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いらっしゃいませ!茶店の開店(11 Mar.2000)

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目次-1
 

目次-2

(4)フェースブックで書けなかったこと

(5)サムライの「いろは」


煙管のけむり〔第一話〕の前口上 から 
 
むかし、むかし…、と言っても30余年前ほど、初めて煙管(きせる)をすった。まだ当時は煙草屋さんが健在で、東京でも「きざみ煙草」が置いてあった。名は忘れた。長い筒を通るから巻煙草なんかより旨い、ということは聞いていた。が、味の記憶など覚えていない。ただ、まさに、ほんの”一服”だったことに愕然とした事だけを生々しく覚えている。その愕然の中身と言うと、「日本人って働き者だったんだ」という体感にだった。まさに、このほんの”一服”で、すぐ仕事に戻っていたのだ。驚きと同時に、私の何代か前の先祖の健気さ、ひたむきさ、哀れさみたなものが、ごっちゃになって襲ってきた。私は今はパイプをやっているが、あの時の煙管の”一服”との違いを身体の奥深くで比較している気がする。あの当時、『パイプのけむり』という人気のエッセイがあったのを想い出し、その題名をもじり、己は所詮、日本人であることを自覚し、「煙管のけむり」と題した。一瞬、空を漂い、かき消えていく煙のように、つれづれなるままに綴る。ゆえに著者校正、校閲もなし。ご容赦を、前口上、おわり。

   
目次-1
コラムNo.1 ̄No.72
1.戦争論 2.非道
3.一人射会 21.「小柄工房」の一日(1) 37.パール・ハーバー 55.国とは
4.弦音(つるね) 21.「小柄工房」の一日(2) 38.「手前味噌」 56.マバラカット神風慰霊祭
5.湾曲の美 22.引っ越し 39.「十五夜に思う」 57.「後を頼む」
6.宮本武蔵 23.斬り手不在 40.神風特別攻撃隊 58.「土方歳三のことから兵頭二十八へ」
7.顔 41.「父の行方」 59.『大菩薩峠』と『宮本武蔵』
8.天神真楊流 24.栗原彦三郎昭秀全記録 42.「照準の中のソ連兵」 60.プロ総合格闘技のゆくえ
9.敵を知り、己を知る 25.剣客商売 43.「アフガンの歴史」 61.不二流体術のことイラク戦争のことなど
10.日本刀のこころ 26.拝外主義『菊と刀』 44.題して新年射会の扇 62.情操教育
11.天然理心流 27.「無銘刀」のメッセージ 45.CRAZY TANAKA 63.「格闘技通信、源流の旅」
12.桜と刀 28.「剣道韓国起源説?」 46.「国士」 64.「格闘技通信、源流の旅」その2
13.菊一文字 29.旧暦の一月一日 47.武州下原(したはら)刀 65.夏が戻った日、日本武道具を訪ねた
14.天動説 30.武器の曲線美 48.現代の「サムライ」と「軍学者」 66.武道家と軍事史、兵器
15.一客一亭 31.日本語の公の意味 49.松井章圭?前田日明対談の帰路に 67.千葉周作の格子窓と電子出版
16.内戦思想 32.自分の国を知ることが国を愛すること 50.日本の精神育成教育 68.憲法より上にある日米安保条約
17.Web版武道通信 33.安沢東宏(平次郎)十段 51.刀と日本人 69.切腹の遺伝子
18.葉隠 34.日本を変える 52.「兵頭二十八本」 70.『大射道』
19.今様大本営 35.「武道家が食えない日本」 53.兵頭二十八−嘉村 孝対談 71.若きサムライ育成塾
20.時代にて能き様にする 36.「いつの日か、ネット選挙運動」 54.撃墜王坂井三郎の<奇襲> 72.護身術、その前に一番必要なもの

七十二話 護身術、その前に一番必要なもの


 先の十二日、田中光四郎さんの「不二流体術護身法」のDVDが壮神社から刊行される。その撮影の折、お邪魔した。

 この日の模様は『武道通信』HPの「草莽! 杉山奮戦日記」で、写真付きで「掲示版」に載せたので読んでいただくとして、先に兵頭二十八さんの護身術塾もあり、奇しくも半月の内に弊誌の編集員である兵頭さんと田中さんの<護身術>を体験した。 

 果たして、路上とかで暴漢に襲われたとき、誰かを助けるとき、とっさに本やビデオで覚えた技が出るのだろうか。身体にしっかり覚えさせておかないかぎり無理だろう。友人同士で何度も繰り返して覚えたとしても、見ず知らずの暴漢への恐怖心に打ち勝てるだろうか。

  護身術が護身に役立つためには、術の前に必要なものがあるのではないか。それを持たなければどんなに術を活かせないのではないか。実は兵頭さんも田中さんも、弊誌で長く語りつづけていることはこれである。

 たとえば新刊の23巻から拾えば 兵頭さんは掣圏道の佐山サトルさんとの対談で云う。

 「義」がないなら「勇」も持てるはずがない?? 

 田中さんは連載「思無邪」で云う。天に照らしものごとを見極めていく?? 

 凶暴な暴漢に立ち向かう「勇」を生むのは「義」であり「天」を持っていることである。

 佐山さんも対談で「掣圏道の基本は恐れず間合いに入ること」「義があれば体重差があっても挑む。それが武道精神」と云っている。この「勇」を実行する際、ハードルを引くするために術が必要なのである。術が先でない。まず「義」があり、「勇」と「術」が両輪となるのだ。

 おわかりであろうか、日本のこの体たらくなサマは「義」を無くしてしまったところにある。

 前回でお知らせしました「若きサムライ育成塾」の開講は、杉山頴男事務所の都合で延期させたいただきます。ついては6月26日に佐山サトルの日講演を行います。テーマは「格闘技と武士道」。術だけでない本当の強さとは何か、どうすれば身につくのかを語ります。そして参加者と共に考えていきたいと思うのです。

<追記>

■日時:6月26日(土) 午後6時30分より8時30分まで

■会費:2千円

■場所:たにぐち書店セミナーハウス5階 (JR池袋駅北口 徒歩5分)

    豊島区池袋2−49−1 03-3980-5536

    申し込みは杉山頴男事務所まで電話、メールにて。

    

 平成十六年水無月之十四日

七十一話「若きサムライ育成塾」2004.05.11.

佐山聡さんと塾をひらくこととなった。「若きサムライ育成塾」でという。

いまこの国に必要なものはサムライになろうとする意思の力だ。これは輸入に頼らず自給できる<産物>である。芽を出し花開き実をつける地力はあるはずだ。草莽の地でその畑を耕そうということだ。

 佐山聡(サトル)、初代タイガーマスクの出現が『週刊プロレス』創刊の因なり、佐山さんが興したシューティングが『格闘技通信』創刊へとつながった。ともに総合格闘技の時代の扉を叩いた同志であった。

かれこれ20年前になる。そして総合格闘技がプロレスを押しのけ時代の先端に立ったとき、奇しくも二人は武士道という地平に立っていた。

1月、佐山さんが一水会ファーラムで講演したのを機に再会した。その前に会ったのが6年前、ベースボール・マガジン社在社時、プロレスカードの肖像権の承諾依頼でお会いした。そのとき小輩の内に『武道通信』の火種が宿っていた。佐山さんの内にも「修闘」から「掣圏道」への軌跡の火種が宿っていたのだろう。   

 日本の空手、柔道の格闘技の核に武道があり、その心の置き処に武士道がある、あらねばならない。空手家、大山倍達はそれを公言し自ら戒しめ、実戦してきた唯一の格闘家であった。そこに大山倍達の偉大さがある。

戦争が終わり、敗戦の廃墟で戦場で名を挙げる時代遅の夢を持ち続けた青年は、宮本武蔵に己を重ねる空手家となった。

サムライ空手家が逝ってから十年がたった。大山空手の心はいまの総合格闘技に息づいているだろか。

※「若きサムライ育成塾」の要項は、本日配信の武道通信かわら版に載せた。近日、武道通信HP告知版に載せる。

 平成十六年 皐月

七十話 『大射道』2004.04.02

 先日、武道通信の掲示板に『大射道』の残部僅少のお知らせをした。早速、当HPのあるじから2冊注文いただいた。手前味噌で恐縮だが、弓道の書ということだけでなく、武術が武術であった時代の痕跡を留めている貴重な書である。

 型(形)がことさら重要視される、いや型の中でしか射ることができない弓道だからこそ、武術の真髄を伝える技量と心魂を型の中に留め置くことができるのだろう、ということが行間から読み取れる。

 弓道は、中高生の初段から『大射道』の著者、安沢平次郎十段までが、繰り返し学ぶことは「射法八節」の型、これだけある。そして初段も十段も同じ距離の同じ大きさの的を射る。己と的に間に敵、対手はいない。向かい合い、技を掛け合い競うのでなく、要は敵は的である。戦場での武器でなくなった弓道は、己との戦いという型に凝縮されている。
 
 弓道はいま女性が増え、ママさん弓道など揶揄されている。たしかに彼女らの射る姿は、射は茶道、華道の趣がないまでもない。しかし、安沢平次郎の師、阿波研造の弓道は戦場での武術、武道そのものであったろう。
 阿波研造はあまりに神聖化されていて、その軌跡は謎に包まれているが、弓道家の中から阿波研造を現代に蘇らせる研究をしていただきたいものだ。

 かろうじて安沢平次郎の弓道論からその痕跡をかい間みるだけである。この『大射道』は、北島弓道場の北島芳雄会が師・安沢十段の三十三回忌に“身銭を切って”復刊したのであった。
 関係者に贈呈した後、数ヵ月経っても、残部がうず高く積まれているのを見て「先生、私のホームページで販売してみましょうか」と、つい口ばしったことから、武道通信HPでの販売となった。

 注文があり、『大射道』を道場へ受け取りにいくと、「ああ、安沢先生が喜んでくれる」というのが会長の口ぐせであった。当方も手数料もないようなお手伝いだが、この著を待ちかねている、名と住まいしか知らぬ弓道家に、この名著を届けられる、嬉しい気分にさせられるようになった。
  
 平成十六年 弥生乃二十九日
 

六十九話  切腹の遺伝子

先日、佐山サトル(初代タイガーマスク)と兵頭二十八さんとの対談が行われた。
次巻、武道通信の企画であった。武士道とは、天皇制とは、共産主義とはとテーマは
多岐に及んだ。
 この対談は佐山サトルさんが一水会ファーラムで講演したのがきっかけとなった。
佐山さんが云わんとしている、掣圏道の思想は兵頭二十八さんの『武侠都市宣言』(
平成11年刊)に通じるものがある。彼に『武侠都市宣言』を手渡した。「長年の疑
問が氷解しました」と佐山さんは喜んだ。以来、「軍学者・兵頭二十八」ファンとな
った。
 対談後、久しぶりに上京した軍学者を囲んで、友人やメお弟子モさんたちが集って
の清談がもようされることになっていて、対談の席に、弊誌オンライン本「軍事史か
ら見た南京事件の真実」の著者、別宮暖朗さんもお顔を見せた。
 対談がドイツの強さとはノノとか戦争論へとテーマに広がっていたことから急遽、
第二部としてお三方の鼎談が組まれた。機を見て策をとるのが兵法である。
 この中身は次巻を読んでいただくとして、煙管の煙は次へと流れる。
 清談の会は遠慮して佐山聡さんと別席へ向かった。佐山さんとの昔話の中で『格闘
技通信』の創刊当為、東京五輪柔道金メダリストの猪熊功氏と対談したことが出た。
 ご存知の人もあろが、3年前、経営する建設会社が倒産し自殺された。
 新聞に載った自殺を報じいる小さな記事を読んで「あの猪熊さんがノノ」と愕然と
した憶えがある。社員に申し訳ないとの遺書が残されていたとかの記事を読んだ気が
するが定かでない。前巻で養神館龍の安藤毎夫館長をインタビューした折、故塩田館
長も自殺を考えてことがあった、という話が出たとき、猪熊功さんのことが浮かんだ。
 この日、佐山聡さんから猪熊さんは割腹による自決であったことを不覚にもはじめ
て知った。腹を割いた後、その刃で首の動脈を断つ、介錯人のいない作法であったよ
うだ。「天晴れぞ」と胸のうちで叫んだとき、長年、気になっていたズボンのポケッ
トに空いた小銭ほどの穴が繕われたような気分になった。
  その日深夜帰宅し、昔、古本屋で求めた『日本人はなぜ切腹するのか』(?)を屋
根裏の書庫から探そうと思ったが面倒さが先立ちやめてそのままになっている。
 著はあまたの資料をもとに念入りな調べをした、生真面目な著作である。切腹が文
献に表われたのは鎌倉時代の少し前で(?)、以降、江戸期に刑罰としての作法になって
いったことが書かれていたように思うが、文献に表われない前の、多分、縄文、弥生
期にその原型があったのだろう。それが、どのような経緯で腹を裂き、死に至るかた
ちをとったかを知りたかったが、謎のまま残っている。 
 魂が宿るところが腹であり、死の恐怖と肉の痛みに立ち向かう勇気と自制心が武士
の証であり、武運尽き、敗れたとしても己の魂は負けてない証であるとする武士の究
極の作法であることもわかる。
 しかし、その奥の奥の根処に日本人の戦いの原像からきた天と己の約束ごとがある
気がする。武士道が各時代により影響されたものがあったとしても、その根処にこの
「天と己」があったんではないか。
 昔、空手の国際大会の折、フランスの空手関係者が小輩を日本人と見ると、軽い挨
拶といった感じで拳を握り腹を切るポーズをした。幕末期、ハラキリを見て驚愕した
西洋人の記憶の遺伝子が連綿と流れているを見た思いがしておかしかった。我々の世
代、そして続く世代にも切腹の遺伝子もまだ枯れずに残っていくのだろうか。

 平成十六年 如月之十七日
 

六十八話  憲法より上にある日米安保条約
 
 今日は赤穂浪士討ち入りの記念日の、「ときは元禄十四年〜」である。と云っても
江戸時代は旧暦であるからして実際は来年の1月である。いや、討ち入りの話ではな
い。赤穂浪士のことを思い出したら武道具店さんのHPにご無沙汰している事を思い出
したのだ。
 先日、一水会ファーラムに出た。講師は天木直人前レバノン大使。米国のイラク攻
撃を支持するなと首相、本国外務省に直訴し解任された。話題を呼んだ著『さらば外
務省』を読んだ方もおられるだろう。
 椅子に座ることなく、1時間半、終始立って話した氏の談話で思い出す文言の切れ
切れに紹介する。
◎国力(国民が築いた)を政治家、官僚があまりに独占しずぎているこの国の不幸。
◎アメリカ批判すると出世できない外務省。
◎小泉総理が自衛隊派兵を最後に決断した理由は、毎日新聞が竹内次官の「総理、ア
メリカから首を切られますよ」のひと言ではないかと書いていたが、私は大いにあり
うると思う。
◎総理が派遣を断念してくれるという期待は0.01%もっていたが。とにかく小泉
総理よ、こと有るとき責任だけは取ってくれ。
 *小輩は0.01%の自衛隊の“憤怒のクーデター”を夢みていたが。
◎かつて外交で、日本の良さを出せる局面が度々あったのに、アメリカに邪魔され、
アジアを裏切り、中東を裏切ってきた。
◎木村代表が、普天間基地の裁判で憲法より日米安保条約の方が上だということが示
されたと言われていたが、確かにその通りで、これが憲法解釈という歪みを生んでい
る。
 *日本を永遠に武装解除させるための<平和憲法>を押しつけておいて、ソ連、中
国の脅威から憲法違反の自衛隊という名の軍隊を作らせ、米軍の支配下に置く日米安
保を結ばせた。いまのねじれはここから始まっている。それでも憲法は守ろう、とい
う反米派もいるが、ゆえに憲法の上に日米安保がある限り、この呪縛を解き放つに
は、この国の背骨となる憲法を自身が作らなければならない。自分の命を自分で守る
ことを放棄されたことに、いまの日本の脆弱さ根がある。
 これを見据え、対米自立を訴え続けているが右翼民族派の木村三浩さんである。氏
の民族活動家として原時点の道標である「右翼は終わってねぇぞ!」は、ぜひお読み
いただきたい書である。ここで宣伝。弊誌HPの<オンライン読本>に最近、この「右
翼は終わってねぇぞ!」が追加された。テキスト原稿を武道通信の誌面で割付したも
の。紙の本より頒価です。

 いつになく多くの参加者が集まり、質疑応答も盛んであった。犠牲になった二人の
外交官は果たして誰がやったのか? の質問に。
◎日本が独自で調査できないのが実情。いつもアメリカ側の情報のみ。果たして犯人
はフセイン下の反米組織か、アルカイダか米国か、それはわからない。
 私は日本から出ると危ないぞ、と友人から忠告を受けるが、たしかにそれは否定で
きない。私は中東では(米国の陰謀)ありうることを多く見てきた。
 
 最後の質問として小輩、ちと古い話を質問した。
「大東亜戦争開戦時の米大使館の開戦宣告の遅れをかつて外務省の人間としてどう思
うか」と。
◎麻雀をやっていた、送別会をやっていたということより、その根にあるのは、あの
非常時にあっても気のゆるみがあったこと。また大使が海軍派とかいう役所のセク
ショナリズムがあったことがその要因ではないか。
 *卑怯なだまし討ちは、国敗れた以上に、敗戦直後に生まれた男子としてのトラウ
マであった。外務省はこれを長い間秘していた。
 近代戦は敵対する国と国との国力の激突である。軍人はその最前戦を任とするだけ
である。外務、大蔵、通産らの官僚達は国内にあって最重要任務を担う。
敗戦を全て軍部のせいにし、彼らはその責を逃れた。そして、いま官僚王国がある。
 

 平成十五年 師走之十四日

 付記
 サダム・フセインが米軍に捕虜になったとのニュースが飛び込んできた。フセイン
はなぜ自決しなかったのか。体にダイナマイトを巻き付けて、絶対米国に捕まるなら
自爆すると明言していたのではなかったか。
自決し損ね恥を偲んで東京裁判で抗弁する覚悟をした東条英機。死にきれず“バク
ダッド裁判”で抗弁することにしたのか、フセインよ。

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六十七話 千葉周作の格子窓と電子出版


 隣家の柿木の柿がたわわに実り、秋の色合いに染まっている。秋日和を思わせ、心
地良い風がら窓へ流れ込んでくる。こんな日はパイプをふかすのにもってこいであ
る。
 で、パイプをふかしながら「煙管のけむり」をふかす。

 先に函館で田中光四郎さんの「不二流体術講習会」が催された。これは兵頭二十八
さんが通う武術道場のお仲間が企画したものだ。その模様は武道通信かわら版最新号
に掲載されているので、よければこちらで。
。http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000036568

 かわら版のURLをコピーした際、兵頭さんの《意義深かった「不二流体術講習会」
(於・函館)》を再読し、ふと思った。武術家の“出張出前講習会”を頻繁にひらけ
ないものだろうかと。その有意義さはここで語ることもなく、このHPを訪れる皆様
にはよくおわかりでだろう。

《格闘技通信、源流の旅》を『武道通信』で掲載しはじめたのは、昨今の総合格闘技
ブームを見るにつけ、テレビ放映用イベントとしての成功であって、『格通』創刊時
の格闘技、武術の底辺を広げようとした志と違う方向へと向かっていることへの危惧
を覚えたからだ。
 まあ、この話はいいとして、“出前講習会”を、流派、道場枠を超え、“イベント
上手”な若い道場生同士が企画、実行するネットワークができないものかと思うの
だ。

 パイプの火が切れた。新たに葉を詰める。
 
 邪道だと言われた防具を付けての竹刀剣術は、幕末期、興隆を極めた。その一人、
千葉周作は道場の格子窓を通行人の目線に下げた。
 武術の競技化は試行錯誤の繰り返しである。竹刀剣道で刃筋で打ったかどうかを
はっきりせるため、竹刀を刃に近づけようと4本でなく3本の竹で三角形に作った者
もいた。
 近年でいえば、空手にグローブをつけたものが出現した。邪道であったろうが、幕
末のサムライたちが、真剣の型より、木刀の寸止めより、防具をつけての打ち合いの
方がリアルであるとしたことと同じかも知れぬ。千葉周作の格子窓はさしずめ現代の
テレビの役割だったろう。

 こんな出足しになったが、“まち”の武道家が食える時代になるにはどうするか。
前節の文脈に続けたかったのである。
 
 田中光四郎さんがかつてソ連のアフガン侵略に抵抗するアフガンゲリラ<聖なる戦
士>に身を投じた体験記『照準に中のソ連兵』(ジャブラン出版 1987年6月刊)が
弊誌からオンライン読本となる。
 パソコンで読む、電子出版なるものは5,6年前から話題になっていたものの“新
しいモノ好き”の域を出ていなかった。それが絶版本の"復活”いう、少数だが読者
が心底求めているものを提供できる手段として認知されてきた。それに紙の本よりか
なりの頒価が可能だ。
 小輩が出版社を興したのも、紙、印刷代が不用で、取次店、書店という仲介業が無
ければ、無一文に等しい者でも志と技があれば出版社が興せる、そういう時代の幕が
上がると思ったからだ。
 これは出版社でなく著者の側にとって大きな意味を持つ。常の出版社が“儲からな
い”から出せないというものを世に問えることを可能とする。弊社のオンライン読本
『軍事史からみた南京事件の真実』も地味だからと常の出版社は二の足を踏んだ。そ
れなら“少数の読者”にだけでも届けようと弊社でオンライン本とした。出版の原点
の心意気が電子出版では可能となった。

