し持った武器で襲い掛かり、30数人の米兵が殺

されたのです。

 島民が米兵に如何なる感情を持っていたか……。米軍はこれに対し、

直ちに報復を実行します。女子供を含め、サマール島と隣の島の住民2

数千人を皆殺しにしたのです。マニラ湾南の、アギナルド将軍の故郷で

は、住民を銃で殺害こそしなかったが、全ての田畑や家屋を焼き払い、

家畜を皆殺しにして見せしめとします。

 食べるものも家も失った住民達は、飢餓地獄の中で死んで行き、その

数は5万人とも言われています。

 

 

米国植民地フィリピン人の記憶に刻まれた怨念

 

 1902年、「フィリピン人・約20万人を殺害」(アメリカ上院報告書)

したゲリラ平定戦は終わり、ロサンゼルスにある米西戦争記念碑には、

『この戦いに参加し、植民地支配のくびきに苦しむ外国の人々に自由の

手を差し伸べた米軍兵士達に』と彫られています。

 

 以下は時のアメリカ合衆国大統領マッキンレーの述懐の一部です。

 ──『実は私は、フィリピンを欲しいと思っていなかったのです。神

様からの贈り物として我々の前に現れてきた時、私はあの島を、どう処

置していいか、分かりませんでした…………私は夜な夜なホワイトハ

ウスの床を歩いて、真夜中に到りました。私が跪いて、全能の神に光明

と指導とを与えたまえと祈ったのは、一晩だけではありません。

 その内ある晩おそく、こんな風に考えました。どうしてそうなったの

かわかりませんが、とにかくこう考えたのです。

 

 1…………

 2…………

 3、フィリピンをフィリピン人にまかすわけにはいかぬ。フィリピン

人は自治の能力を持っていない。じきにめちゃめちゃなことをひき起こし

て、スペインの時よりもっとひどい政治を行うだろう。

 4、こうなると、もうフィリピン群島は全部領有して、フィリピン人

を教育し、文化的に高め、キリスト教徒にさせる。そして神の恩寵によ

って、フィリピン人に対してできるだけのことをやってやり、我々の仲

間にする以外に道はないと考えました。それから寝床に行って眠りまし

た。安らかに眠りました。』──

      ──島田謹二著「アメリカにおける秋山真之」より──

 

 独立戦争を封じたアメリカはフィリピンに対し、徹底したアメリカ化

と英語を公用語とする語学教育を行いました。そのために、何百人とい

う宣教師が送り込まれています。ここまで徹底的にやられたフィリピン

人はまったく抵抗をやめ、米軍兵士に笑顔を振りまき、米国に服従と忠

誠を誓って良き植民地人になっていったように見えます。日本の敗戦後

は、米国の気に入るように偽りの証言をして協力し、日本人BC級戦犯を

大量に生み出しています。

しかし、民族の深層心理に刻み込まれた怨念は時に表面化し、米国の

偽善に怒りが噴出するのでしょう。現在ドゥテルテ氏は80%以上の高支

持率を維持し、上下院ともに掌握しています。

 しかし、フィリピン人の植民地としての怨念を、日本のマスメディア

はアメリカに遠慮しているのか、決して伝えません。

 ドゥテルテ氏の暴言にもかかわらず、氏を支持している国民感情は、

「サマール島虐殺事件」を含め、積年の白人支配に対するフィリピン人

の深い怒りが、同感されているのです。

 

 ドゥテルテ大統領の「麻薬撲滅戦争」を、人道上から批判した欧米に

対して、近世以来、アジアにおける阿片の売買で巨万の財を成した白人

達の偽善を、ドゥテルテ大統領は、自身をナチスドイツの独裁者ヒット

ラーになぞらえて、強烈な皮肉で挑戦しているのです。

 

 米国主導のグローバル化への民族の反動が、世界で湧き起こっています。