 世の武術家は、オンライン本という「千葉周作の格子窓」に気づくべきではないだ
ろうか……ということを“ふかしたかった”のだ。

 平成十五年 十一月十六日

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六十六話  武道家と軍事史、兵器

  9月15日、軍艦マーチ、愛国行進曲の作曲家、瀬戸口藤吉の作品演奏会があった折
り、新宿から足を延ばし、池袋の日本武道具へ出向いた。よく歩いた一日であった。
 武州多摩の田舎者は、まず演奏会会場の新宿文化センターへ行き着くまで手こず
り、池袋駅に着いたら日曜日の人混みに面食らったのか、周知している駅の出口を間
違え、後戻りする始末。
 地元ではもっぱらぞうり履きであるが、この日は<西洋靴>だった。前につんのめ
るように歩くぞうりと、かかとをついて歩く靴との違いを、ひとつ考察、いやいや、
思いついたことを綴った。
 これをもうすでに角田あるじに送っていたと思いきや、フォルダに入れたまま、送
られていなかったことに一昨日、気づいた。なんてこっちゃ。
 一ヵ月近く経った。改めて読むと、たいして新しいことを<発見>しているわけで
もない。賞味期限切れであるから<捨てた>。
              *           *    

 朝から宣伝カーが賑やかである。自民党、安倍晋三幹事長が隣りまち、国分寺の駅
前で演説するという。安部幹事長、拉致問題に熱心だったのは良いが、どれだけ核に
ついて知っているだろうか。
 兵頭二十八さんは言う。
「今日では、少なくとも、(政治家が)核兵器について出来るだけのことを知ってお
くべきなのは、国民の命を預かるのだから当然である。米大統領、ロシア、中国、英
仏、イスラエルの元首は核兵器についてすべてを知っている」
 これは3年前、刊行された『「日本有事」ってなんだ』(PHP研究所)の一文であ
る。日本の軍部エリートはあまりに兵器に対して無知であった。それが英米戦争を
<大人と子供のケンカ>にしてしまった一因であると。「兵頭二十八を読む」のオン
ライン本の製作で再読する機会を得たのだった。

 織田信長は自分で鉄砲を撃っていた。ヒットラーもチャーチルのある意味で<兵器
オタク>だった。日本の近代エリートは外国の既成の成果をマネする<学習秀才>に
すぎなかった。東条英機も、その論敵、石原莞爾も兵器には無知であった。
 坂井三郎さんが怒っていたことを思い出す。海軍首脳部は零戦が急降下するの一番
不向きな戦闘機などということはまったくわかっていなかった。なのに零戦による体
当たり戦法を取らせたと。銃撃されたのでなく、敵艦に当たる前に海上に落ちていっ
た多くの特攻機はそのせいだった。
 
 今夏、武道通信のオンライン本、別宮暖朗氏の『1937 南京城外の死者――軍事史
からみた南京事件の真実――全力をもって上海で戦った帝国陸軍の予備師団の老兵に
これを捧げる』を読み、改めて兵頭二十八さんの言わんとする意味の深さを知り、別
宮氏のこの著の貴重さに心、うたれた。この著を武道通信から発信できたのを喜ばな
ければならない。
 
 別宮暖朗氏のライフワークである、第一次世界大戦の研究をベースにしたこの著
は、日本軍部指導者が西欧諸国の第一次大戦以前からの体験の認識の欠落、それが
「20世紀の戦史で最も徹底的な大勝利」(32章)を無に帰し、「全力をもって上海で
戦った帝国陸軍の予備師団」に屈辱的汚名を着せてしまったことを膨大な軍事史から
証明してみせた。

オンライン本『軍事史からみた南京事件の真実』をこの度、冊子にした。
 それは自虐史観、マルクス主義、また民族主義の教条イデオロギーの本が並ぶ、南
京事件関連の図書館の本棚に、戦争で起きた事件は戦争についての考察を抜きに語れ
ないという視点で、その真実に挑んだ、この貴著を並べたかったからだ。

 この衆議院選挙、日本沈没か否かを決める選挙戦と言うが、アメリカの51目に洲
<Nipon>になっても良いと、この国民、サイレント・マジョリティは無意識なりにも
思いはじめているのではないか……。その底心が投票結果のから見えると思ってい
る。 投票日までに、この2著を読んでいただき、投票箱の前に立つことを願うの
は、あながち宣伝のためだけでない。
 
 このHPを訪れ、<けむり>を覗く武道家は多かろう。いにしえの武術の伝統、精神
の探求に日々、励んでおられるだろう。最近、古流武術の身体論が盛んにきた。喜ば
しいことだ。
 しかし、本来、戦闘者である武術家なら、<戦争はいかにして起こるか><勝敗を
決する兵器>へ考察もあってしかるべきではなかろうか。

 
 平成十五年神無月之十三日
 
 補記:軍事史からみた南京事件の真実は武道通信HP掲示板に詳細が。『「日本有
事」ってなんだ』は <兵頭二十八を読む>にセットアップ準備中
 

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六十五話   夏が戻った日、日本武道具を訪ねた

 21日、夏日が戻った日、次巻の完成データを印刷所に届けた帰路、さほど遠くない
ことから、当サイトの“地上店”日本武道具へ寄った。三ヵ月ぶりである。
 今巻から始まった「格闘技通信源流の旅」の大道塾、東 孝さんに続いて次巻では
Shoot Boxingのシーザー武志さんと合気の養神館龍の安藤毎夫さんを訪ねた。その取
材する折り、角田さんから送られて来た『格闘技通信』創刊時のバックナンバーが大
いに役立った。そのお礼を直に告げたい気持もあったからだ。

 角田さんとは“メル友”であり、その間、メールで“行き来”はしていたが、顔を
合わせて会うのとはやり違う。
 「やぁ、お久しぶりです」と一言、言葉を交わしただけで、メールが数キロバイト
なら1メガバイトぐらいの重さの情報が行き交う。お店に入ったら既に客人が二人い
た。壮神社の恩蔵社長と武術家、著述家の吉峯康雄さん。「やぁ、お久しぶりです」
と挨拶し談笑していたら、結局、お礼を言いそびれてしまった。が、言葉にしなくて
も、私の心、情はそれを発していたし、角田さんがそれを受信していたこともわか
る。言葉でなくても「情」の重さが勝る。

 ここで「情」などと言い出すのは、次巻の特集(情報に勝つ! 武は情報の仕組み
の業なり―歴史と現代に通底する勝敗の分かれ目)を組むあたって、「情報」という
日本語からくる意味づけに七転八倒したからだ。これは明治時代の翻訳語だ。
 この特集で寄稿いただいた国際躰全道の廣木道心さんが、一説によると「敵国の地
勢や軍事に関する知識」という内容が含まれた軍事要素の強い意味を持つ。それは森
鴎外が明治三十六年にクラウゼウィッツ著「戦争論」を訳したとき、ドイツ語の
「nachricht・通知、ニュース」という文字に「情報」という言葉を当てたからと書
かれていた。

ニュース、通知が 「報」であることはわかるが、鴎外はまたなんで「情」をこれに
かぶせたのか。情は心の領域であろう。武事に関しては疎く、好きになれない「広辞
苑」で調べた。(現在、これしか内蔵されて無いからだ)
「情=物事に感じて起る心の動き。しらせること。しらせ。」とあった。「しらせ」
の意味があった。通知、ニュースという即物的なものに心の動きをも表そうとしたの
か。これはまさに武術における「情報」ではないか。さすが鴎外である。明治期、漱
石を代表するように日本の近代文学が武を忘れ去っていくなか鴎外ひとり、武をテー
マにしたのであった。
 
 いま、マイクロソフトの欠陥を突いたウイルス「MSブラスト」が世界各地を“空
爆”している。「情報社会」は得てしてバラ色の未来に描かれたが、2001年騒動
から始まり、昨今のサイーバーテロで何事も陰と陽を兼ね備えていたことを知らされ
た。PCは武器なのだ。使い方で味方になるし、使われ方で敵にもなる。インターネッ
トがアメリカで軍事の必要性から生まれたことからもわかる。発明の父は軍事であっ
た。
 常在戦場の心得から“日常戦場”の武器として捉えるという認識から見て、この十
年、スポーツ組織、団体、また町道場がHP(砦)の立ち上げていくなか、全日本と
いう冠が突いた組織が一番、遅れをとった。常在戦場が希薄なのだろう。「日本の武
道」のひとつの現実がここにある。
 
 廣木さんが稿の末尾にこんなこと付け加えていた。
<そういったことを考えると武道通信のサイトに記載されている「パソコンを櫂のか
わりにし、Webのお椀に乗ってインターネットの川を渡り、 都(世界)へのぼる。針
の剣のかわりに日本刀を心にさして。IT世界大戦の火ぶたは切られた。皆の者よ、
世界共通の武器を得物とせよ! 」の文言は「なるほど的を得ているな? 」と今頃気
付き、一人膝を叩いた次第です。(笑)>

 そう、『武道通信』は“日常戦場”感覚なのです(笑)。余談だが、MSブラスト
は内部事情に詳しく者でないと作成できないことからマイクロソフトをクビになった
社員が撒き散らしているという噂がある。内部に敵をつくるな。背から攻められるの
が一番怖い。これ兵法の基本なり。

 平成十五年 葉月之二十三日

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六十四話 「格闘技通信 源流の旅」その2


 過日、浦和にある養神館龍の安藤毎夫館長を訪ねた。シュートボクシングのシーザー武志を訪ねたのに続き、次巻の「格闘技通信 源流の旅」取材であった。
 格闘技通信で合気道養神館、塩田剛三館長が登場したのは6号目であった。角田さんからお借りしたバックナンバーが手元にあり大助かりであった。重ねてお礼を言わなくてはなるまい。
 バックナンバーを手にして記憶の不確かさを実感した。そのひとつに格通のキャッチコピーだ。「格闘技は古くて新しい心と体のコミュニケーション」がキャッチコピーだと思い込んでいたが、増刊号の1号から5号までは「格闘技だけが生き残る」であった。全く記憶になかった。
 二つとも私がつけたからつじつまは合う。「格闘技だけが生き残る」なぜなら「古くて新しい心と体のコミュニケーション」だからだとなる。しかし6冊目で、いまでは珍しくもない「心と体のコミュニケーション」に変化したのはなぜか。記憶からでは何の手がかりはない。ただ6号の塩田剛三との出会いがその“物的証拠”のような気がしないまでもない。
 この源流の旅で塩田剛三は避けて通れない人物だと知った。16年後、今は亡き、合気道養神館、塩田剛三を探し求めようととき、前巻「床几」に寄稿いただいた安藤毎夫のご縁を頼った。かつて訪ねた新宿下落合の養神館本部でなく浦安の道場に安藤毎夫(つぐお)を訪ねたのは、独立した者の方が塩田剛三の源流は汲みやすいとの歳の巧である。

 勘は外れてはいなかった。カメラのファイダーから覗いた安藤館長は、私の知る塩田剛三を少し若くした顔の写っていたのに驚いた。「よく言われるんです」と安藤館長照は照れ笑いしていた。薫陶という言葉がある。塩田剛三の香りがしみ込んでいるのだろう。
   
            * *  *
 塩田剛三が安藤毎夫に残していったものとは? 安藤が次世代へ伝えていくこととは……。養神館龍を訪ねたのはこれを知りたかったからだ。すれば格通の塩田剛三の物的証拠が明確になると思うからだ。
 塩田剛三館長が逝き、安藤自身も中心力を失った。自分のエリアを持たなければならなくあった。「あえて無理矢理広げるときもある。勝負するわけです」。「もう一度、原点に戻ってやってみよう。ダメなら合気を諦めよう。先生(塩田剛三長)は許してくれるだろう」。して新しい自分のエリアを求めて独立した。
 独立当時は浦安に町道場を借りていた。自分の道場を持つという気持もあまりなく、浦安で合気道場は無理だと人が言うのも納得できた。そんなときだ。
 それは平成八年二月。同じ内弟子で職場結婚した奥さんが突然、館長の墓参りに行こうと言い出した。墓がある川越は遠いから……と安藤は乗り気ではなかったが、「行こう」と奥さんが強く勧めるので出かけた。それから一週間ぐらい過ぎた頃であろうか、家にいたとき奥さんがが突然、「館長がいま来ている」と言った。わけがわからず「どこに?」と聞くと「玄関に」。何を馬鹿なことをと言っていると思っていると「部屋に上がってきた」。「どこにいる……?」。 安藤の横に座っていると言う。「パパ、お茶出して」と奥さんが言う。しょうがない、つき合うしかないとお茶を出した。「館長、どうしてる」と聞くと「あなたの顔を見ている」。
 奥さんは横になった。そして「オールマイティや。オールマイティを持たにゃいかん」。そう三度言って、そのままその場で眠ってしまった。誰も飲まない茶碗が卓袱台の上に置かれていた。奥さんを寝かしつけてから一人、部屋で狐につままれたようにぼんやりしていたが、はっと我に返った。
 館長が安藤と二人きりになったときよく言ったことを思い出したのだ。「お前、オールマイティを持たにゃいかん。オールマイティを持つたら強いもんや。これ一つあったら何でもできる」
「オールマイティとは中心力なでんす。植芝盛平先生も言っていた。一を持って万に当たる。それがオールマイティ。先生はあの世でも私を見ててくれたんだ。館長との約束をまだ続いているんだ」
                  * *  *
  
 上記、拙稿の一部を抜粋した。「館長との約束」とは? これを思い出した安藤館長の中心力が動きはじめた。そして「合気、即生活」である、自分の実力とは養神館での実力でしかなかったのだと気づく。
 
 取材を終え、浦安の駅前ののれんをくぐった。これは終章ではこう書いた。
               * *  *    
 長い時間を取らせてしまった。ファミリーの部に館長も顔を出さねばならないだろう。先ほど内弟子がそれとなく呼びに来た。お暇する時間だ。そう切り出したとき、「杉山さん、私も最近知ったのですが、ここ浦安の浦安という意味は心安うらう国の意味で日本国の別称だそうです」。それに「天照大御神から日本の統治を命じられたのが、合気の神様として祀られる正勝吾勝勝速日天忍穂耳の命です」。植芝盛平も合気の役割はここにあると言ったいたそうだ。「浦安にいるのも縁だと」だと、この偶然なる合致に安藤は嬉しいさを隠さない。浦安に道場を定めたのも塩田剛三の意思があったのだと思うことで塩田剛三への感謝の念を深めたいのだろうか。
  駅まで内弟子の方に車で送ってもらった。駅前で別れ改札口に進まず駅前のとある居酒屋に入った。武蔵の国の東端から武蔵の国西端隣りの下総まで来たのだ。電車で1時間ほどといえ昔なら立派な旅である。飲んべいの習性か、出張で初めて訪れた地では汽車の時間を気にしながらも飲み屋ののれんをくぐり地酒を頼んだ。犬が新しい道を歩くとき小便をかけると同じ習性かも知れぬ。
       * *  *
 確かに「飲んべいの習性」ではあるものの、稿には書かなかったが浦安にもう少し留まり、私の「浦安感」を反芻したかったのだ。
 浦安はデズニーランドのまちである。今までデズニーランドに一度も足を踏み入れていないことを幸いだと思っている輩である。以後も訪れることはないだろう。だが、安藤館長の合気の話をお聞きし、これは合気で言う一つの技にこだわり、攻撃、防御の多面性を見失ってしまうことではないかと思ったのだ。
 
 文月之二十二日

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六十三話 
「格闘技通信、源流の旅」と題して、創刊時に出会った挌闘家(格闘技)を訪ねるシ
リーズを今巻からスタートした。
『格闘技通信』が蒔いた種が花開き、咲き誇った感がするプロ総合格闘技に、なぜか
創刊時のDNAと異質な種が混じっていることを知ったことから、今巻「総合格闘技と
武道」の特集を組み、必然的に大道塾の東 孝塾長に「総合格闘技の武道」を問うた
ことから、このシリーズを開始することとなった。

 第二回目はどなたを訪ねようかと、16、17年前の記憶の引き出しの底をドンドンと
叩いたが、一向に出てこない。困ったなと思っていたとき、当HPのあるじ、角田さん
から創刊号から12号までが届けられた。それも懐かしい格通のバインダーに綴じられ
ていた。老朽化した記憶脳で困っているだろうと察してくれたのだろう。武士の情け
である。

 大いに助かった。感謝、感謝。そして開いてビックリ、い〜や、なんともエネル
ギッシュな本であることか。何でも有りのごった煮である。未知なる分野をよくを取
材しまくったものぞと、自分自身を「天晴れぞ」と褒めたくもなった(笑)。
 1号から5号までは『週刊プロレス』の増刊号である。6号目から増刊の文字が取
れている。当時まだ週プロの編集長であったから週プロの編集も平行してやってい
た。でも格通は小輩のスタンドプレー、独走で、週プロのスタッフは一切、関わらせ
ず孤軍奮闘していた。それは100%プロレスファンであるスタッフを逆撫でする本に
なるだろうことを秘していたからである。3号目にして「プロレスって言葉のきらい
な人、この指、と―まれ」と来た。
 6号目は「不思議いっぱい中国武術」と中国武術を特集している。これには事情が
あった。当時、発刊されていた『近代空手』と『中国武術』は立ちゆかなくなり、続
刊は無理だから名だけ残し、格通が吸収合併する、という社の事情があった。「近代
空手、中国武術が協力合体」という文字が6号のタイトル下に入っている。このとき
になってやっと格通に編集部らしくなった。中国武術からIが、近代空手からは二代
目編集長の谷川が来た。
 週プロも編集長を山本さんにバトンタッチしようと、格通の創刊時前から考えてい
たと思う。「プロレスはもうやりたくない」という佐山、前田の応援誌であり、そこ
からプロレスでない格闘技ブームを作ろうとの試みの格通の編集長が週プロの編集長
をも兼ねるわけにはいかない。

 いやいや、本題は「格闘技通信、源流の旅」である。
 送られたバックナンバーで懐かし人たちを思い起こしている内に『武道通信』が月
刊誌誌サイクルならまだ良いが、これではいつ終わるかわからない(笑)。で、次巻
から同巻で二人ずつ訪ねようと思い立った。まず、二人の内のお一人を訪ねた。
 18日、田中光四郎さんとお会いしたその足で向かった。そして、もう、お一人をお
訪ね20日の前日、親戚の訃報が届き、翌日葬儀のため取材日は次週となった。取材が
延期になり、気がせいたせいか、葬儀会場の名古屋までの新幹線の車中で、もうひと
方と田中光四郎さんの取材テープを聴き、メモを取った。
 いや、何、もったいぶって次回の源流の旅の訪ね人の名を秘すのではない。取材か
ら得たものから稿をおこすのに伝えるべき核をどう著すかが見つかるまで、著す者と
して、その前に名を出すのがはばかれる気がするのだ。気分的に。テープを聴き、田
中光四郎さんと同じことを云っていたのが面白く、何を核にすべきかが少し見えてき
た。その内にお二人の名は明かすこととする。

 余談。
 先に「茶店の一服」で昭和天皇の“封印された詔勅”の話をふかした。
<この詔勅が発せられていたら、当時の父母、また父・母方の祖父、祖母は、叔父、
叔母、隣り近所のおじさん、おばさんはどう思っただろうとの思いへ飛んだ。皆、屍
を戦場に暴した者の遺族であり、戦災を被り、衣食住の窮迫した者たちであった>
 亡くなった名古屋の叔父もその一人である。父方の兄弟姉妹の最年長の叔母のご主
人である。95歳の大往生であった。小輩が家を持ち子が出来、以来30余年、年賀状を
いただいてきた。近年は印字となったが、達筆の上、凛々しい筆使いで、宛先名の字
体だけ見て、すぐ叔父だとわかる年賀状であった。

 久しぶりに会った90歳の叔母は、腰が大分弱くなったものの気丈夫さは変わりな
かった。
 名古屋の叔母のことを祖母から聞いたことがあった。戦前、祖母はこの叔母を筆頭
に12人の子沢山でありながら、祖父とは別の稼業を営んでいた。子守りのなどの女中
さんもいたが、叔母がどんなにか頼りだったこと。叔母は小学生のときすでに銀行へ
のお使いも任すことが出来たしっかり者だったと云う。

 出棺のとき、叔母は叔父の顔を両腕で抱きかかえるようにし、頭、顔をさすりなが
ら云った。
「ほんと、ご苦労さんでしたな。ご苦労さんでしたな」
 この言葉の中に、叔父の人生の全てが凝縮されているような気がした。明治末に生
まれ、大正、そして戦中、戦後の昭和を生き、質実な公務員生活の中で、教職に付い
た女子を頭に男子4人の子らも学歴を備えさせ世に出した。仕事も勤勉、律儀であっ
たろう。そして老後も矍鑠(かくしゃく)とし、病で入院する前は叔母の面倒さえも
見ていたと云う。
 質実剛健、勤勉、律儀さを美徳とした国民がいた、かつての日本の、その一片が欠
けたような気がした。
 
 平成十五年 水無月之二十一日 

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六十二話  情操教育
 
 雨上がり、新緑の葉をかすかにゆすり風が流れ込んでくる。パイプをふかしながら久しぶりに
御邪魔した。
 先の「茶店の一服」での靖国神社での不二流体術の奉納演武会のことで言い忘れたことがあった。
 演武会が終わり、来賓、参加者の懇親会が行われた。
 田中光四郎さんの古くかの友人である八木不動氏が「昨日、NHKで五・一五の特集番組があったが、まるでテロリストのような扱いをしていた」と憤慨しておられた。
 我ら戦後世代は歴史の授業で「五・一五事件」は軍国主義を加速させたクーデターであり、「話せばわかる」の犬養毅首相は悲劇のヒーローとして教わった。
 後年、このセリフは犬養毅首相が云ったものでなく、あとで作られたものであり、当時の状況からすると犬養毅首相が暗殺されたのは自業自得であったと云う歴史認識が近年広まってきた。

 五・一五の檄文の一部を、今巻の『武道通信』の「田中光四郎 思想と武術」の項で引用した。いまの日本に重ね読むと、それは<美しい>とさえ思えた。歴史の美しさはくせ者だが、命を賭しての若き軍人たちにの行動に曇りはない気がする。きれい事を云いながらも既得権の保身にうつつをぬかす、政治、軍の大人たちへの反旗であった。
 特攻隊の生き残りの兵士が、戦後のGHQの「農地解放」などの政策を、なんだ、これは二・一六の将校たちが云っていたことと同じではないか、といっていた記述を読んだとき、歴史教科書というもののあやうさを改めて思った。

 先日、一水会機関誌「レコンキスタ」での前田日明、木村三浩(一水会代表)の対談に同席した。
 前田日明に若者たちへのメッセージをとの旨趣である。(次号6月12日発売)
 いま右傾化がとやかく云われているが、民族派の団体の若い会員が激変している。これは右・左関係なく若者の政治離れである。
 「いまの日本を……」と木村三浩さんが前田日明に問うたとき、前田は「情操教育の欠如に尽きる」と答えた。「いま日本人は情操がないんですよ。全く無いんですよ。愛国心だとか民族の魂だとか、右翼とか左翼かも、情操が無いと理解できないんですよ」
 
 小輩は情操教育は教科書より、言葉より、躰で学ぶのが一番ではないかと思っている。今巻「総合格闘技と武道」を特集し、小輩が創刊した『格闘技通信』の源流の旅と称し、この日本武道具店がある池袋にある大道塾の東 孝塾長を訪ねた。(これは以前、述べたか?)
 『格闘技通信』創刊時に「格闘技は古くて新しい心と体のコミュニケーション」と云うキャッチコピーをロゴタイトル上に入れていた。格闘技は古来、世界あらゆる部族が生活風土に根ざした独自のものを保有していた。しかし武道は日本のオリジナルな兵士、戦闘者の思想である。日本人の情操教育はまず武道から。そう思いませんか、ここHPに来訪の諸氏ならご同意いただけるのではないか。

平成十五年 皐月ノ二十八日

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六十一話 不二流体術のことイラク戦争のことなど

 昨日、小金井公園のお花見に出かけた。半分以上は散っていた(笑)。
27〜8年前、武蔵小金井に3年ほど住んでいた。朝よく、と云っても編集稼業で人
様の早朝とは少し違うが、幼児を自転車に載せ、新聞をカゴに入れ、小金井公園まで
走った。
 この親子以外、人の気配はない。小鳥のさえずりと虫が這う音、いやそれは聞こえ
まい。無造作にだたっぴろい公園の芝生の上を人間が二本足歩行をはじた時のような
格好で幼児は駆け回り、小輩は壊れかかった木のベンチで新聞を読んだ。この幼児が
後年、無類のサッカー青年になったのは、この時期、芝の上を走り廻った三つ子の魂
かも知れぬ。(冗談)

 遠い記憶の公園とは変わって洒落たモニュメントや歩道ができ、ただ、だたっぴろ
い日本庭園の趣から西洋風公園に姿変わりしていた。そうだ、日本はまだ「文明開
化」の途中だった。(これは皮肉のつもり)
 花見の時期が終わったのに小金井公園に出かけたのは、実は、公園内の体育館での
不二流体術(田中光四郎・宗家)の練習を見学に行ったからである。この二日前、大
地社を訪ねた。田中さんがイラクからシリアへ出た後である。水谷浩樹代表も小金井
の練習に出ていると聞き、散歩がてらに出かけたのである。大地社は世に云う「五・
一五」の指導者、海軍中尉、古賀清志が設立。田中光四郎さんが引継、いまは水谷代
表が継ぐ。
 この体育館の隣り弓道場がある、ここで数回、射たことがある。珍しい遠的場もあ
る道場である。
 
 この不二流体術<道場>は奈良彰久師範が指導している。いま田中光四郎さんの代
理と云った立場であろうか。かつて田中さんがアフガンでソ連軍と闘っていたとき、
後半期、同行した行方である。その前は極真の門下であったが、不二流体術を学ぶよ
いうよりアフガンで戦う田中さんに魅入らたからで、その後に田中さんから指導を受
けたという。 
 新人、門下生の指導の合間に小輩の相手もしていただいた。いやいや、不二流の手
ほどきではない。「不二流体術の技法とは?」の質問にである。(私的興味をすぐに
誌面に反映するのが弊誌の流儀で、次巻に掲載)
 
 水谷浩樹代表を訪ねた帰り、三鷹駅で降り日本武道医学学院のパリッシュ学長を訪
ねた。そう、その前に新宿都庁の最上階の展望台へ上がり、平成の大江戸と多摩地区
を一望し、レモンティーを飲んだ。いやナニ、新宿の高層ビル郡の地べたを歩いてい
ると一匹の蟻になったようで人間の尊厳らしきものを取り戻したくなる。で、天に少
しだけでも近いところへ登って、旨くもないレモンティーを飲んだのだ。

 パリッシュ学長はイラン人である。イラクとは十年戦争の怨念がある。が、同じア
ラブ人である。(と云っても母親はフランス系の人であるが)アメリカへの義憤は小
輩とは異次元のものがあるのは当然である。
 このイラク戦争は戦前からも何度も話していたが、いまニュース番組から伝え聞く
ものにはない、“産地直送”の匂いがしていた。
 早期終戦のつくられたニュースが必ず流される、それは上がった株価をその日に
売って巨額な利益を懐にする鬼畜米英の相場師の為であると云っていたが、確かに、
つくられたニュースは流され、終戦となっても株価もドルも一向に上がらない。
 ホメイニ師がいまイランに居たら、この戦争はなかったろう、なぜなら十年の怨念
をこえ、アラブ団結をアラブ諸国に発し、イラクと共にイランもアメリカと戦ったろ
う。そうなれば米英は独裁者フセイン打倒の口実は口実とならず、アラブとの文明の
衝突になるからアメリカは先制攻撃はできなくなったろう。
 かつてソ連軍はカブールを3日で占領した。でも十年後、ゲリラに痛めつけられ出
ていった。アフガンもアメリカが担いだ大統領は官邸から一歩も出れない。駐日大使
は隣りパキスタンに逃げる始末。“彼らは“はイスラム教を、アラブを何も知らな
い。アフガンの戦後処理の問題はパキスタンから火の手が上がるだろう。
 イギリスが戦後処理は国連でと云うのはヨーロッパ諸国を気にするからでない。イ
ギリスはイラクの植民政策で過去に失敗し、その難しさをアメリカなんかより植民地
立国の先輩としてわかっているからだ……と云う。

 そうそう、フセインの私物のように伝えられるバース党を創設したのはイギリスの
キリスト教宣教師だっそうだ。イギリスの植民地となり誇りを失ったイラク人に「ア
ラブの誇りを持て」と説教したのが始まりだと、これは木村三浩さんの一水会フォー
ラムで聞いた話だ。

 不二流体術に蹴りがないのを奈良師範に聞いた。
「まったく無いというのではないが、足技は<踏みつぶす> ものとしてある」と云
われた。
ここでパリッシュ学長から聞いた話が浮かんだ。「<蹴り>はペルシャから中国に伝
わった」
 たしかに日本の格闘技の源流は相撲だ。蹴りはない。柔術も足払いである。どだい
足の短い日本人には不向きだ。そう云えば仁王様も悪霊を足で踏み潰している。蹴る
より踏みつぶされる方が致命的だ。これは足の短い日本人なら至極納得する。

 話しがいろといろと飛んだ。日本武道具さんと同じ池袋にある大道塾の東 孝塾長
のことを話そうとふかしはじめたのだが、もう部屋中、けむりだらけである、で次回
に。そうそう武道通信かわら版4/10号で少し書いた。その続きを「茶店」でという
ことで。

 平成卯月之十二日  

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六十話 プロ総合格闘技のゆくえ

 格闘技ブームの火付け役と云われる『格闘技通信』を『週刊プロレス』の流れから
立ち上げた小輩だが、今の総合格闘技ブームは他人ごとのように風聞に耳を傾けるぐ
らいであった。ボブ・サップの名も聞こえて来たが顔も知らなかった。リングスの活
動停止はあったものの、他人事ながら格闘技のブーム到来を喜んでいたと云うのが正
直なところだった。

 であるからして、前田日明が冬ごもりから目覚め、啓蟄(けいちつ)の時が来たみ
て、去る1月、K-1ブームの立役者、佐竹雅昭との対談が行われた。その数日前から
急遽、「現代格闘技事情」を仕入れた。その仕入れ先の一つにWeb通信員の中の格闘
技ファンがいた。彼等から話(メール)を聞く中で、彼等の座談会を企画した。しか
し内、一人が日時の都合が悪くなり、小輩が司会役の鼎談となった。

 今巻の前田日明−佐竹雅昭対談(総合格闘技よ、どこへ行く)、そして鼎談(プロ
レスと格闘技の狭間)を終え、一つの疑問が湧いた。
 『格闘技通信』から『武道通信』への“進化”の経緯にである。
 『格闘技通信』は『週刊プロレス』から進化した。そして『武道通信』は『格闘技
通信』から進化した。しかし、総合格闘技ブームの咲き乱れ方を聞くにつけ、『格闘
技通信』から『武道通信』へ進化した種とは違う種が、『格闘技通信』にはあったの
では……という疑問である。
 この進化の系統は極、個人的な事なので、こんな話し方をしてもおわかりいただけ
ないかも知れないが、プロレスファンから格闘技ファンの流れの溝を掘った者とし
て、総合格闘技ブームは間違いなく『格闘技通信』が介添えしている。
 そしてこんな疑問が湧いた理由は、この正に珍種の雑誌が創刊から2,3年し、軌
道に乗った頃、またその先の進化の形態がおぼろげなりにも見えてきた。が、それは
あまりに遠い時間の先にあるものに思えた。そして一方で、小輩がもくろんだ格闘技
ブームと別な流れが生まれるような気配を感じ、ある挫折感にも似た思いを持った。
そして、この気配を直視するのを避けた、という後ろめたさが胸の奥のどこかの引き
出しに残っている。

 当時、高級スポーツクラブブームがおこっていた。様々なスポーツ、健康飲料、ス
ポーツ用品が出始めていた。要はバブルの泡が“庶民”をも飲み込みはじめていた。
ベースボール・マガジン社は昔ながらのスポーツ雑誌で広告は低料金のスポーツメー
カーであった。高い広告を取れる雑誌を創刊しようという「会社人間」としての意図
から新雑誌を立ち上がることで、このジレンマから逃れた。

 バブルがはじけ、日本が瓦解していく音が聞こえはじめた。して、小輩が見た『格
闘技通信』のその先の進化のかたちが大きく立ち現れた。「時、遅しか?」の思いは
あったものの退社し、その進化の先に見えたものを追い続けるものとして『武道通
信』を創刊した。

 『格闘技通信』を途中下車したときよく見えなかった、もう一つの種が、いまの総
合格闘技に内存しているような気がしてきた。見えにくくなった格闘技とプロレスの
狭間(はざま)も、その因であり、不祥事件を起こす因さえ含んでいるのではない
か。それを見据えていくことは、同じ進化の系統にある『武道通信』にとって避ける
ことは出来ないのではないか、と。

 特集の【「反米」は武士の作法】とは別に大きくページを取ったのもそのためであ
り、UWF、前田日明ファンに「床几」等に登場願い、また長年、武道具店の主として
の当HPの主、角田さんに、いまの総合格闘技ブームをどう思っておられるかを語って
いただいたのもそのためである。

 弥生之二日   
 

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五十九話 『大菩薩峠』と『宮本武蔵』

「茶店」で一服ふかした『大菩薩峠』の話のつづきである。
松岡正剛さんの「千夜一冊」の『大菩薩峠』は他の一冊の比べ、大長編である。こ
れも『大菩薩峠』の不思議な魔性やも知れぬ。
 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0688.html
 上記のURLで読んでいただければ幸いであるが、小輩の感想を煙管でふかさせてい
ただく。
 
 ここにお立ち寄りの方で完読された方はおられますか。小輩、三度ほど試み挫折し
ている。
「荒唐無稽な筋立て、無責任な人物のめぐりあわせ、あきらかに場面主義、場当たり
主義」で【中里介山には作家としての才能があるのかと疑いたくもなる。】と松岡さ
んは云う。 これは皆、一様の感想ではないか。しかし、何とも云えぬ魔力があり、
何度も再挑戦する。それが謎またである。作家の安岡章太郎もそうであり、入院中の
退屈しのぎもあり完読できたのであろう。
【ところが、いざ読み終わると、これは誰もが読むべきだというほどの得難い熱いも
のが胸に溢れて】
と松岡さんが云うように『大菩薩峠』は永遠なのだ。そしてそこが謎なのであろう。
松岡さんはこの謎に迫ろうと、かくも長き書評となった。

 戦前、人気のあった吉川英治の『宮本武蔵』は同じく新聞連載で昭和10年から中
断期もあったが14年で終了。『宮本武蔵』は誰にもわかる剣をとった求道者の物語
である。
 『大菩薩峠』は大正2年からスタートしたが後半時期は『宮本武蔵』と重なる。机
龍之助と武蔵、まったくもって異なるヒーローが大東亜戦争へ突き進む日本に同居し
ていたということだ。
 
【なぜ日本はこのように矛盾に満ちた国になってしまったのか、介山はまずもってそ
の矛盾を描きたくなっていた。介山の場合は、それが机龍之助の剣に象徴してみたい
“何か”であったのだ。】
 文壇の宮本武蔵賛否論から擁護のため書き始めた吉川英治は、武蔵を描くことで
【日本は日本史上にも稀な暗闇を疾駆していった】とき何を日本にメッセージした
かったのだろか。「和魂洋才」を成しえた日本の近代が“世界最終戦争”の日米決戦
に向かっていくとき、ときの日本人はいま一度『宮本武蔵』に「和魂」を見たかった
のだろうか。
 
【『大菩薩峠』がついに慶応3年のままに終わっていて、決して維新に入りこまな
かったことにふれ、かくも大胆に維新の意義を否定したのは日本の歴史学には皆無で
あって、ひょっとしたら中里介山はそのような歴史観をもっていたのではないか】と
鹿野政直『大正デモクラシーの底流』を引用している。
 吉川英治は明治維新を評価すれこそすれ、決して「維新の意義を否定」しはしな
かったろう。そして欧米への開戦の高揚を進んで引き受けた。
 【反近代主義に共感しつづけた】中里はどうだったのだろうか。
 明治維新の延長上にある大東亜戦争なら完膚までに負けたほうがよいとさえ考えて
いたのだろか。そこからもう一度、日本は「日本近代」と向かいあうべきだと。いや
いや、『大菩薩峠』の登場人物たちに近代化への復讐を試みさせようとしていたので
はないか。
 『大菩薩峠』がついに慶応3年のままに終わっていて、決して維新に入りこまな
かった――この一行に目をしたとき、ふとそんなことが過ぎった。

 昭和19年10月の神風特攻から始まり、昭和天皇の「終戦の詔勅」の後まで行われた
陸海軍の特攻作戦を敢行させたものは何であったか。これは敗者のせっぱ詰まった軍
事作戦というだけのことでなく、国、破れるならば、そこまでして破れよと……。日
本という二千余年の大樹の根の底から湧き上がってきたものがあったのではなかった
か。
 マバラカット神風慰霊祭に二度参列した浅学の徒は、このようなことを二年にわた
り夢想し続けているのだが、千夜一冊『大菩薩峠』を読み、 『大菩薩峠』と『宮本
武蔵』が”同居”していた日本人の内なるひだに、その疑問に答えるものが潜んでい
る気がしてきた。
 こんな奥歯にものが挟まった云い方で恐縮だが、弊誌の次巻でもう少し整理し述べ
たいと思っている。

 睦月之二十日
 

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五十八話 土方歳三のことから兵頭二十八へ
  
 昨日、日本武道具さんのカレンダーが届けられた。感謝。
 ひとつは「竹の詩」と題された某写真家が撮った四季の美しい竹の写真カレンダーである。竹は植物として“不思議科”に属する。竹筒の空洞部分の謎とか、いまだ解けぬものがあると聞く。また竹の特別な浄化作用がここ数年云われている。
 拙宅の北側の窓を開けると矢竹の群生の先端が垂れ、竹刀があれば届くほどにある。隣り駐車場となっている空き地の南側に垣根のように植えられている。毎朝、窓を明け放ち、矢竹を通して流れてくる空気を入れる。その格別の清々しさは竹のせいだと勝手に信じて込んでいる。

 これが矢竹だと知ったのは、いまの宅に引っ越してくる前、日野の土方歳三の生家を“見学”に行ったとき塀の外から細い竹のようでいて、また笹の大きいようなものが植わっているが見えた。「土方歳三の少年時代にあった矢竹がいまでも生家に植わっている」と司馬遼太郎ものか、どこかの本で読んでいたから、ああ、あれが弓矢作りに用いる矢竹というものかと知った。

 新選組が再ブームのようで新聞の多摩版で新選組が連載コラムになっていたりする。しかし直ぐ商業組合が血眼になる“観光”には嫌気がさす。もし、土方歳三を偲ぶなら静寂の中一人、墓や生家を訪ねるがいい。
 函館、五稜郭で撮った土方の写真は何度見ても不思議な写真である。どう見ても武州多摩、日野村の百姓の顔ではないし、近藤勇、坂本龍馬ら幕末期のサムライらの写真とも違う。何と云うか、昨日撮ったような顔をしている。

 そう、函館と云えば軍学者、兵頭二十八さんがいま居る。先日、餞別に渡したセーターが重宝しているとFAXが届いたが函館は寒いことだろう。清貧の軍学者、暖をとる薪はあるだろうか、凍えてはいまいかと心配するが、こちらも多摩武州の国立裏店(うらだな)の<傘張り(いや出版)浪人>、逆に心配されているやも知れぬ。

 軍学者、なぜ函館へ引っ越したのか、土方歳三とも五稜郭とは関係なさそうだが、この御仁もいま撮った写真を百年後に見たら、昨日撮ったような顔をしているかもしれない。
 先の武道通信かわら版(12/25)に「雑誌公表論文は後日に単行本にまとめたりすべきでないと確信し、現在その所信を実践中であります。また今後も継続する所存であります。」――と云う書き出しで、なぜ一度雑誌に掲載した原稿は本にしないのかという私論を述べていた。
 いま氏の著書『ヤーボー丼』『日本の防衛力再考』を武道通信HPからオンライン復刻版に載せているが、このわけもその前の号で述べていた。
 天晴れである。何某の社会時評をする著作人の自覚と覚悟である。この気概の半分も無い著作人が多すぎる。これを読むと著作からではわかり憎い軍学者の素顔がわかるではないか。

 小輩がその素顔を知ったのは2年前の参議院選挙の折り、小輩に廻ってきた<立候補>を兵頭さんに“振った”ときだ。言葉短く、「もの書き」の覚悟を語った。小輩の五臓六腑に清涼な石清水が流れた。軍学者とあえて名乗るその意味も理解した気がした。
 昔、大抵の僧侶は妻を持たなかった。明治、戦前の軍人であえて妻を持たぬ者もいた。平時の人としての愉しみをあえて絶つ、軍学者は己が書くこと、書くものは戦場(いくさば)の中にある――そのために「絶つ」ことを覚悟し実践している。
 来訪するなら五月が一番良い季節だとあった。函館駅改札口に立って待つ兵頭さんの姿が浮かぶ。
 
 平成十四年 師走之三十日

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五十七話 「後を頼む」
 

 先にふかした「茶店の一服」で「マバラカット特攻慰霊祭」の感想記は終わりにし
た。“掲示板”があちこちに飛び、続けて読んでいただいた方にはご迷惑をおかけし
た。
 数日して、ひとこと、つけ加えておくべきだとの思い沸きだってきた。それは昨
年、初めてマバラカット慰霊祭に参列する前年の元陸軍准尉・田形竹尾さんの出会い
である。

 十二ノ巻で元陸軍准尉・田形竹尾「特攻の心」を掲載した。もう二年前になる。田
形さんは陸軍飛行学校出身で戦闘機操縦歴10年、飛行時間5千時間、作戦出撃200回
の飛燕のパイロットであった。陸軍も特攻作戦が開始され、ベテランパイロットの田
形さんは陸軍特攻教官となり、多くの若き特攻隊員の“その前夜”を見てきた。そし
て自らも特攻命令を受けた、しかしその翌日、終戦の詔勅。生き残った……それが余
生を特攻の心を伝えることに賭ける決意をさせた。
 
 田形さんの原稿はインタビューをまとめたものだった。インタビューアーはWeb編
集員の松下大圭さんにお願いしていた。原稿も松下さんが起こすことから、同席して
いた小輩は、このときは田形さんの言葉でなく、語るその表情、語調、息づかいから
特攻隊員が一番に何をもって、この運命を受け入る覚悟したにかを読みとろうとして
いた。
 3時間近いインタビューが終わり、ウエイトレスに何度も注がれた水入れグラスの
底に「後を頼む」という言葉が残っていた。それを一息に飲み干した。

 その想い出が甦ってきたのだ。「後を頼む」と云った彼等の声が聴こえた気がした
のだ。
「茶店の一服」で「不可抗力なる敗北を気高く受け入れ、死の恐怖に打ち勝ち、自ら
の手で死ぬことによってその恥辱を晴らす。戦いは破れはしたが、己の魂は勝利す
る」――と、少々、荒削りな言葉で小輩なりの特攻の精神を語った。
 そうなのだ。己の魂は負けてない、日本は負けていない――だからこそ敗戦国を生
きる者たちに、あなたたちも負けずに頑張ってくれ、そう云えるのだ。だから「後を
頼む」と云ったのだ。国と国の戦いは敗れても、魂は負けてはならない――それが空
に海に散華した特攻隊員が己の死でもって書いた「遺書」なのだ。

 平成十四年 霜月之二十六日

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五十六話  マバラカット神風慰霊祭

 このタイトルで先に弊誌掲示板、そのつづきを武道通信かわら版「忙中閑あり」に綴った。
 その続編のつもりで“ふかす”ことにさせていただく。

 リリーヒルの慰霊祭の次ぎの訪れたのは、昨年、慰霊祭が行われたマバラカット東飛行場であった。
 今年も地元の小学生がフィピリンと日本の国旗の小旗を振って我らを歓迎してくれた。
 ここで先の慰霊祭で心にしみいる美しい「海行かば」を歌っていたヒルベロさんのお仲間に「お上手ですね」と声をかけた。彼は照れくさそうに笑顔を返した。何度も何度も「海ゆかば」を歌ってきたのだろう。
 ここで慰霊碑に献花した後、大西瀧治郎の記念碑に向かった。
 昨年と同じ風景であった。しかし、この裏手の小山にアメリカ軍の空爆が激しくなった時期、作戦司令部となった長いトンネルの防空壕は、昨年までは当時から放置されたままで、入り口にプレートだけがあったが、今年は整備され入れるようになっていた。
 幅は大人二人が肩を付ければ通れる程度で、高さは2メートル弱ほどであろうか。400メートルほど進んで行き止まりになって、そこから日が射し込んでいた。緊急時の脱出口であるという。
 大西中将の六畳ほどの机と椅子が置かれただけに殺風景の司令官室は、この隣りあたりあったとヒルベロさんが教えてくれた。それを機に日本語が堪能なフィピリン空軍の日系二世のFUKUDAさんの通訳があり、ヒルベロさんと片言以上の話ができた。
 
 ヒルベロさんは将来、ここに神風記念館をつくりたいと語った。そして続けて言った。
 「特攻隊の愛国心、犠牲的精神、そして勇気に感銘し、その歴史的遺産を残すことでフィリピンの若者たちに国を愛すること伝えることとができる。またそれが過去の歴史の傷を癒し、フィリピンと日本の親善につながることだと信じている」。
 ヒルベロさんはかつて特攻隊を賛美しすぎるとか、援助欲しさの日本贔屓だとか陰口を言われたこともあったそうだ。しかし、彼から日本に支援を求めたことは一度もない。
 徳田徳洲会理事長や今年、参列した兵庫県八鹿町の「但馬人企画」代表の植田悟氏のようなディソン氏、ヒルベロ氏らの特攻隊への率直な感嘆、特攻の歴史遺産を残そうという活動に知り、日本人として恥ずかしいという思いから進んで支援活動を始めた人々の支援だけである。しかし、いまだフィリピン日本大使館、日本政府、多くの政治家たちは見て見ぬふりをしている。

 「けふ咲きて あす散る花の 我が身かな いかでその香を 清くとどめん」
 大西中将が頭を垂れ、何度も聞き入ったという、特攻隊員の辞世の歌である。
 この"読み人知らず"の特攻隊員の死は愛国心の究極のかたちとし、英雄の死としてフィピリン、マバラカット周辺の地にいまも「清くとどめ」られていることを我々は感謝しなければならない。

 今年の慰霊祭に旅立つとき、特攻隊員ら戦没者の遺書を編んだ本を数冊、バックに入れた。手軽なので文庫本の『きけ わだつみの声』も入れようかと思ったが、まえがきに「戦争犠牲者」という言葉が目にとまり止めた。かれらを犠牲者と呼ぶことは、かれらを侮辱することである。
 (また、邪魔が入った。つづきは「茶店の一服」で)

 平成十四年 霜月之八日 

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五十五話「国とは」

地村保志さん、蓮池薫さんは愛煙家なのだろうか。北朝鮮では煙草は高価なのであ
ろうか。
 けむりをふかしながらでは恐縮である、空パイプをくわえキーボードに向かう。

 北朝鮮拉致被害者が家族、友人と抱擁するシーンを見ながら、もう一つ、閉じられ
ている彼等の心の底を思うと切ない。この心の扉を開けるパスワードは「●●●●
(国とは)」である。
 彼等に同情し、同じく涙しても彼等を二十数年も放置していた“我らの”責任は回
避できない。これを機に「国とは」なんぞやを考え、このように他国から侵略させぬ
国にすることが彼等への償いである。
 これは冷戦下の水面下の“戦争”であった。敵・北朝鮮からの侵略であった。そし
て日本の「国防」がやすやすと突破されたのである。いや、それ以前に、この拉致に
自国への侵略という認識がまるで無かったのである。「平和ボケ日本」とは言い得て
いる。
 
「国とは」……。第一の義務には国防であり、国防が成り立たなければ、法の下の平
等が成り立たず、したがって個人の自由もなくなる――兵頭二十八さんは言う。「国
は国民を守れなければ意味がない」――嘉村 孝さんが言う。『武道通信』最新巻
(十九ノ巻)の兵頭―嘉村対談である。

 我らは長く、「国とは」を考えることを放棄してきた。憲法理念として戦争(国
防)を放棄し、現実としてアメリカの核の傘の下にあって、考えても詮無いことで
あったからだ。
 しかし、そのような時代が終わった。茶の間の視聴率を稼ぐため、いかにお涙頂戴
風に報じられようとも、拉致被害者を目の当たりにした国民の表層の関心の底意に、
いまあるものを壊そうとする殺意に似た<火種>を見た。

 では、どのような国になりたいか。この国の機軸を、理念を何に求め自画像を描く
のか。
 奇しくも、今巻、兵頭―嘉村対談は拉致被害者の帰国に併せるかのような対談と
なった。
 長い対談である。じっくりと読んでいただきたい。ちなみに題名は「武士道と日
本」
   
 平成十五年 神無月之十八日。   

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54話 坂井三郎の<奇襲>

 前回、<ふかした>折り、角田さんからもうじき5万台に入りますね、と言われ
た。で、「煙管のけむり」のカウント数を覗くとたしかに5万に近づいていた。では
5万目は小輩がとたくらんでいたが、サーバー移転時のトラブル、これが解決した
ら、また昨夜はウイルスに不意打ちを食らった。
 なぜ隙を見せてしまったか、長たらしく言い訳は出来るが、みっともない止めてお
こう。
不意打ちは敵にしてれば奇襲である。奇襲には勝ち目は少ない。

 その日の午後、「奇襲」の話を聞いたばかりであった。九月十五日、坂井三郎さんの
三回忌の意味での集いがあった。『武道通信』HP掲示板に写真とともに簡単に載せた
のでご覧ください。
 さて、その集いでの挨拶の一人に飛行力学の権威である加藤貫一郎東大教授が立っ
た。この方、ご自分の研究の為、坂井さんの零戦の操縦法を徹底的に研究した方であ
る。
 「加藤先生は零戦のことはまだ80%しかわかっていませんね、と坂井さんに言われ
た」という言葉で挨拶を終えたが、話された数有る面白い話の中で、この「奇襲」の
話が出たのだ。

 坂井さんの得意技、極意技と云っていいのは「左ひねり込み宙返り」であった。零
戦は左旋回がしやすい機であったから、その特徴を活かしての極意開発であった。練
習時、多くの猛者をこの極意技で<撃墜>したが、撃墜王・坂井三郎はこの「左ひね
り込み」を実戦で一度も使ったことはなかったという。戦闘戦は格闘技に入たらダメ
が坂井さんの口癖だったと云う。坂井さんは敵機、64機を撃墜したがその内、80%は
奇襲だった。
「先んじて敵を発見し、素早く最初の一撃で倒す――これが対戦闘機戦の極意」。
『武道通信』八ノ巻で坂井さんの「論客断言」の言葉が想いだされた。

 加藤氏は云う。坂井さんのすごさは64機を撃墜したことでない、その奇襲戦を編み
だす頭脳と判断力、技量を生む精神力である。ドイツ、イギリス、アメリカなど名だ
たる世界の名戦闘機パイロットがいるが、彼等に皆、ナンバーワンは問うと「Mr.
Saburho Sakai」だという。世界に誇る凄い頭脳と精神力を持ち合わせて人が、たま
たま零戦に乗ったのだと。
 
 祭壇に飾られた坂井さんの遺影を見ていると、弊誌のインタビューでお聞きした坂
井さんの声が甦る。実に人を元気づける声だった。
 挨拶に立った前田日明が『大空のサムライ』はいまでも座右の書ですと云っていた
が、小輩の<座右の声>は坂井三郎さんである。疲れたときテープを聴き、元気をも
らう。

 平成十四年 長月之十六日
  

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53話 題して 兵頭二十八−嘉村 孝 対談


 <秋が立って>からもう一ヶ月。日々、「暑い、暑い」と言っている間に一ヶ月が
経った。
この間、何をしていただろうかと振り返る。ただ忙しそうにしていたことはたしかだ
が、では何をしていたかはすぐには思い出さない。脳が沸騰していたのだろう。
“煙管”も一度、二度、きざみ煙草をつめたものの火をつけるのがついつい敬遠され
て、どんだご無沙汰をしてしまった。
 前回の流れで、兵頭二十八さんと嘉村さんの対談のことを話す。

 兵頭さんは前巻、田中光四郎さんの対談で「山本常朝、柳沢吉保嫉妬説」という独
自な『葉隠』論を展開した。片や、武士道の定番化された新渡戸稲造的解釈の『葉
隠』論を否定する嘉村さん、この御二人の『葉隠』論議を聞きたくなるのは当然であ
る。
 弊誌の常連執筆者であるからお互いの掲載文、かつての対談は読んでいる。対談相
手の<手の内>は一応、読んだ上の試し合いとなる。

 過去、編集者として数え切れない対談の席に立ち会ってきた。対談は総合格闘技の
ように様々な異種競技者との対戦である。それも、その都度、様々なルールで行われ
る。編集者はレフリーであり、またラウンドガールのようなものである。
 後年、気づいたことだが、下手にレフリーが口出したり、筋書きを作ったり、その
場を仕切ったりしない方が良いと思うようになった。サッカーで経験不足の審判はす
ぐ笛を吹きたがるが、名審判は<流す>ことを心得ている。それに似ている。
 生番組でないので後から構成できる。一番最後の話を一番頭へ持っていくこともす
るし、説明不足は著者校正で補足して貰える。だから肝心なのはその日の、その場の
二人の気分を嗅ぎ取り、それを対談の文面の下敷きに、出汁にできるかである。気分
とは二人が対談(試合)に臨む上での心構えである。
 ふたつの面がある。まず対談相手をどう“説き伏せる”かということと、次ぎに読
者に自分の得意技をどう見せるかである。
 対談の本当の敵は相手ではない――出席者はわかっている。最終的な敵は掲載され
た文面を読む読者である。良い試合だったか、つまらぬ試合か、またどちらが判定勝
ちかを決めるレフリーは読者である。レフリー役としての編集者はどちらもKOされず
最終ラウンドまで引っ張ることだ。
 二人の気分を知るためには、まずは放っておいて雑談をさせることだ。そしていつ
しか編集部のテーマに入っていくのを辛抱強く待つ。そのとき、片方からぽつりとア
ドリブが出る。すると片方もつられてアドリブが出る。それが気分の本音である。そ
れがわかれば編集者は“勝った”である。自分の手の内に入ったので、両者の持ち味
を出しながら、いかようにも料理できる。
 対談が論客二人と読者との試合でなく、実は編集者が対談者の衣をかぶり、編集者
と読者の試合となる。そうなることで時代の精神をキャッチボールし、練っていくた
めに小石ほどのボールが生まれる。

 兵頭二十八、嘉村 孝対談の話でなく、編集者の唯我独尊の対談論になってしまっ
た。これも暑さのせいか。
 (ナニ、対談の本編は次巻で読ませようとする、編集者の魂胆である)

 
 平成十四年 長月之四日
  

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52話 題して「兵頭二十八本」

 8月8日は立秋であった。それに気づいたのは翌朝の半眠半覚の床の中であった。

 8日夜、兵頭二十八さんのお仲間と九段会館屋上のビアガーデンで暑気払いの宴をの折りの言葉が思い出されたからだ。  どなたかが「今日の空は特別青かったなぁ」と言い出した。「昨日も晴れて青空だったが、たしかに今日の青さは澄み切っていた」と兵頭さんかどなたかが応えた。  小輩はこの日の空の青さには特別気が付かなかったので、その会話には加わらず、正面の薄暗闇に浮かぶ武道館の屋根を見ていた。その右後方に靖国の杜が木立の頭らしきものが見えた。

 そうだ、昨日の空の青さは立秋の空だったのだ。もう天空は秋が来ていたのだ――そう気づいて眠りから完全に醒めた。 立秋の日、JRお茶の水駅に降り、駅近くの画材屋のあるじにお会いした。それから神保町の古本街の戦記モノ専門の古書店に寄り、その足で九段会館屋上の暑気払いの会に出た。

この話を10日配信の武道通信かわら版に書いたが余談が長く、尻切れトンボになったので、この茶店でつづきをふかすこととしした。(武道通信かわら版54号「忙中閑あり」を読んでいただけたら幸いである。HPの下、バックナンバーから読むことができます)
                  ▼  
 画材屋のあるじM氏にお会いしたのは武道通信次巻の特集へのご寄稿のお願いであった。
いま日本再構築論は巷に溢れている。しかし、彼等文化人、経済人、政治家が口角泡を飛ばし語り、また激論するその中身に肝心なものが抜け落ちている。それは「武力」である。「暴力装置」とでも云っていい。
 
いまの日本再構築の核となるものは「兵法の道」である。先の大戦、兵法の過ちから敗北を喫したが、それゆえ兵法までも捨てたことに、今日の日本の脆弱さがある。これは『武道通信』の通奏低音である。
  次巻ではそれを強く訴えていきたい。その足がかりになる御仁が兵頭二十八さんである。
兵頭さんがあえて軍学者と名乗り続ける意味を、彼に寄稿を依頼するマスメディアはほとんどわかっていない。また彼を評価する文化人も同じである。(「忙中閑あり」を読んでいただいたものとして話を進める)

 そのことをM氏はこのような表現で云った。
「残念なことに兵頭本を書評するの選者が兵頭さんのレベルにない」――云い得た言葉である。
 
軍事評論家という枠でしか見ていない。彼は自身が云うように軍学者なのだ。軍事評論家と軍学者の差違がわからない。大手出版では軍学者という表記に講談本の域でしか見ていないから評論家か軍事評論家としてくれと云うそうだ。

 昔の軍学者とは天地自然の変化から敵、味方の兵力、技術、兵の気分、そして経済、政治力、全てを測れる者を軍学者と云った――前田日明が弊誌のどなたかの対談で語っていた。
 M氏との話が弾み、『武道通信』を直接販売させて貰っている駿河台下の書泉ブックマート、
書泉グランデに挨拶に寄る時間が無くなった。
足は二店を通り過ぎ、M氏から教わった兵頭本が必ず置いてあると云う「文華堂」に寄った。M氏は書店から消えた兵頭本はここで手に入れたという。
軍記、戦記モノの古書専門店である。店主に聞くと四谷ランドら出たものが3,4冊あるだけだと云う。  軍学者・兵頭二十八の原点と云える七年前、銀河出版から出た『日本の陸軍歩兵兵器』『日本の防衛力再考』『ヤーボー丼』、また宗像和広氏の共著の『陸軍機械化兵器』『日本の海軍兵美再考』はまず出ることがないと云う。以前、嘉村 孝さんの友人であり、同じ弁護士である初対面のI氏が話の中で『日本の防衛力再考』は名著中の名著であると云い、嘉村さんに読むことを薦めていた。
兵頭さんからこれらの本はもう手元にないと聞いたいたので、小輩も銀河出版刊のこれらの本が手に入るかも知れないと期待していたのだ。
「文華堂」から九段会館へ向かう。
 
九段会館は昭和和天皇の即位を記念し建てられた旧軍人会館である。2.26事件戒厳令指令本部となったこの建物は建築としての貴重なものだそうだ。敗戦後、日本遺族会の本部となり、日本遺族会が経営している。今では結婚式場として知られているのではないか。蛇足、余談だが、小輩、かなり前、人生で“最初で最後”仲人というものをやったのがここでの結婚式であった。
 
屋上のビアガーデンの上がる前、この日、九段会館で行われた一つの会合に出た。先日、この会の幹事からお誘いを受けたので、中座することを了承いただき出席した。屋上に上がったのは七時を回っていた。
 
飲んで忘れぬ内にと兵頭さんに嘉村さんの『『葉隠論考』を渡す。次巻の対談論客の著作を読んで
おいてもらう為である。兵頭さん、今巻で田中光四郎さんとの対談でまさには兵頭流「葉隠論」を展開した。いままで類にいとまのない『葉隠』考では初めて聴くものであった。
 
共に武士道を国家の機軸とせよ! と唱える嘉村―兵頭対談での『葉隠』論争が楽しみである。
 
 平成十四年 葉月之十一日
  

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51

 刀と日本人
 
 テレビの政治ワイドショーで小泉総理に某代議士が日本刀を送ったと云うことをま
た聞きした。
 迷いが生じたとき、決断するとき日本刀を鑑(み)ろということだそうだ。
 小泉総理が深夜、一人、日本刀と対峙しているを想像すると、小泉総理もまんざら
捨てたものではない気がするから面白い。
 武士は何か決意するとき、愛刀を抜き、じっとみ入る。そして決断の証とし、パチ
リと鞘の納める。
 小輩も恥ずかしながら告白すると、大事な取材などあり出かけるとき、ここ武道
ショップさんが企画した小柄工房で自分が焼き入れした小柄を払い、パチと鞘に納め
ることをする。誰に教わったものでもない、子供の頃観た、時代劇映画が教えてくれ
たことだろう(笑)。
 
 今巻18巻で最終回となった「続・刀と日本人」の筆者である小川和佑(かずすけ)
先生は大学で学生たちに日本刀の魅力を語っている。掲載の「刀と日本人」を講義の
テキストとしていると云われた。
 小川先生の著書に『桜の文学史』『桜と日本人』『刀と日本人』などがある。弊誌
の連載は『刀と日本人』の続編である。同じ版元の光芒社から先日出版された。
 『桜の日本人』を拝読した折り、日本の文化精神史を歌文化(公家)と武の文化
(武士)の相剋、融合として見ていると感じた。これは小輩も稚拙ながら同じとする
とことであり、先生にご寄稿願ったのであった。

 ここで余談……。4巻だったか、西尾幹二氏を論客対談に招いた折り氏が「鎌倉時
代になり日本人は精神的に安定した」と一言仰ったとき、ポンを膝を叩いた(心の中
で)。ぼんやりしていた視界がパッと晴れた。
 歌文化と武の文化の調和、均等、相剋の上のバランスと云おうか、渡来人と原住民
の異物同士を和することで、祖先は国造りをしてきた。長く公家(天皇家)が武の上
にあったのを鎌倉幕府は征夷大将軍を授かる形で武を天皇家と対等なものにした(あ
るいは対峙した)。果然、多くの民衆仏教、芸術、文化が興った。いまの日本の生活
文化の原型がここにある。日本刀も鎌倉時代で完成した。現代の刀工はいかに鎌倉時
代の刀に近づくかが命題となっている。
 
 小川先生は学生達に日本刀をわかりやすく伝えるため時代小説を例にとった。人気
作家、司馬遼太郎の土方歳三を描いた『燃えよ剣』などの剣が出てくる作品や、柴田
練三郎、五味康祐から作品から主人公が思いを寄せる日本刀を語りながら、日本刀が
日本人の心に深く根ざしていることを、日本刀の清明さが心の、道徳の機軸となって
いることを語っている。
 近代小説が西洋を理解し、近づく作業であったのに比べ、日本刀の心を連綿と伝え
てきたのが時代小説であった。
 
 平成十四年 文月之五日

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50

  日本の精神育成教育

 先日、武道ショップの近くの印刷所まで出向いた。次の訪問先の時間が詰まったの
でお寄り出来なかった。友人のそのまた友人の出版社が印刷業をはじめた。で、『武
道通信』の印刷をお願いすることになり、17日に発行される十八ノ巻のデーターを持
参したのだ。

 今巻の対談論客は松井章圭・極真館長、対談の折り池袋へ出向いた。その足で武道
ショップをお訪づねした。一本歯の下駄をはいた田中光四郎さんとお会いしたもの、
ここ武道ショップであった。田中さんも今巻で軍学者・兵頭二十八さんと対談してお
られる。今巻は池袋に因縁がある(笑)。

 特集の自衛官と『葉隠』<自衛官に捧ぐ――武士たりうるか 国軍たりうるか>の
巻頭対談である。
アフガン、自衛隊、武術・格闘技、武蔵、『葉隠』まで縦横無尽に語り、『武道通
信』最長32ページに及ぶ超ロング対談となった。
 田中氏は「自衛隊員は志士でない。サラリーマンである」という。現代のサムライ
から見れば、そのおりであろう。しかし、その中にあって”死ぬことを見つけられな
い”で苦悩する自衛官もいる。自衛官OBの方々の寄稿文から拝察できる。それは国民
の多くが国軍と認めず、長く愚弄してきたことにあるのではなかろうか。
 現代の武士であるはずの自衛官を国軍の志士としていくのは「銃後の守り」である
我らではないのか。この心構えが喪失したのは、敗戦後、日本の精神文化である「武
道精神」を軍国主義の因として断罪したことにある。武道精神こそ日本の精神育成の
文化であった。それが学校教育という場で失われた。

 前田―松井対談でも武道教育を語っている。武道のスポーツ化に対し館長はその葛
藤を真摯に語る。<一撃>の真意、K―プロデューサー石井館長のいう<武道の生産
性>としてのK―1とは異なるものとして<一撃>を捉え、極真会館の未来像を朋友
である前田日明に語っている。
 戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が提唱している死と対峙し鍛える「脳幹トレーニ
ング」こそ武道教育である。弊誌は戸塚ヨットスクールを支持する立場で、今巻に支
援する会に戸塚イズムを語っていただいている。

 本日の「けむり」は十八ノ巻を紹介させていただいた。武道通信HP(新刊案内・購
入案内)に詳しく掲載されています。ご覧下さい。武道ショップさんにも18日には届
くかと思います。お手にしてみてください。
 
   平成十四年 水無月之十五日

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49話.  - 松井章圭―前田日明対談の帰路に

『武道通信』次巻の論客対談は池袋の極真会館本部で行われた。論客は松井章圭館長である。対談の終了後、館長と前田日明は旧交を暖めるため連れだって夕暮れの中に消えた。二人を見送ってから日本武道具の角田あるじを訪ねた。在郷のくにたちからに出ることも滅多にないのでこれ幸いであった。
 とは云え、角田さんとはネットでの会話でそれほど疎遠の気はしないない。が日々、まだ会ったことのない方々と<会話>ばかりしていると“知った顔”の方に会うのは、あたかもDNAで結ばれた血族、親族と会うような気がするから面白い。これは最近、とみに感じる。この辺の感覚をいちどじっくり整理し文章にしてみたい。

 さて、小輩はいま先ほどの対談の雑感を話した。ここは地元であるゆえ、松井章圭館長を絶賛した(笑)。いやいや冗談ぽく云ったが本音である。松井館長と会うのは九ノ巻で宮本武蔵を特集した折り、「武蔵と大山倍達」を寄稿いただいたとき以来だ。<目線>は何のてらいもなく、湖面の水のような自然体で、たたずまいは変わらず稟としていた。漢(おとこ)の美しさを持った希有の武人である。そしてそのとき、大山総裁を語る<目線>に武道家のリアリズムを見たが、今回の対談でも同じであった。
 角田さんは娘さんの学校の後援会の役員をしていることから目下、文部化学省の国立大学独立行政法人化の流れの中で国立大学附属女子高校の男女共学化(ないし廃止)に異議申し立てをしていることを話してくれた。グローバルスタンダードで女子校廃止の動きが進んでいるとのことだ。しかし、廃止反対の論点に海外支援の一環でアフガンの学校設立支援において女子校のノウハウが役立つということを挙げているそうだ。
 アフガンは男女共学ではないそうだ。そう云えば田中光四郎さんが先に難民キャンプの中高生の弁論大会を催した折り、男女、日を違えて行った。そういうことであったか。世界を見るとき知らず知らずアメリカを通して見てしまうが、<男女、席を同じゅうせず>がまだ生きている世界がある。これでいいのである。民族が培ってきたその地に適正なルールである。
 アメリカ支配下に置かれたアフガンも男女平等の名の下に男女共学にされるのだろうか。日本も敗戦後、学校制度はアメリカの6−3−3制にされられた。これも大きな<敗北>だった。
 運動部的視点で云えば指導者は3年間で完成させなければならなくなる。3年区切りでは監督も3年目で結果を出そうとするから選手の素質が分からぬ内にポジションを決めてしまいかねない戦前の中等学校5年制では1,2年でまず生徒(選手)の素質をじっくり見られる。それから3,4、5年と3年かけてその子の素質にあった指導法、ポジションで育てることができる。戦前の陸上競技部では1,2年生時は放っておかれ、自分で短慮離、長距離、ハードル、走り幅跳び、砲腕投げなど、いろいろな競技をやってみて自分の合ったものを捜したという。ここに松井―前田対談でも出た<子供の領分>があり、何よりも年上の少年が年下を面倒見、教育する共同体による日本土着の教育システムがあった。

 国の大事は教育であることは万国共通であり、その国に合った制度を100年の大計で考えてきたはずである。同じ敗戦国のドイツは学校制度の変更には断固拒否した。日本の役人の不甲斐なさは何も瀋陽(しんよう)の日本総領事館事件に始まったわけでない。
 そうそう、この亡命者駆け込み事件のビデオを見ていて思い出されたのは、いまだだまし討ちの汚名を着せらている真珠湾攻撃の折りの暗号文解読に駐米大使館の脳天気な対応であり、田中光四郎さんが十五ノ巻で前田日明との論客対談で語った、日本の女性カメラマンが地雷で爆死した折りの日本大使館の対応への目に涙をにじませての憤りだった。

 小輩のこの事件の憤りは後日、「草莽杉山・奮戦記」で云わせていただく。(昨年の猛暑の中、街頭で演説していた「外交問題は票にならない」――ここに因があるのだ)
 そこで今一度、武道通信かわら版5/10号の田中光四郎さんの講演<その二>をお届けしたい。この日本総領事館事件を考える折り、田中光四郎さんがここで云っていることが示唆を含んでいると思うからだ。
  
■田中光四郎先生 講演《二》―――――――――――――――――――――
                         
                        松下大圭(Web編集員)

 田中先生が冒頭で言われたのが「私の人となりを見てください」とのこと
だったので私は感覚だけ掴んで論理立った話は極力考えないようにした。しか
し書き下ろしてみると非常に奥深いことが述べられている。このように情勢を
読めるのは力関係の世界を実体験で知った背景があるのだろうか。どれだけの
時間のものだろうか、アフガニスタンとそれをとりまく情勢を以下に。


  我々日本人はアジアに戦火を起こさせてはならんわけですよ!!

 昨年の9月11日に、ワールドトレードセンターが爆破されましたね。飛行機
が突っ込みまして。とても衝撃的で手を叩いた人も多かったと思うのですよ。
あれほど見事なショーはないですよ。しかしね、あの日あのタワーにいるべき
4,000人のユダヤ人が誰1人出ていなかった、2,500人といわれる中国人が誰も
出てなかった、犠牲者がないわけですよ。それをまたビデオで撮る仕度をして
いた人もいる。
 19人が突っ込んで、そのうち9人が米軍の施設で訓練を受けたパイロットで
あったという事実、僕らはそれを聞いて「何だよおいおい、またやっているのか
あいつら」というふうに思うわけですよ。それをアンチテロというテーマに置
き換えてですよ、じゃタリバンが悪いことしたんですか? 
 たった1つあるんですね。アフガニスタンは世界一のケシ畑の産地でござい
ます。それは綺麗ですよ、紫色真っ赤、黄色、真っ白、畑がダーっとあります
よ。しかし彼らは精製する技術持っていないです。傷つけて液を持ってくるん
です。それをやっているのはパキスタンですよ!
 
 そしてその麻薬のシンジケートの絡み合わせでタリバンが潰されかかったと
いう噂もあるわけです。このニュースは世界中をまわっております。それはユ
ダヤを研究している人たちの間でそのニュースが多くございます。そうします
と話がすーっと全部抜けてしまうんですね。「戦争起こすためにあいつらまた
仕組みやがった」、イラクのサダム・フセインを引っ張り出すために、なぜな
ら9月にもいち早くEUの軍隊を中東に集めました。軍として備えてですねタイ
ムリミットは今年の3月末だった。それは構えて攻撃しないと今度は内部の統
率が乱れます。ですから3月4月には必ずアメリカはイラクを叩くといいました
ら、今度はイスラエルがパレスチナを叩きに入りまして、実に見事な連携であ
ります、見事なストーリーを作り上げているのであります。

 だからタリバンには私の友達はいっぱいおります。一緒に戦った仲間が。北
部同盟といわれますが、ジャミアとイスラミといいます。北部同盟にはドスト
ンというのがおりまして、民兵の将校でございます。マザール・シャリフ、こ
こ出身です。(地図指して)ここはウズベキスタン、川をまたいで同民族が生
きております。トルクメニスタン、タジク、キルギスと、結局川1本はさんで
彼ら同民族がいっぱい住んでおるわけです。
 そのドストンは前のソ連が作った政府の民兵の将軍なんです。これが寝返っ
てラジブラダ潰れてマスードと手を握って北部同盟というのだそうです。私は
北部同盟という名前を知りませんでした。それはジャミアと、トップが前大統
領でありましたラマディでございまして、私も18年付き合って参りましたから、
彼の性格の性格も知っておりますが、彼は戦ったこと一度もありません。全部
マスードが戦ったんです。西の方にありますヘラート、ここにイスマイル・ハ
ンというのがおります。これは大変勇敢で強い男です。あまり大きくないです
がガッチリしていましてね、彼もタジクなんです。ラバニがタジク、マスード
がタジク、強いところがみんなタジクなんです。

 ですから92年にラバニ政権が誕生しました。90年にナジブラ政権が潰れ、逃
げる時につかまりました。そうしますと一番困るのはパキスタンなんですね。
この国境(パキスタン・アフガニスタン)はイギリスが作ったものですよ、
1893年、ジュランラインといいます。そしてトライバルエリア化して、インダ
ス川のほとりまでは元々アフガン、パシトゥの土地なんですよ。彼らはイギリ
スと戦って、やっと暫定の国境を決めましたね。そしたら100年後には返すよと
いうイギリスがなくなってインドが独立し、インドとパキスタンができたわけ
ですね。
 だからパシトゥはこのトライバルエリアNWFP(North West Frontier Profit)、
国境またいで住んでいるわけですよ。アフガン人口の60%がアフガンなんです、
アフガンというのはパシトゥのことです。ですから1993年にはこの国境を越え
てパキスタンの領内半分返さなければならない。だからそれをタジクにやられ
たんではパキスタンとしてはインドと向かい合っていますから、前後に敵を作
ることになってしまうんですよ。それで出来上がったのがタリバン、出来上が
ったのが1994年でその2年後にはタリバンが全土を支配するというところまで
きたわけです。
 ところがタリバンは人数が少なく、2万人足らずです。タリバンのリーダー
のムラ・オマールというのは、いまだに生死が分かりませんね。生きているそ
うです。時々声明を出していますが、誰が出しているかは分かりません。タリ
バンがパキスタンによって作られた政権だという事実があります。
 ですから1996年から2001年まで彼らがアフガニスタンを統治したことは事実
であり、彼らが悪いわけではない。ただ、皆さん不思議に思われませんでした
かね、マザールが陥ちましてね翌々日にはカブールが陥ちたんですよ。1日か2
日でなんで進撃できるんですか? 戦って勝ち取ったものではないんです。タ
リバンと名乗っていた部族が片っぽへ寝返っただけなんですよ。だから彼らは
戦う力をもったまままだ息を潜めているわけですよ。その上にカルザイが今乗
っかっただけです、アメリカの指定によりまして。
 ところがアメリカのガス会社の顧問ということがばらされてしまいまして。
ですから中央アジアからインド洋まで天然ガスパイプラインというのは有名な
プロジェクトでございましょう。
 そうするとアメリカはサダム・フセインをダシにしてサウジ・アラビアをコ
ントロールしましたね、巨大な基地を作ったそうです。その基地を作ったのが
ウサマの一族ビン・ラディン家だそうでございます。そういう矛盾を考えます
と、ヒトラーが利用されたように今度はウサマが利用されたと読むことができ
るわけです。否定できないということは説が成り立つということです。ですか
らアメリカ切羽詰まってくると必ず戦いを起こしてきます。そうしますと、ウ
ズベキスタンとタジクに基地ができましたね、パキスタンにできましたね。今
度はタイかミャンマーどちらか抑えて東シナ海のフィリピン、すっかり中国包
囲網ができあがるわけですよ、アメリカにとりましては。そうしますとこの世
界観をもって戦争をしかけているのは誰か、いうことになりますと最終的に1
つしか浮かび上がってこない。さきほど挙げた民族がいてすーっと風が抜けて
いってしまうんです。ストーリーが全部見えてしまうんです。それをいうとみ
んな殺されてしまうんですね、日本でも何人かのジャーナリストが殺されてい
ます、自殺とか不信死という形で。それがいいか悪いかはさておいて、そうい
う世界観を持った人たちが歴史を作ろうとして事を起こしているという事実が
あるということを……

 我々日本人はアジアに戦火を起こさせてはならんわけですよ。2008年は北京
オリンピックですよ、1980年のモスクワオリンピックはなんで駄目になったん
ですか、1940年の日本のオリンピックなんで駄目になったんですか、みんなア
メリカの仕掛けじゃないですか。アメリカがヨーロッパ戦線参加するために日
本を巻き込んで一発やらせて、さあ戦争戦争と世論持ち上げて、あれは実に見
事な筋書きが出来上がっていましたね。それを今アメリカの公文書から見つけ
出すことができるという恐ろしい世の中になっていますね。

 そうしますと我々日本人がまずやらねばならぬことは「日本人が日本人とし
てあるべきことを知る」ということをまず始めなければならんわけですよ。こ
のアジアで戦火を起こさせてはならんのです、アメリカのためにユダヤのため
に。絶対に戦火を起こさせてはならんですよ!!


平成十四年 皐月之十三日

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48話.  現代の「サムライ」と「軍学者」

隣家に数日前から鯉幟(こいのぼり)が上がった。吹く風が薫風となった気がする。朝の日差しもめっきり明るくなり、昨年は鳴かなかったウグイスが鳴きだした。「朝気」が一段と強く感じる日々である。(それにしては4年振りに風邪をひいた)

 昨年の忘年会、兵頭二十八さんから近著の『地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』(四谷ランド刊)と云う長い題の本をいただいた折り、何か一筆と乞うと扉裏に「朝気」と書いてくれた。それで「朝気」と云う言葉を知った。(これはどこかでふかしたか?)
 兵頭二十八さん、夜寝は9時で起床は4時だそうだ。たぶん朝気をふんだんに体内に取り込むためだろう。過日、兵頭二十八さんと田中光四郎さんの対談が行われた。現代の「サムライ」と「軍学者」の“対決”となった。これは『武道通信』次巻で読んでいただくとして、その前日の一水会ファーラムでの田中光四郎さんの講演をご紹介しよう。
 というのも、一度、この「けむり」で武道通信かわら版の読者確保をしようとの魂胆である。目下、国立市で立ち上げたNPO法人でメルマガ、i-CAN★Web通信を準備している。
登録申請が受理されたが、その折り、登録数を有る程度確保してから創刊号を出してくだなさい、なぜなら……とあった。
 なるほど、読者確保戦略をしなくてはならないのかと思い、合わせ、武道通信かわら版もいまひとつ広報活動が内弁慶ではないかとかえりみた次第。

 そこで、4月26日に発信した武道通信かわら版47号の田中光四郎さんの講演の紹介と兵頭二十八さんの稿を、ここで紹介させていただく。創刊された2年前、知人がこんなメルマガが無料で読めるなんて……と感動してくれた。(ちとオーバーだと思うが)
読んでいただき、“感動”していただけたら武道通信HPのトップページ最下段にある登録フォームからお願いする次第。

■田中光四郎先生 講演《一》―――――――――――――――――――――
                        
                        松下大圭(Web編集員)

 先日、田中光四郎先生の講演を録音し、一部を武道通信掲示板に掲載て、最
初20分ほどを以下のようにできるだけ言葉のままあらわしてみた。書き手の未
熟さあって一部中略した部分もあるが、要点は全てとらえたと思われる。

 『武道通信』を通して集めた録音テープはこれで3本、いずれも戦争体験者
やその遺族である。「親の情」、「父」、「母」、1本目は「特攻隊員の清い
心を育てたのは母たちです」、2本目「父坂井は……」そして今回「こんな深
い親子の情はないですよ。」とある。子の生死に親の情、親の生死に子の情、
倫理・道徳の原点に親の情、そのような訴えが聞こえてくる。田中さんは「個
人攻撃は良くないのですが」、こう何度も前置きをして1人の現職議員を「彼
は親の情を踏みにじりました」と痛烈に批判した。

 続きはいずれまたかわら版で掲載したい。そしてできたら、機会あらば皆様
に田中さんの講演に参加していただきたい、これを切実に願う。
 では最初の20分を。

 2002年4月17日午後7 時00分 田中光四郎

 1985年の2月にアフガニスタンに入りまして、戦い始めたのも1985年2月末で
ございます。アフガニスタン、ここなら死ねると思いましたのが1984年7月で
ございまして、1982年に初めてアフガンの難民の方に出会いました。その方は
ルビーやサファイアですとか、石を持って歩いていた。でこんな優雅なやつら
と話してもしようがないと思って気にもかけませんでした。
 当時ニカラグアのコントラから武道の指導に来ないかなどいろんなところか
らお話がございました。1984年私が44歳の時、子供の頃から続けた武道の丁度
最終ステップ、今から思うとそういうところに差し掛かっていたという気がし
ます。いざ死ぬ場所で死ねるかというのが自分の確認でして、飛んでくる弾に
向かい、ここまできたのをかわしてみたいとか、武道家というのは欲が深いも
のでありまして、ギリギリまで見たいというものがあるんです。

 1984年に2組の難民に出会いまして「ここなら死ねるかな」と思ったのが19
84年の7月でございます。それから半年かけて身の回りを全部整理し、生きて
帰れるとは思っていませんでしたから、そこから1985年の2月に向こう行って
1985年の2月から戦い始めました。

 いざ戦い始めると、生きているとか死ぬとか、感情ではなく、ただ戦うこと
がが楽しかったです。今思っても楽しかったです。ですから腎臓結石になった
りマラリアにかかったり、骨折したり、病気は多かったのですが、弾は何度も
かすりましたがこうして生き残っております。しかし岩陰で隠れて撃ったやつ
らが死んでおります。
 私の後ろを走っていたやつらが地雷で吹き飛ばされています。だから運を感
じることはなかったのですが、何か生きなければならぬような気がし始めたの
が戦争始めて2年か3年たってからです。そうしますとアフガン難民を救うため、
この国をロシアから取り返すためにとか、知覚ばった立派なことを振り上げて
言うようになりました。それまでアフガニスタンがどこにあるかご存知の方は
あまりなかったです。
 現在では有り難いことに皆さん良くご存知でいらっしゃいます。

 現実に戦争が一番ひどかったのが1983年、それから1986-1987年になってステ
ィンガーという地対空ミサイルがありました。それまで私たちは夜しか攻撃で
きなかったのですが、夜ですと地雷が見えません。パイナップルを2つ並べたよ
うな地雷がありましてこれにひっかかりますと10メートルくらい吹き飛んでし
まいます。
 一番困ったのが上にゴム貼っていて2キロの負荷で爆発します。対人地雷はプ
ラスティックで出来ていますから探知機は利かないのですよ。重さで振り子に
なってヒューズが飛ぶようになっています。最もたちの悪い地雷を踏んで死ん
だのが日本人でたった1人、南条直子と申しまして私が紹介して入れた子なんで
すけれど。
 私の弟子レクゾーンレクというポーランド人が崖から落ちて死にました。で
南条が私の家に来たそうです。で元々の恋仲でしたから彼と一緒にアフガニス
タン入りしようと約束をしていたそうです。レクゾーンレクが死んだことを南
条は知らなかったんです。
 それでペシャワールまで来て死んだことを知らせ、ムジャヒディンの仲間を
紹介しました。3度目1988年、アジアハイウェイがありましてカブール川がわき
を流れています。その深い谷を私は攻めていました。

 そこで地図(アフガニスタン)見ていただければわかりますが、これは道幅
がある自動車が通れる道です。赤い線は人が通る道、馬が通るだけの道幅でご
ざいます。それが地図に載っているわけです。ですから道幅の両脇30センチ〜
1メートルは一番地雷が多いところなのです。その地雷が多いところを13人の
グループが下のアジアハイウェイに向かって降り始めました。南条は13番目に
降りました。最初の11人全員に会いました。どういう状況だったか、どういう
歩き方をしたか、なぜ下へ降りたか、お前は何番目だったか。全部確認しまし
た。
 ところが12番目がアフガンのワジールというジャーナリストでして、この男
がバッテリーが落ちているので脇を歩けと南条に言ったそうです。そして南条
が脇へ行って地雷を踏み、足を飛ばしました。恐らく状況から見てショック死
だと思います。それほど出血した跡がなかったです。女の身ですからもろに心
臓にきたのでしょうね。

 ところがこの南条直子の死体を、バラバラになった死体をムジャヒディンが
埋めたと、言った人間がおるのですね。松浪健四郎という国会議員です。
 松浪は何も知らない、南条にも会ったことないはずです。しかし自分がムジ
ャヒディンに紹介してアフガニスタンに入れたと、毎日新聞(昨年9月23日朝
刊)に書きました。私は9月24日アフガニスタンに旅立ちました。ですから記
事を読んだその日に毎日新聞に訂正しろということだけ言ってアフガニスタン
に行きました。
 現実に南条が死んで1週間目、1988年10月1日、私はペンタゴンに呼ばれてそ
こから帰って、ペシャワールへ帰ったその日に無線が入りました。「日本人の
女が死んだ」「誰だ?」「南条だ」。私はすぐ大使館に連絡とりまして、駐在武
官をイスラマバードからペシャワールまで引っ張り出し、国境まで来たところ
彼が「許可がなければ行くことできません」と、自分の車へ帰りましてね、ペ
シャバールまでとって返してビニールのロールを買いました。
 南条の体を持って帰ろうと思ったんです。ロールを買った領収書を貰い、駐
在武官に渡して「国からこの金貰ってくれ、南条が死んだ証しになる」といっ
て彼を帰して、私1人で入りました。南条が埋められて1週間目の10月7日に私掘
り起こしました。髪の毛と爪と持っていた物全部持って帰ろうと思いました。
 ところが死んで1週間目はガスで体が膨らんでしまいます。紫色で真っ黒にな
るくらい腫上がります。爪とるのをやめて、髪を切り、カメラからみな持って帰
りました。で両親に渡しました。その時お母さんが(夢で)娘が真っ黒な顔し
て廊下を走ってきたというんですね。こんな深い親子の情はないですよ。親と
いうものは大変有り難いもので、自分が親を一生懸命想っているつもりでも親
はその何十倍も子を想っていると、こういうことですよ。
 その親の想いをね、松浪が踏みにじりました!!だから私はあれを許したく
ありませんし、目の前にいたら蹴っ飛ばします。

親子の情として、人間として、私は許せないからあえて皆様に申し上げたい。
それは、バラバラになった南条の体をムジャヒディンがかき集めて埋めたと。
親は77歳です、昨日も私は電話で話をしました。いつでもきてくださいと。今
回94年に作った大理石の墓がタリバーンによって壊されました。なぜ壊したか
分かりません。その欠けた石1つを今回持って来ました。それを「おっかさん
届けるよ」、喜んでいました。
 親は健在ですよ。バラバラになった体を親が見たんですか?1990年の7月親を
連れて2度目に来て掘り起こした時にもミイラにはなっていましたけれど、バラ
バラになった体はどこにもない。膝から下、肉落ちていますよ、しかし焼き始
めて初めて膝から下が落ちたんです。これをバラバラというのなら、バラバラ
になった体をかき集めたという松浪が見てきたようなウソをいう、だから私は
詐欺師と言いたいわけです。
(中略)
 私、50近く穴を掘って埋めてまいりました、戦った仲間を。みんな土葬でご
ざいますから北枕にして顔を西に向けて埋めるんです。南条の体もそのように
して埋まっておりまして、そのミイラに母親がしがみついて泣いたんですよ。
どこにバラバラになった体があるんですか?それをいまさら、毎日新聞と言え
ば社会の綱紀でしょう? これに松浪が書いた。今度毎日新聞に抗議します、
訂正文を出させます、必ず!! 出させます。松浪に土下座させます。あの記
事見たら親泣きますよ。一緒に僕ら掘り起こしてきたんですよ。そして体を燃
して骨拾って帰ってきたんです。人の情としてね、人間として、あの詐欺師を
許すわけにはいかんですよ。
 ちょっと入りにしてはきつかったかもしれませんが、個人攻撃になったかも
しれませんが、これが国会議員という公職についているからなおさら許せない。
そういう思いでおります。

軍師の閑談《二》――――――――――――――――――――――――――

    「習志野」「黒土原」という地名の由来

                        兵頭二十八(軍学者)

 現在、軍人らしい顔つきの自衛官を見るには、陸上自衛隊ならば、習志野空
挺団が屈強であろう。
 この「ナラシノ」という地名は、明治6年4月に同地で講習があったときに、
臨幸された明治天皇によって、「ナラス(教練する)」の意で命名されたとい
うのが通説である。つまり「ナラス」と「野原」が結合して「ならしの」にな
ったという。
 しかしどういうわけか、この命名に篠原国幹(西南戦争の西郷軍の最高幹部)
が一枚噛んでいるという俗説がある。だが私の調べた限りでは、篠原には何の
関係もない。なぜそのような説を聞くのか、不思議なことだ。

 私は、より深く詮索するため、「奈良」の語源も調べてみた。
 『日本書紀』の「崇神記」の崇神天皇(すじん)10年のころにタケハニヤス
ヒコが叛いたとき、官軍がナラ山に陣して、そこの草木を踏みナラしたので
「奈良山」の地名がつけられた、とあるのが最も古い文献上の説明である。そ
の奈良山を越えた平地の平城も、奈良の都と呼ばれるようになった次第だ。
 言語的には、しかし、この説明には付会の匂いが強そうだ。narは、そもそ
も古代バビロニアで川や運河を意味し、それがそのまま古代朝鮮語やアイヌ語
の「川」になり、日本へ入ってから「緩斜地」「平地」の意味になったという。
「ナラオ」「ナロ」「ノロ」「ナライサワ」「ナルサワ」などの地名は、みな
同じ語源らしい。

 以上から、私はこう推理した。
 明治天皇は、生涯に何百首もの和歌を詠まれた文人だ。とうぜん、『日本書
紀の「崇神記」のこのエピソードもよくご存じであられたろう。明治6年とい
えば、演習場として使われだして1年たつかたたないから、当地は葦や雑草だ
らけだった筈だ。それが、目の前で、大勢の兵隊たちが踏み荒らすことでみる
みる平らにナラされていく。これを見て天皇は、たちまち「崇神記」の「ナラ
山」の下りを感興深く思い起こされた。そして、イメージを喚起されるままに、
「ナラシ野」と名前を付けておしまいになった。――こう解釈することが自然
だろと思われる。あくまで、和歌的な発想なのであろう。
 ちなみに、日本で一番汚い駅は「北習志野」……などという、なぞなぞは存
在しないようである。
 余談ついでにもうひとつ。
『葉隠』の口述者、山本常朝が晩年に隠棲した地名を「黒土原(クロツチバ
ル)」といった。九州には「原」と書いて「バル」と読ませる所がたくさんあ
る。
 ところで、北欧神話で、戦死者が迎えられる天界を「ヴァルハラ」という。
この「ヴァルハラ」および「ハラ」と、九州語の「バル」は、どうもバビロ
ニア語で「土地」を意味した同じ言葉が訛っているらしいく思えてならない。
古代ヒッタイト語の「ワダール」が、東の端の日本語で「わだ」となり、西の
端のケルト語では「ウォーター」に転訛している如き例もある。物好きな言語
学者の研究を待ちたいと思う。

 平成十四年 卯月之二十八日
 
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47話. 武州下原(したはら)

 
 めっきり“初夏めいた”一日、福生市郷土資料室に展示されている「赤羽刀」を観に出かけた。
 敗戦時、武装解除で約二十万振りの日本刀がGHQに接収された。占領軍による「昭和の刀狩り」であった。東京北区・赤羽の米軍兵器倉庫に収められたことから赤羽刀と云われるのだが、里帰りした<武士時の魂>はサビだらけであった。これまた<武士時の魂>を失った我が国の官は、臭いモノには蓋をしろで、東京国立博物館の物置にしまい込み、ほとんど放置の状態にした。
 それでも平成七年(95年)、武器扱いを解く法律が出来き、元の所有者に返すことができるようになった。だがである……。民も<武士時の魂>を捨ててしまっていたのだった……。

 ため息が出たところで、余談ふたつ。
 米軍に接収された日本刀は、日本刀が魂の入れ物であることなどわかろう筈のないヤンキーによってほうき、はたきの扱いで倉庫に入れっぱなしなっていた。が、その美術的価値はわかっている欧州愛好家たちは見逃さなかった。美術品的価値の高いと思われるものは<火事場泥棒>に持って行かれた、と聞く。
 長州藩出で近衛兵だった家内の曾祖父は愛刀家で何振りを持っていたそうだ。義母は父の刀を観にくる客が多かったと生前、話していた。勝者の刀狩りに、元軍人であったゆえ、範を示さなければと愛刀を放出した。その中に関ノ孫六という名の刀があったと義母は云う。
 赤羽刀の所有者返還のニュース後、家内が義母の話を思い出し、母方の実家に接収された刀の行方を問うてみたが、まったくもって関心ない応対であったと聞く。曾祖父が墓場の蔭で気をもんでいただろう。

 本題に戻る。返還される対象になった約五千振りの内、請求数は一割ほどで、調査の結果、旧所有に戻ったのは6振りだけだった。敗戦後50年余、すでに<武士時の魂>を失った民から置き忘れられた5千振りの刀は、つまるところ全国の美術館、博物館に貰ってもらわれる運命となった。
 この中に「武州下原刀」が37振り含まれていたことがわかった。国立のご近所の八王子に、かつて「下原鍛冶」と呼ばれる、室町時代から幕末にかけ栄えた下原鍛冶と呼ばれた刀工群がいた。耐久力抜群のもっぱら実戦向きの刀だったそうだ。これが「武州下原刀」と云われるものだ。
 資料によると、関ヶ原、大阪夏の陣と,徳川方に刀,槍,薙刀(なぎなた)を供給した功績により,山本一族は苗字帯刀をゆるされ、八王子在の俚言俚謡(りげん りよう)に「鍛冶の歩いたあとは,芝も枯れる」「蛇もまむしもどけどけ,俺は鍛冶の倅(せがれ)だぞ」と謳われるほどの繁栄ぶりだった。 いまそれを伝えるのは、下原刀鍛冶発祥の地と刻まれた石碑だけである。誰にも気づかれないようにすまなそうに建っている。下原刀は昭和35年に594振りが登録され、89点が八王子文化財に指定されたそうだ。

 里親捜しで、当然のこと八王子市へ「地元ゆかりの刀はいりませんか」と問い合わせがあったが、市は「入りません」と答えたのだった。さびを取る研磨費が1本あたり20万円かかるのを惜しんだのだと地元愛刀家は云う。彼等愛刀家の抗議で結果的に5振りだけ譲り受けたと聞く。
 しかし、近隣の福生市が手を挙げた。広く多摩の文化財だと、他の赤羽刀ともの97振りを譲り受けた。さびついた刀を研磨し終わったものから中央図書館内の資料室で展示してきている。今回は「武州下原刀」が多く展示されていた。
 
 たしかに化粧気もなく、身が厚く、博物館で観なれた美術刀剣とは少し違う。地侍軍団の武州らしいと云えば武州らしい刀である。刀匠の見習いは、鍬や農具も作っていたのではないか。江戸期に入り、刀が装飾品化したことで田舎風の下原刀は衰退していったのだろう。
 数多くある“新撰組物語”にも、小輩が知る限り、この下原刀の名は片鱗もない。近くにいた資料館の館員に訪ねた。
「近藤勇とか土方とか、新撰組が武州下原刀を持っていたと聞いていませんか」
「聞いたことなんですね」と確信的に答えた。以前、何度も聞かれてきたことなのだろ。
「でも、『大菩薩峠』には出ています」と云った。「第一巻で主人公のと机竜之助(つくえりゅうのすけ)が大菩薩峠で老巡礼を斬った刀が武州下原刀です」
 第一巻だけは二度読んだが憶えていない。「中里介山は武州下原を持っていたんではないですか」と館員はつけ加えた。

 そう、間違いないだろう。介山が脇に抜き身の武州下原を置いて『大菩薩峠』を書いてた……そんなことを想像を楽しみながら館を出た。
 是非、この無骨な武州下原刀を一振り手に入れたいものだ。それを腰に差し、イスラエル軍に包囲されたアラファト議長を救出しに行こう……。初夏を思わせる気候のせいか、いい歳をし、そんな夢想に浸った。
 
 
 平成十四年 卯月之三日
 
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46話.「国士」

13日、田中光四郎さんのアフガン支援チャリティパーティが行われた。会場のアルカディア市ヶ谷(私学会館)の五階から展望できるJR路線の土手の桜並木の桜はつぼみを膨らませていた。来週には三分咲きになるだろうか。
 この日、BudoShoopの主(あるじ)、角田さんは体調を崩しておられるので出席は無理だろうと思っていたが、義理堅く奥様がお見えになっていた 最近、どこかで「義理」について拙論らしきものを“ふかした”記憶があるが、田中光四郎さんのアフガン支援は、まさに正しき意味の「義理」である。田中光四郎さんと『武道通信』を結んでいただいたのは主であった。主と田中光四郎さんの長いお付き合いも「義理」ある仲だと推察している。

 そうそう、義理の話ではない。
 この会の閉会の折り、田中光四郎さんへ50万円の支援金が送られた。日本全国のアフガン難民支援金の総額から見れば、額で計れば一滴の献血でしかないだろう。しかし、しかし、それはアフガンの子らに未来を宿す一滴になる――そう、臆面なく云わせていただく。
 あと半月後、ペシャワールで子供達の弁論大会を催す資金とする――田中さんはお礼の挨拶でそう語っていた。かつてアフガンの子を養子にしようとした田中さんならではの企画である。難民の子らは何を語るだろうか。それを聴き、微笑み、また涙する田中さんを想像して小輩も同行したいという夢想に浸った。
 
 以前、田中さんが9・11後、アフガンへ入るべく国境付近に滞在した折りの日々の手記をいただき、それを帰路の電車の中で読んでいて、恥ずかしさに身を包まれた。三島由紀夫が割腹した40年前のあの日、心と身の置き場がなく、学生時代通った喫茶店の隅でうずくまっていたときの想いが蘇えり、<己は何をやっているのだ……> 自虐的な無力感が襲ってきた。
 いやいや、多摩の在郷の地の裏店で『武道通信』を編んでいることも、己の<分>なりの義である――と自らを慰めた。

<我が身を捨てて、人の為に尽くす>――これはそれなりに実践している方は多かろう。しかし、いざ、というとき命を賭して敵なる者と戦うという覚悟があるかないか、大きな違いである。アフガニスタンは戦争の地であるからなおさらである。NGOは命を賭するものではない。その限界がいま真に問われなければならない。(この事については『武道通信』HP掲示板で触れた)
  
 命を賭す――このことがタブー視され久しい。この会の発起人の一人、風間 健さんは挨拶で同じ武道家として己を恥じたと語っていた。この日、参加された多くの武道家諸氏も同じ気持ではなかったか。
 田中光四郎さんのムジャヒディン(アフガンゲリラ)として銃をとったことは、“平和ニッポン”に浸る多くの武道家の喉元に刃を突きつけ、そして、武道精神を全うしたような“たったひとり”の難民支援活動は「武とは何か」を考えさせたはずである。

 武道家こそ、我が身を捨て、国、民族の為に奔走する国士たれ! この創刊以来の『武道通信』の通奏低音の弦を、いま一度、激しく叩いてくれたのが「アフガンのサムライ」であった。主に感謝。

 弥生之十四日 

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四十五話  タイトル CRAZY TANAKA

 先日、田中光四郎さんにいつものホテルでお会いした。お元気そうで、またお忙しいそうだ。
この日の前日、民主党の議員20名ほどに招かれ、アフガンの話をしてきたという。
その感想を二言、三言聞いた。「ありがたいことです」――しかし、そう云う言葉にうなずけない、悲しげな表情が見える。さもありなんと思う。

 田中さんの手記を読んでわかるのだが、田中さんの<アフガン>は、己の死と生とアフガンの人たちの死と生を共有した<かの地>である。自ら死を賭して踏んだ地である。
 いまアフガン支援を声高に云う政治家の輩の<アフガン>とは違う。この体温差を田中さんは目をつぶろうしている。アフガンの本当の姿、心を知ってもらうために。また小麦粉を届けるために。しかし、田中さんには見えてしまうのだろう。

 国会議員、NGOもしかり、これら人達の支援が、己の身の安全圏から正義を成そうとしていることを。ゆえに学校を建てるから幾ら必要である、募金を……と。無意識に支援、援助の熱意を金の額で測ろうとしている。 アフガン支援に社会正義の満足を、選挙での票を求める人たちの素顔を見てしまうのだろうか。
 
 田中さんは、こう云いたいのだろう。支援物資はあり余っているではないか。それを一番、必要な者のところに危険地帯だということで届いていない。
 NGOはボランティアの限界がある。アメリカ軍後衛の自衛隊が行くべきではない。自分なら行ける。いま一番必要な支援は、金でも物資でもない、命を賭して危険な地区へ食料をテントを毛布を届けることだ。それをこの<クレージー タナカ>にさせてくれ! ――そう叫んでいるのだ。

 難民キャンプへ救援物資を運ぶまでの11月12日から24日までの手記を武道通信HPのWeb武通に2月7日、掲載した。武道通信17巻で掲載した続編である。

 「今やらなければならない事、将来やらなければならない事を。CRAZY TANAKA、しっかりと
見据えよ。今こそ見直さなければ、今こそ始めなければ時は流れてしまう」
 腹の底から絞り出たような手記の中の一文をサブタイトルに掲げた。これはアフガンのサムライが自らに発した言葉であると同時に、我ら日本人に投げられた言葉でもあるからだ。

 如月之十一日(建国記念の日=旧暦の大晦日)

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四十四話 題して新年射会の扇

 煙管のけむりも<禁煙期間>が大分続いた。当方の事情と角田主(あるじ)の事情が重なったこともあるが、今日、煙管でもふかそうと思い立ち、きざみ(ネタ)を詰め込むと、いつも「アフガンのサムライ」になってしまう。同じ銘柄ではと思いつつ火が、いや日が流れた。
 で、「アフガンのサムライ」は本家の茶店の一服としよう。併せお読みいただけたら幸いである。

 で、何をふかそうか……。今年初めてであるゆえ元旦のことからにしよう。
 
 我が弓道道場の恒例の新年射会が元旦の午後から行われた。女性陣は通常の道着でなく皆、華やかな着物姿である。昨年入門した新人たちは先輩に襷(たすき)掛けを大慌てで教わっている。自然、新年の華やかさが道場に溢れる。
 昨年の小輩、どこかで自慢したが、新年射会一番の大手柄、金的“一番乗り”を果たした。
 今年はこの一番手柄は逃したが、扇(=せんす)を射止めた。安土(あづち)に扇を広げ、それを射た者が扇を手にする。道場主の北島芳雄会長の新年の挨拶が一筆書かれている。
 これも自慢話であるが、この扇、当たれば穴があくので実際には使いものにはならない。しかし、小輩の矢はなんと扇の元の、その骨(竹)の間に突き刺さり、二本の骨の間に土が突いただけでの完全無欠の扇を手にした。平家の女官が船の上に掲げた日の丸の扇の元を射て、その日の丸の扇がひらひらと海上に舞ったという那須野与一の腕前に匹敵する。(何をおめでたいことを云っとる。正月も、小正月もとうに過ぎたというのに)

 <おめでたい>話はこの辺にして、オイゲン・ヘリゲルの「射における武士的芸術」にしよう。新刊十七ノ巻に掲載されている。
 これはあまりにも有名な昭和11年にベルリンで行われたヘリゲル博士の講演である。ヘリゲル博士と阿波研造の兄弟弟子であった安沢平次郎十段の弟子である北島芳雄会長が、弓道にはまったく無知な翻訳の部分を補足し、原文に忠実な題として「射における武士的芸術」とした。(HP新刊案内に詳細が)

 小輩の父親は、この伝説的弓道家、阿波研造に会っている。(あれ、また自慢話になった)
 当時の中学時、父は弓では鳴らしたようだ(本人談で当てにはできないが)。就職先の仙台支店勤務になったところ、この支店長が大の弓道好き。で、弓の全国レベル(これも本人談)が入社したということから、社員に弓道を奨めるため弓道場を造ることになったそうだ。父は支店長から阿波道場へ行き、安土の造り方を教わって来いと云われた。そこで阿波研造に出会った。直接、指導は受けたことはないと云っていた。受けたと嘘でもついてくれたら、また自慢話が出来たのだが(笑)。
 
 日本の弓=禅となり、ヨーロッパ、世界に発信したヘリゲル博士の功績は大きい。いまなお海外に弓道家を育ているのはヘリゲル博士であると云って過言ではない。我が道場がヘリゲル博士と縁があるこを知って訪ねてくるフランス、オランダ、オーストリラの若者は、皆一様にヘリゲル博士の「日本の弓術」をあたかもマルコ・ポーロの「東方見聞録」のように読んでいた。日本の弓道へ憧れを抱き日本の土を踏んだのだ。
 確かに和弓=禅はヨーロッパの知識人には魅惑的なものだったろう。しかしヘリゲル博士はいう。
【禅の雰囲気とは関係の浅いものであって、まったく異なった条件の下に現れ得るのであり……その根は、第一に日本の「民族精神」の中に求むべきのものであり、しかもこれは「自然」と「歴史」に規定され、仏教と接触しない前にも既に力強く働いて居たのであります】

 この講演は翻訳という仲介があることもあるが、ヘリゲル博士の哲学的解釈は難解である。北島会長はドイツ語博士でも、ドイツ語が堪能な知識人でもない。ただ安沢先生から聞いたヘリゲル博士、阿波研造に対する敬愛の念から必死にドイツ語がわかる弓道家達からアドバイスを受け、この講演の云わんとしていることは和弓=禅でなく、武士的芸術だと導き出した。
 さすがである。これは掛け値なしで自慢できることである。

 射会から帰宅すると昨年末逝った義理の姪の子が父親と居た。
 この手柄の扇はその子にお年玉と云ってあげた。まだ一歳半の子に那須野与一ばりの自慢話をしてもしょうがない。これはこうして頭を叩くものだ、と手に持たせ小輩の頭を叩かせた。子は大はしゃぎで叩き続けた。

 睦月之二十二日 

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四十三話題して「アフガンの歴史」

《アフガニスタンはシルクロードの重要な中継点であり、文化の往来で東西文明の十字路ゆえ、アレキサンダー大王の大遠征からはじまる紀元前数世紀前から東方、西方、また南方。北方から異民族に攻められたのがアフガンの歴史であった。しかし、それは同時に、侵入した圧倒的勢力の異国人を、最終的に打ちのめしてしまうアフガンの歴史でもあった。侵略と抵抗がアフガンの歴史であった。
 ジンギスカン、インドのバーブル帝国、そして近代、現代になりインドを植民地としたイギリス、南下へに野望を持つロシアから侵攻される。イギリスとは1839年以来、1919年の第三次戦争まで続いた。1893年、イギリスによって、当時の駐在官の名をとったデュランド・ラインと呼ばれる<国境線>が
パシュトゥン族が住む土地に引かれた。いまのアフガン、パキスタン国境線である。》

――田中光四郎さんが14年前に書いた『照準のなかのソ連兵』の中の「アフガンの歴史」の章で知った。田中さんはソ連兵と戦うアフガンゲリラ(聖なる戦士)に身を投じ、彼等からその歴史を知らされたのだろう。
 この歴史を見つめない限り、21世紀初頭のアメリカの侵攻の真実は見えない。アフガニスタンの悲劇もまたしかり。田中さんの手記に流れる通奏低音はこれである。

 先日、当HPの主、角田さんとのお会いした。その折り、田中光四郎という希有な現代のサムライの存在をもっと多くの人に知ってもらおう、そして田中さんのアフガン難民救済の何某のお手伝いをしたい、そう話し合った。
 
 角田さんのご好意により、『照準のなかのソ連兵』と不二流体術の二代宗家である田中さんの入門編『必殺の古武道体術』(ビデオ)を提供していただいた。田中さんに対談論客の『武道通信』十五ノ巻ととも合わせ、各セットとし頒価で販売することとしました。
 『武道通信』掲示板に詳しく掲載されております。皆様のご協力をお願いいたします。
 
隣家の柿木に残された二つの実を雀やめじろがついばんでいる。もうそんな時季である。
 田中さんが今回訪れた難民キャンプはもう雪が降っていただろうか。2日前、帰国したという電話をいただいた。近日、お会いし、話をお聞きしたい。
 
                                 霜月之二十九日
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四十二話題して「照準の中のソ連兵」
 
 田中光四郎さんが再度、パキスタンへ向かった翌日、当HPの主(あるじ)、角田さんとお会いした。
 池袋方面に私用があり、久しぶりに角田さんにお会いしたくなった。
 池袋駅に降りたとき西武デパートの東口に出てしまった。日本武道具は西口である。ふと思い出し笑ってしまった。前回、池袋駅前に来たのは、あの選挙の最終日だった。西武デパート前で街宣車からほんとに最後の演説をしたのだった。その残照が足を東口に向かわせたのだと思ったからだ。いや単なるボケの始まりかも知れぬ。

 話は当然、田中光四郎さんのこととなった。いま武道通信HPで田中光四郎さんの手記を掲載している。これはネット(Web)で読む「PDFで購入」という購読料が派生するものである。角田さんも日本武道具が保管している、わずかな残部の田中さんの本とビデオを田中さんのアフガン難民支援の何某の手助けにできないものかと言う。武人と呼べる希有な存在である田中さんを少しでも多くに人に知ってもらい、まだまだつづくであろう、このムスリムのテロとその報復戦争を日本の武道好家がどう考えていくかの、一つの道標にしてもらいたいと言う。

 池袋駅から日本武道具店への途中、芳林堂書店に寄った。店頭にイスラム、タリバン、オサマ・ビンラディンの関係書が並ぶ。良質なものから便乗の粗悪なものもある。しかし、かつて銃をとり、ソ連からアフガンゲリラと呼ばれた民族解放戦士と共に戦った日本人のことはカケラもない。
 田中光四郎・著『照準の中のソ連兵』はサムライの武勇伝ではない。主役は、主題はアフガンの人々であり、歴史であり風土なのだ。読んでいただければわかる。そこに我々と同じ、己の民族への尊厳と郷土愛が書かれている。

 角田さんと何某の事を具体化しましょうと話し合い、別れた。
 その日の私用は義理の叔父の見舞いだった。叔父は病院で薬漬けされ死にたくないと退院し、自宅にいた。その前日は、一年近く癌治療している義理の姪を信濃町の病院に見舞った。彼女も、もう限られた命なら家に帰ると医師に告げたという。
 安全地帯の日本でも死は身近にある。どうせ死ぬならテロリストとして爆弾を抱えるか、テロの報復として銃を取るか、いずれにしても<戦場>で死にたいものだという思いが、老人ボケ予備軍化した脳に飛来する。敗戦後生まれで一度も戦闘のため銃をとったこともなく、疑似戦闘、戦争体験のない者の<ないものねだり>か。
 
 帰路、なぜか『武道通信』の今巻の「武道の中の日本」で松岡正剛さんが書いていた文を思いだした。
 「現代の武道は、何も語らないかに見える一本の日本刀に、万事を読みとる力とともに蘇生させるしかなくなっているのかも知れない。」

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四十一話「父の行方」

 前回、「神風特攻隊慰霊祭」について触れた。
 参列後のちょっとした感想を「武道通信かわら版」で綴った。
 まだまだ綴りたいことは山ほどある。次巻で掲載させていただく。
 そう、こんな言葉も妙に胸につかえ残っている。
 「人より頑張ったことが人より早く逝ってしまったんだと思います」
  四歳のとき、お父さんがフィリピン沖海戦で戦死された鈴木さんと話す機会があったとき、聴いた言葉だ。脈絡もない言葉だったが、その意味はよくわかった。
 女手ひとつで五人の子を育てた母から、昔、「多摩」という戦艦に乗っていて、フィルピン沖で沈んだということだけ聴いていたという。それも父からの最後の手紙に書かれていたらしく、それ以上のことは母から聴いていない。母や私たちは生きることで精一杯で父の最後を詳しく知ろうという事をもなかったと。いま定年退職し、父の事を知りたくなった――そんな話をなさった。
 
 奇しくも、私が持参していた本に「多摩」が見つかった。
 10月20日、呉を出航した小沢艦隊の中の軽巡艦だった。小沢艦隊はレティ攻撃の主力、栗田艦隊が突入しやすくするための囮任務だった。
 エンガノ岬に米第三艦隊の全艦をよびきよせ、その任務を遂行したが、この慰霊祭の57年前の10月25日、午前8時頃、五波の攻撃を受け全艦、全滅させられたとわかった。
 
 この慰霊祭に参加したのも何かの因縁だったのでしょうかと、鈴木さんは語った。この本を持参しただけでも、今回の慰霊祭に参列した甲斐があった。
 
 前回お知らせした田中光四郎さんの手記は「草莽 杉山奮戦記」に移行し掲載しております。
 
平成十三年 霜月之一日

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四十話 神風特別攻撃隊

 一昨日、帰国した田中光四郎さんにお会いした。“アフガンのサムライ”は沈痛した面もちでアフガンの悲しみ、そして憤りを語った。その折りのことはHP掲示板(無銘刀)に書いた。お読みいただけたら幸いです。
  
 話は国と国で“正義”の戦争をしていた第二次世界大戦時に飛ぶ。
 昭和19年10月25日、マニラの北方約100キロの地マバラカットから午前7時25分、神風特攻1号機敷島隊が飛ぴ立った。今年も25日、この地で慰霊祭が行われる。縁あって参列することとなった。
 
 特攻は作戦として<外道>なのであろう。しかし、敗戦直後に生まれた少年にとって映画で観た特攻隊員は、宣戦なき卑怯な奇襲の汚名と母国の敗け戦の悔しさに一矢報いてくれた英雄であった。もし特攻隊が無かったら、少年は時代劇映画のサムライの矜持を信じなかったかもしれない。
 NYセンタービルへの激突シーンを何度も見せらていたとき、イスラム原理主義者と呼ばれる者たちの少年のことを思った。
 余談である。

 この慰霊祭は昭和49年、マバラカットの小学校の教師ダニエル・デイソン氏が関行男隊長が率いる敷島隊、谷暢夫、中野盤雄、永峰肇、大黒繁男の5人の特攻隊員の愛国、犠牲的精神に動かされ、旧飛行場跡に「神風の碑」(日比友好の碑)を作ったことから始まった。
 しかし平成3年(1991)のピナツボ火山の大噴火で祈念碑は泥流に埋もれてしまった。そのを惜しんだマニラ在住の日本人有志が4年前、碑の再建運動を起こした。自由連合の徳田虎雄代表らが協力し、慰霊祭が行われるようになった。
 特攻1号機敷島隊が飛ぴ立った時間に、フィリピン空軍軍楽隊が日・比両国国歌を演奏、さらに日本からの参列者による『海ゆかば』の斉唱が行われるという。しかし、いまだ日本大使官からの参列はないという。日本の政治家でも参列したのは徳田氏だけである。
 
 昨夜、アメリカの特殊部隊数百人がタリバン解体の為、アフガンの地に降り立ったというニュースが伝えられた。
 田中光四郎さんが語っていた。大部隊を地上に投入してもソ連の二の舞になると。アメリカはそれを充分承知なのであろう。しかし、アメリカが最も恐れている“宗教戦争”となったら、アメリカ本土へのテロは激化するだろうとも。

 神無月之二十日
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                煙管のけむりの 三十九


 題して「十五夜に思う」

 本日は十五夜であるが、あいにくお月様は雲の中だ。
 郷里の秋は霊峰富士の頂の初雪とともにやってくる。一週間前に降ったと聞いた。昨日、北アルプスの立山連邦に薄化粧したそうだ。
 
 昨日は忙しかった。弓道道場の月例会(大会)、来客と私的なものも含め、「よう!日本一」と長嶋監督が引退し、「よう!USAイチバン」とイチローが91年ぶりに大りーがー記録を破り、「よう!世界一」と高橋直子が世界記録をつくった。

 猪熊功氏の訃報もあった。自殺だという。“文弱の徒”の江藤 淳氏でない武道家が……と、意外な気がした。その昔、『格闘技通信』で猪熊氏に一度、インタビューしたことがあった。
「山下泰裕は勝つ柔道ではなく、負けない柔道」――相手の懐に入らないと一本を取れる技はかけられない。それは相手にも技をかけさせるリスクを負う。
「最近の日本人選手は畳の生活をしてないから弱い」――腕力の強い外人選手に立ち向かえたのは、座る文化を持つ日本人の下半身の強さだった、そんな意味だった。

 昨夜のNHK「北条時宗」で、時宗が幼い息子に弓を教えていると、奥方が人殺しの武器を子供に教えないでくださいと愚痴るところがあった。時代考証というものは着物や舞台装置だけではあるまいに。脚本家が女性であるせいであろうか。ホームドラマ的仕掛けが鎌倉武士像を歪(いびつ)なものにしている。
 鎌倉武士の子らは、ケガをしようが不具者になろうが、弓と馬術を徹底的に叩き込まれた。強い弓を引き、落馬しない術を身につけることが、生きるための最低条件だからだ。それが武士の親の努めである。
 
 博多の商人、謝国明に鎌倉武士と対極させ、“平和主義者”としての商人道を語らせる。時宗の兄にも、その道を歩まさせ、「戦争と平和」を、このドラマの核としているようだ。原作は読んでいないが、この二元論は根深くあるが、鵜呑みには出来ない。
 平家から始まり、戦国の武将達も大陸貿易で得た利益で時代を切り開いてきた。薩摩も長州も大陸との“私”貿易の利益があったから明治維新の首領になり得た。武士=被商業主義=被平和義者という安易な構図を持つのは、大河ドラマらしい。

 筋がつながらないけむりをふかし続けている。

 田中光四郎さんが角田さんのところへ「アフガンへ行きます」と挨拶に来たことをお聞きした。
 田中さん、もうアフガンの地に立っていることだろう。昨日、「茶店の一服」に田中光四郎さんのことをふかした。

 角田さん、いま行われている「論客対談」の小松さんと佐々木さんの「零戦談議」愉しみにしていましたね、いかがですか。

 神無月之十五日

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                煙管のけむりの 三十八



 題して「手前味噌」

 当HPの主、角田さんは1ヶ月ほど赤道周辺を放浪してきたという。貴重な経験をなさったことだろう。いつか、ゆっくり体験談をお聞きしたいものだ。
 「茶店の一服」でのサンフランシスコ講和条約の話の続きをふかそうと思っていた矢先、例の「同時多発テロ」がラジオから伝わった。 最近、テレビとは無沙汰していたが、この夜はめずらしく朝4時まで付き合った。

 昨日、『武道通信』の愛読者からメールをいただた。(ちなみに「愛読者」とは、メール、手紙等で、なにがしらの交友があった、またある読者。「読者」とは、まだ交友がなく<顔>が見えない方とかってに決めている)

 愛読者の妹さんがニューヨークの大学にいて、安否が気になっていたが、本日(12日)、メールが届いて安心したとあり、ついては参考までに妹のメールを送りますとあった。

 アメリカ人、それもニューヨークの人でも、その感じ方はいろいろあると云う、そのメールを読ませていただいて、次巻の嘉村 孝−戸部マナマリア対談の、こんな一節を思い出した。
 長く新聞記者として海外特派員を経験した戸部さんは、日本の記事、報道はアメリカ人は、メキシコ人は、韓国人は、中国人はと、その報道はみな画一的だが、アメリカ人でも韓国人でも、みな一人一人違った意見をもっているのだと云い、それは記事が個人の責任で書く、署名記事の習慣がないからだと云い、嘉村さんがマスコミ人はお家大事の武家でなく、個人の尊厳を持った武士になれと云う。

 記者クラブというのは横並びの談合サークルであり、それが取材対象との馴れ合いを生み、売らんかなの商業主義が内省の権力争い利用される。戦前の戦意高揚を煽った新聞は、これにはまったのだった。小泉構造改革の監視役を自認するマスコミこそ、真っ先に構造改革をなすべき対象である。
 
 日本の新聞、マスコミの正体がいかなるものかも、その因はどこにあるのか、奇しくも次巻の各対談で語っている。
 司馬遼太郎の「この国のかたち」が“正なるかたち”であるならば、その裏にあるこの国のかたちの“負のかたち”が、次巻対談で見えてくる。
 
 サンフランシスコ講和条約の話でも、米国を震撼させたテロの話でもなく、手前味噌の話になってしまった。

 平成十三年 長月之十三日
 

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                煙管のけむりの 三十七


題してパールハーバー

長く“禁煙”しました。
 選挙運動も終わり、街宣車でなく自前の車で郷里へ帰った。
 着くとすぐ海パンにTシャツ姿で浜辺へ向かい、海に飛び込んだ。薄曇りで尾瀬崎は見えなかった。
 しばし海面に漂っていた。岸から上がり、今度は千本松原の蝉しぐれを身に浴びる。
 シャー・シャー・シャー・シャーと天と地から沸き上がってくる。国政選挙立候補という奇策を企てたこの夏も終わった。そう、終止符を打つ思いで、蝉しぐれの松原を抜けた。
 
 さて、騒々しい8月13、15日も終わって、17日、次巻の前田日明編集長対談が行われた。論客は兵頭二十八さん。以前からこの組み合わせを機していた。初対面は公示前の決起大会に共に応援弁士をお願いした折り済んでいる。
 編集者の愉しみは逸材に出会い、原稿を依頼していくなかで、今の世の常識を壊していこうとする共犯者関係が生まれところにある。プロレスへの“差別撤回”、格闘家の“社会認知”……そして武力を日陰者から日向(ひなた)に出そうと試みる。
 
 兵頭さんは日本人の戦争観に異議申し立てをし続けている。古今東西、武力とは何かという視点を持っての自論だ。まだその声は広くは届いていないが、思考停止したような大新聞を読まず、何でもその場限りのお祭り騒ぎにしたいだけのテレビを消し去れば、彼の云わんとすることが耳に届く。
 
 氏の近著『パールハーバーの真実』(PHP7月刊)は、技術戦争としての日米開戦を分析したものだ。
 真珠湾で大勝したのに、なぜミッドウェー海戦で大敗したのか? 真珠湾の奇襲作戦が成功したのは、航空母艦から発進させられた艦上攻撃機と、それから発射された航空魚雷の三点セットだと云う。山本五十六はミッドウェー海戦では、自分に馴染みのないこの三点セットを捨て、自分が創設した“空の要塞"である空中艦隊に駒を変え大敗を喫した。自らが育てた「陸攻」の機上で戦死した――。
 これを1頁目に日米の技術戦争の細部にわたる検証から導き出されたのは、当時の日本人は現代戦争に向いていないところがあった……それは何か。
 
 この自著を決起集会の折り、兵頭さんからサイン入りしたものを戴いた。隣りの席いた前田日明がタイトルを見て「オオ!」と叫んだので渡すと、食い入るように読み始めたので譲ることにした。
 後日、本屋で探したが二店売れ切れで三店目で見つけた。トルーマン大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたという長年の説を事実として検証し話題を呼んだ訳本が出、ろくでもない映画(観てはいないが)も封切られ、パールハーバーものがブームになったことも影響あろうが、でも、ブームに乗った企画のようでいながら、ミーハー発想とは無縁な硬派な「兵頭二十八」に、このような専門的視点からのものを書かせたPHPの編集者は見上げたものだ。名著とは編集者の勇気で生まれる。
                                                                   葉月之十九日

 

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                煙管のけむりの 三十六


題して 「いつの日か、ネット選挙運動」

 8日、池袋駅東口で街宣車での演説のための予行演習なるものを試みた。
東京選挙区の小林いたるさん(東大卒、プロ野球元ロッテ選手)の車に便乗してのことだった。
審査員の批評は「声は小さい」「語りかける、というのでなく。スローガン的なことを連発しること」とのお言葉をいただいた。
たしかにマイクで館内で話した経験は多少あるが、騒音が満ちあふれている街頭では品よくやっていられないのである(笑)。

 まあ、初の街頭演説は採点30点? で無事終わった。
その足でこのHPの発信基地である日本武道具へ向かった。明日にでも出向こうかと思っていたので渡りに船(街宣車)であった。
12日公示からの街宣車行脚は、事務局のあんうんの意向もあり、野袴と筒袖の<民族衣装?>でとおそうと思っていた。で、もう一着、欲しかったので角田さんを訪ねるつもりだったのだ。

 日本男児は剣道着が一番似合う、という意味のようなことをどこかでふかした記憶がある。
日曜剣道の輩は、藍染めが好きなのである。小輩に似合うかどうかはわからぬが……。
藍には消毒効果がある、と昔聞いたことがあった。またいろいろと傷等に効能があると聞く。
古人は、色合いがよいから剣道着、稽古着を藍染めにしたのではなかったのだ。しかし、実用性、機能性が優れていると美が生まれる。日本刀、サムライの城もしかり。股度姿も……。

 二着を日替わりに着ても、洗濯は欠かせないだろう。いやいや、朝8時から夜8時まで、街宣車で絶叫しまくるのである。そして握手――これが一票の近道、これが選挙だ! と選挙運動のベタランの方は皆、口を揃える。

 小輩、立候補要請の話を伺ったとき、二幾の愛機(PC)の前で、有権者との<対話、論議>を想像した。縁故、卒業校、企業、宗教、労働組合的投票でない、立候補者、個人と有権者、個人の政策合意による投票がネット選挙運動では可能だと、夢想した。そのための捨て石になろう、と決めた。

 夢であった……。いやいや自由連合から拒否されたわけではない。しかし、たった一人では異端である。もし2,3人、同じ戦略を試みようとする者がいたら認知され、街宣車不用が実現しただろうが、異端は団結戦では不調和音になる。
 よし、とにかく従来の街頭戦線にも参加し、ネット戦線も、疲れた<老体>に鞭打ち、夜半に頑張ろうと、これまた決めた。幸い、『武道通信』のWeb編集員が協力してくれている。

 必ず来るだろう、その日――動員要員でなく、ムードで投票するのでもなく、意志ある個人が政策による投票をより可能にするため、街頭を一瞬で通りすぎる声でなく、またマスコミのおざなりのアンケート回答でなく、早朝だろうと、深夜であろうと、立候補者の所信をじっくり聞け(読め)、なおかつ有権者との意見交換を聞け、当人も質問できる選挙運動期間――を夢みて。

 目下、『武道通信』HPに「杉山ひでおの主張」また「草莽・杉山奮戦記」(日記)では所信を綴っています。ぜひ、ご覧になっていただき、ご意見ください。また友人の皆様にも、訪れていただくよう、お声をおかけください。
  
 平成十三年 文月之十日
 

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                煙管のけむりの 三十五


    題して「武道家が食えない日本」
 
 先ほど『武道通信』HPの掲示板に参議院選挙出馬に至った心模様をふかして来た。
 少々叙情的だったかな、と苦笑する。まあ、あれはあくまで小輩の心の奥に潜む通奏低音である。
 ベースボール・マガジン社在社当時、多くの武道の協会関係者たちにお会いし、大会取材をしてきたことの経験から、武道(精神)の興隆は、川下、波打ち際とでも云おうか、《町道場が食っていけなければならない》という結論を持った。要は剣道、柔道、弓道道場、古武道場があらゆる町で目につくような風景である。協会会員数の増減が理事会の一番の関心事でないような健全な光景である。

 在社中、弓道家の村川平治さんと本の出版を機にいまでもおつき合いいただいている。そして以前、村川さんが云っていたことが、武道の興隆を考えるときの小輩のキーワードになっている。
「いますぐでも、弓道場を作れる土地と資金があれば、弓道指導に専念したい。村川流を伝えたい」。それが偽らざる言葉であることは、本の制作のため何度もお会いしていたからよくわかった。
 かつての道場はそうであった。そのような思いに焦がれている剣道家、柔道家、また古流武道家が全国の数多(あまた)おられることだろう。

 長年のプロレス、格闘技の雑誌編集、武道の書籍編集を通し、おのおのの団体の衰退の大きな原因は、マネージメントに弱点がある、ということだった。優秀な指導者、素質ある選手が育たぬまま、巷(ちまた)に埋没していく。

 村川さんが道場を持てるようなマネージメント・システムを作ることである。現実的問題として、とりあえずこれを国家予算で賄い、それを維持、管理する部署を作る。軌道に乗ったら、国は手を離し、道場主の独自の努力で経営、道場維持を任せる。かつて武道が国家教育に粗(から)め取られ、武道精神にゆがみを来した経験を持つ。

 村川さんはイギリス弓道連盟から指導の依頼をたびたび受けている。「村川さん、日本弓道連盟の束縛があるなら、思い切ってイギリスとかヨーロッパで道場を開いたらどうですか、日本では食えないですけど、海外なら食えますよ」と、けしかける。その言葉に、村川さんがしばし沈黙するのは、いかに武道本家、ニッポンの武道土壌が貧困である証であるからだ。
 この度、編集者風情が被選挙権を行使した理由は、このような武道家たちの思い、志を<編集>し、国政の場で実現させようという魂胆があるからである。
 これは通奏低音でなく、「武(選挙)で大事は勝つこと」の精神である(笑)。

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                煙管のけむりの 三十四


題して日本を変える

 新保守主義が急速に<日本の常識>になるぞ、こんなことをつぶやきながら、小泉自民党新総裁の記者会を観ていた。
 武道通信十四ノ巻の論客・松本健一氏は、新保守主義の台頭で右翼の存在意味が無くなったと。それに対し、一水会の木村三浩氏は近著「右翼はおわってねぇぞ!」で新右翼の存在意義を提示した。両書を読んでいただければ幸いです、ここで浅学の徒が、この両論を紹介しても蛇足になる。
 
 小泉新総裁は云う「自民党を変えることで、日本が変わる」と。選挙で「日本が変わる」だろうかと、かねがね首を傾げるのだ。自民党は地方議員の選挙で変わるだろうが、いま問われている、日本が変わるということは民主主義の数の論理だけではないだろう。そこには他者の血が流れ、己が血を流すような残酷な蹉跌があるのではないだろうか。歴史で数少ない無血革命にしても、その前夜、多くの血が流れた。そんな時代錯誤のような事を云うなと云われると、二言はないが。

 木村三浩氏と酒宴での折り、氏が右翼に求められるものは何でしょうか? というようなこと聞いてきた。かなり呑んでいたので記憶は曖昧だが、その質問の前、新保守主義の台頭のことを話していたと思う。私は「殺気」と答えた。新保守主義と云われる現象には殺気が感じられない、そう常々に思っていたからだろう。人殺しの殺気ではない、変革の殺気である。そのとき氏は酒など呑んでいなかったように真顔になり、深く頷いた。
 いま思うと外連味(けれんみ)な事を云ったもんだと、穴があったら入りたい。ただ、この人なら外連味なく云えるだろうと思う方がいる。

 いま、当Budoshopの主、角田さんと武道通信HP「Web論客」で昔話しに花を咲かせている。角田さんが語っていた「アフガンのサムライ」と云われた武道家、田中光四郎氏である。角田さんの3/28日に書き込まれたものを読んでいただければ、田中光四郎氏の輪郭がおわかりいただけるだろう。

 田中氏の著著『不二流体術』(壮神社刊)の広告を武道通信に掲載した折り、版元からいただいていた。アフガニスタン民族戦線の義勇軍として参戦し、旧ソ連兵と戦っていた日々、戦場で書き記していた日記代わりのメモが載っていた。氏は激戦の中、和歌を詠んでいた。その一つに「死に顔の白きに哭けて草枕 抱き起こす身の未だ温かきに」という歌があった。それがなぜか強く印象に残っていた。
 20歳の若者が被弾し、片足膝から下が飛ばされ2時間近く生きていたが、医療器具、薬もなく手のをほどこしようもなく、ただ彼の名を呼び続けた。助けることが出来なかった無念さを詠んだものだ。

 世界の警察に守られた平和日本で、投票箱に一票投げ込むことで変わる日本とは? ただ景気さえよくなれば「日本は変わった」と安堵する一票になってしまうのではと危惧する。バブル経済の所業のあさましさは、半世紀過ぎ、先の大戦を生き延びた者が「抱き起こす身の未だ温かきに」を忘れ去った故だ。

                                            卯月之二十五日

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                煙管のけむりの 三十三


題して安沢東宏(平次郎)十段   

 事務所から100メートルほどに「射徳亭」という名の弓道場がある。前を通っても一見気がつかない。二人立ちの小さな的場であることもあるが門の脇の木立のせいもある。「射徳亭」と命名したのは安沢東宏(平次郎)十段であった。昭和35年から亡くなる45年までここは安沢範士の私設道場であった。
 小輩が入門している国立弓道道場の北島芳雄会長が師と仰ぐ安沢範士に提供したものであった。七、年ほど前(と思うが)に入門した小輩は当然、面識はないが、国立弓道場には安沢範士の遺影や、安沢範士が死期を悟り鎌倉円覚寺の須原耕雲和尚、北島会長らと阿波研造下の兄弟弟子であったオイゲン・ヘリゲル博士の墓に参った折りの写真が飾られている。また北島会長が我々初心者に指導するとき、「安沢先生はこんな風に言っていた」とよく語っていたので、身近な存在であった。
 
 先月、安沢平次郎十段の33回忌の追悼射会が行われた折り、北島会長が昭和45年に刊行された安沢平次郎十段の著書『大射道』を再出版された。参加者に贈与されて、この著をはじめて知った。
 的中率を高めたいと思っている姑息な輩は、真っ先に目次から「弓道十節解論」を見つけ、頁をめくる。うむ、十節? 二節多い。「射法八節」は弓道を嗜む者の、初心者から高段者まで永遠のバイブルである。三、四段までの昇段の筆記試験は必ずこの八節の中から一門、「射法八節の「足踏み」について述べよ」とか出題される。 
 どこで二節多くなったのか。よくよく見ると「大三」と「弓倒し」が独立の節とされている。八節では、大三は五節の「引き分け」の初動作に入れられ、弓倒しは最後の八節「残身(心)」の最後の動作として添付されている。
 別に取り立てて騒ぐこともない。<異節>を唱えているわけではない。安沢師範の頃は十節だったものが、その後、全日本弓道連盟がこの二節を前後の節に入れ、八節と定めたのかも知れない。

 安沢範士の十節を読んでみた。戦後派が読むに、いささか古風な表現であるが、安沢範士流十節の基調となすものは呼吸である。まだ未熟者が読んだのから恐縮して言うのだが、安沢範士の十節に通じることは、動作の流れに呼吸を大事に考えていると察した。すると「大三」「弓倒し」を別節として独立させたくなるだろうと一人合点がいった。

 4年前、ベースボール・マガジン在社のとき村川平治教士七段の『克つための弓道』を企画、制作した。当然、村川氏の八節を表してもらった。我が射に役立てようと取材の折り、メモしたことを思い出しながら的場に立ったことが思い出される。氏は特に「胴造り」と手の内(弓を握る手)を意識していたように思われる。
 一家言ある方はそれぞれに「私の八節」があって当然である。それが流派の元であるからして、それを云々するのではない。ただ古武術が現代に伝えられていく課程で、当時の人には当然の理であることが、それ以降、わかりやすく伝えるためにか、細部の解説、解釈が増え、基本の基が省略されていき、いつしか忘れさられてしまう。そんなことを古武道研究家に聞いたことがある。時代が急激に代わり、身体の使い方も変わっていく中で、次の世代に伝授する難しさがある。
 
 安沢師範は明治21年生まれである。明治生まれの武道家はほどんどいないだろう。彼らが伝えようとしたものは何かと、<春の短い夜>睡魔と戦い読破する。

<北島会長と相談し、この著を少しでも多くの弓道家に読んでいただこうと、弊社、杉山頴男事務所で販売することとしました。詳しくは武道通信ホームページ「掲示版」に。>
                                    
                                    卯月之五日

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                煙管のけむりの 三十二


「自分の国を知ることが、国を愛すること」


 ひめ丸の引き上げが可能だと云う。その引き上げ方法が報じれれていた。
ふと戦艦大和を引き上げることは出来ないだろうかと、そんな切ない思いが過ぎった。
 太平洋ソロモン諸島やガダルカナル島など、太平洋の島々には、まだまだ多くの戦死者の遺骨が野ざらしになって、まだ祖国に帰れないでいる。
 ご遺族、また遺族でもなく遺骨収集に参加しておられる人たちもいる。その方たちは、えひめ丸の引き上げをアメリカに迫る世論を、どんな気持で聞いているのだろうか。
 これはアメリカに迫ることではない、あくまで日本自身の責任である。
そう云う輩も、かつてグアム、サイパンへ観光旅行した折り、空港へ着陸するとき、かすかに過ぎったにすぎない。もう忘れてしまおうとする、多くの日本人の一人だった。
 
 そう忘れないでいる人たちがいることさえも、見て見ないふりをしてきた。そんな人間が、この機に乗じ、えひめ丸の引き上げを声高に叫ぶのも気がひける、そんな自虐な気分が襲った。
 
 <日本軍があんな遠い島でいったい何をやっていたのだろうか…>
10年前、バリ島に気分転換に訪れた、平均的戦後世代の若者が<直立不動で私に向かって敬礼する老人>に出合った。
<老人は日本人である私と会えた嬉しさに目に涙を浮かべていたのだった>
 そして<日本軍があんな遠い島でいったい何をやっていたのだろうか…>と、初めて考え、彼は、老人の涙の意味を知りたくなった。
<そしてついに発見した。あの老人の目に浮かんでいた涙の意味を。それは『バリ島の父』として、バリ島民の古い記憶に留まる日本人、三浦襄であった。>

<三浦襄が私に教えてくれたのは、愛国心とは「持つべきもの」ではなく「知れば持たざるを得なくなるもの」なのだということであった。他人からの強制や押し付けでなくとも、それを知れば心を改めねばならぬようなことがある。>
 日本軍が南の島でしたことは教えられてきた蛮行ではなかった。このような日本人がいた。
<人を愛することを死ぬまでやめなかった先人たちの痕跡だ。稲穂の向こうで敬礼していた老人は鮮烈な印象を残し、「戦後教育」という呪縛から私を解き放った。それは私が〈日本人〉で良かったなと思った、最初の瞬間だった。>

 次巻「床几」<愛国心―三浦襄>に掲載される神崎夢現氏の原稿を引用させていただいた。
氏は、特攻隊戦没者平和祈念協会が行う平和観音法要をお手伝いしている。それはグアムで知った「知らされていない歴史」を知ったことからだった。

論客対談で、小子化への危惧を松本健一氏に問うた。
<自分の国を(いいことも悪いことも)見ないようにした戦後の歴史がある。グローバリズムはいま飾り言葉で使われているが、日本人が日本のことをよく知って、自分の国を愛さねばならない。愛するために正しい歴史を教えなければならない。小子化の問題も、若い人が、これから生まれてくる子らが好きになってくれるような国にすることが第一……>

 国を愛することとは、国を知ることとみつけたり、と、当ホームページ、角田主(あるじ)のハワイからのおみやげの煙管の煙の素(パイプの葉)をふかしながら考えさせられた。
 
                                   弥生之十一日


追記:武道通信ホームページ「Web論客対談」の次回は角田氏と小生の対話です。

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                煙管のけむりの 三十一

 先ほど、愛機Macが、昨日に続き、固まった。
 「一人で居ても淋しくない男になれ」と云う題名の原稿を打ち終わり、保存しようとした、そのときである。嗚呼嗚呼〜である。
 再起動で、この労力は、この世から跡形もなく消えた。皆様も、経験豊富なことでしょう。いつの日か、パソコン神社でもできたら、かき消えた文の供養塔でもできるかも知れぬ。

 で、気を取り直すため、一服とする。
 昨日も、著者校正済み完成ゲラが半分消えた。広告スペースをつくったそのときだ。
 葦津珍彦(あしづ うづひこ)の「武士道――戦闘者の精神」の、その精神を語った、葦津珍彦の弟子である、明治神宮の武道場館長、稲葉さんの原稿であった。今朝から気を取り直し再度、打ち直した。
 こんな愚痴を云ってもしょうがない。せっかくの煙がまずくなる。

葦津珍彦の師は頭山満である。
「一人で居ても淋しくない男になれ」と云ったのは、頭山満である。
次巻、編集長対談の論客、松本健一氏に『雲に立つ――頭山満の場所』という著書がある。氏は、他に北一輝ら、右翼と称される人たちから、「右翼」というレッテルを引きはがし、孤高の漢(おとこ)を我々の前に突きつけてくれた。

 なぜ、一人で居ても淋しくないのか? 
 なぜ、一人で居る淋しさにたえられるか?
 孤独に耐えるというものではない。確固たる自分の世界をもっているということである。その確固たる世界は、オタク世界でない。自分の根源とつながっているという自尊の精神である。

 我々は「公」というものを勘違いしているのではないか。
 消えてしまった原稿を指先の感触で思い出しながら思う。
 日本語の公の意味は、争いを収めるという意味だと、前田日明との対談で、松本さんが教えてくれた。ムは争いの意味で、鬼は男が争う様(さま)を云うのだそうだ。
「私」も、いい言葉でない。のぎへんの禾は、収穫物の意味で、「私」の意味は収穫物を俺のものだと云って争うことだそうだ。

 こう云われると「私をもっと主張しなさい」「日本人は私を主張しなすぎる」なんて言葉に、ちょっと待てよ、思ってしまう。それにつづいて、よく云わている「公と私」の関係も、もしかして、我ら祖先が考えていた「公と私」とはまったく違う、西洋的な公と私の思考で論議しているのかも知れない。

煙管、いやパイプの煙も消えたようだ。
ここらで、気を取り直して、Macに向かうか。ちなみにこれはWinである。
この文をブドウショップの角田さんにメールすることにする。

                                      如月之二十七日
<そう、昨日は二・二六だった。二十五日、坂井三郎さんの講演テープを聴きにきた、一水会の木村さん、明日は北一輝の墓参りに行くのだと云っていたが、かなり呑ませてしまった。大丈夫だったかな>

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                煙管のけむりの 三十

 子供時代よく見た、チャンバラ映画で「今宵の……血に飢えている」なんて、深夜、悪いサムライが日本刀をかざしているシーンがあった。
 もし、その日本刀が直刀で、鎬(しのぎ)も刃文もない、真っ直ぐな剣であったらどうだろう。
他にもよくサムライが手入れを終えた後、愛刀を鍔元(つばもと)から切っ先に眼を移しながら、鑑賞しているシーンにお目にかかる。もし、その刀が直刀であったらどうだろうか。
 サムライたちは日々、刀を愛でるようなことなかったのではないか。
 朝鮮半島、中国にも日本刀は多く渡った、この鋭利な刀が、かの地ではほとんど残っていない。司馬遼太郎さんも云っていたが、他の鉄器に造り直されたのではないかと。この曲線の美は、彼らの琴線には響くことはなかったようだ。

 和弓のあの″いびつな″曲線も、美しいと祖先たちは愛でた。
もし、あれが半弓であったなら……。弓道は、いま、なかったではないだろうか。
日曜剣道、弓道、そして月一居合の輩が、武道らしきことをやっているのは、
ともにこれら武器の曲線美にあるのではないか、そう、たぶんそうであろう。

 最近、猫を洋弓で射殺していた国家公務員(銀行からの出向中)がいたそうだ。
(いま何かと役人が悪者なっている。これは社会の変革の兆しである。いいことである)
 もし、某国家公務員殿が和弓を使ったら猫は無事だったのではないだろうか。
弓道をやっている者にそんなふとどき者はいない、という話ではない。
犬の好きな人間に悪い人間はいない、という同じ屁理屈で、弓道をやっている者にも、
あのカラスを射ることが出来ないかとか、たまに的場に出現する猫を狙いたくなる輩もここに……。
 
 しかし、あの長弓ではとにかく扱いにくい。2メートルもある上に、構えれば3メールはゆうに越す。家屋では無理だし、使う場所が限定される。
 また、よほど近づかないと射殺すことは難しいではないか? 
もし、ふとどき者の輩が、猫を狙うなら猫の間合い寸前まで近づかないとダメではないか。
猫の間合いとは何メートルだろう? 猫がこちらをにらみ、この飛び道具なら、この距離以内
に近づかれたらヤバイという間隔だ。何か馬鹿なことを云っているようである。
云いたいのは要は、相手からも反撃を受ける危険性のある,一歩手前から急所を一撃する武器なのである。

他国の弓と違い、遠戦志向の武器でなく接戦志向の武器であり、猫に対しても、敬意を払い、「やあやあ我こそは、人間である」と名を名乗ってから射るのである。

 以前、兵頭二十八さんと話していた折り、日曜武道の輩が弓道をやっているということから、日本の武士は、なぜ、あのような長く扱いにくい上に、一射一殺する射程距離が短い和弓を使い続けたのだろうかと云う話しになった。
 鉄砲を初めて見たから、あっと云う間に、世界一の量産と精巧さを成し遂げてしまう創意工夫の優れた民族が、なぜ、あの形にこだわり続けてきたのか?
 中国の弩弓(どきゅう)も、蝦夷征伐の折りとかに一度、二度は使ったが、止めてしまう。
元寇の役で元の和弓の倍の射程200メートルの短弓を知っても模倣しなかった。出来なかったのでない、しなかった。

 九ノ巻に「和弓―日本武士の誇り」と題して兵頭二十八さんが、その謎を解いてくれた。
騎馬から射るから下を短くした、という定説があるが、それなら半弓にすればよい。その根はもっと古く、深いのだと云う。
 ぜひ、読んでいただきたい。日本の武士のプライド、美学であったのだ。

で、弓の話はこれでしまう。

 刀の曲線の話しである。
 古く中国人から「日本刀」と呼ばれた独特名な湾刀になぜ、なったのか?
「刀剣講話」の高山武士さんが唱える仮説がある。
 蝦夷征伐の折り、各地から集結した兵の中に、騎馬隊の板東武者軍がいた。
彼らの働きはすさまじかった。それは彼らが使っていた湾刀のせいであったからだ。
馬上から凪るには刃が移動する湾刀の方が威力がある。ギロチンの刃も斜めになっている。 このことから、その後、騎乗戦が主流になり、皆、湾刀を使うようになったという。
 また、もう一つの高山説は、蝦夷軍はすでに湾刀を使いっていて、その威力にさんざんな
目にあった大和朝廷軍が、それを真似たという説である。これは創刊号で、少し紹介した。

 これはあくまで機能性からの視点であるが、高山さんの云わんとするところは美意識の問題である。
 刃形の美しさもさることながら、腰に帯びたときの美しさは直刀と比べ、いかがなものか。
長槍、鉄砲の出現により、騎馬戦から地上戦に移っても太刀から打ち刀に代わりはしたものの、直刀に戻ることはなかった。

 機能性だけを追求するのでなく、そこに湾曲な、そう左右対称を欠く、壊す、何かを加える。これは武器だけでない、建築物、陶器、文字(ひらがな)とあらゆる事に共通した作法である。貧弱な美意識の輩も、満月より三日月が好きなのもそのせいかも知れぬ。

 これは武器だけでないと云ったが、近代科学は軍事がその魁(さきがけ)だったように、古代とて同じではなかったか。当時の先端技術はより優れた武器を生みだすことから生まれただろう。
日本の古代史を剣(刀)、弓という武器の視点から捉えていったとき、通説がひっくり変えるかも知れない。これも高山説である。
 
                                      睦月之八日

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                煙管のけむりの 二十九

 元旦の朝を迎えた。本日、一月二十四日は旧暦の一月一日である。
昨日は大晦日。風呂で一年の垢をこすった。
いま、元旦のお天道様を浴び、パイプを¨一服くゆらせている ¨。

 江戸のまちは、半月前の赤穂浪士の討ち入りの話題に、まだ大騒ぎのことだっただろう。
ここ武州南多摩の住人も、伝え聞いた話に喝采しただろうか。
近藤勇、土方歳三の曾曾爺さんたち、天領地の農民であった彼らはどうだったのだろうか。

やはり、これぞサムライ! と喝采したのではないだろうか。この地の地下水には反骨の血脈が流れている。

 それから十年後、九州、佐賀の地で、山本常朝が「何がサムライぞ、殿様が切腹したら、すぐに仇討ちをするのが筋。策略をろうするなど、上方武士道さ」と語り部、田代陣基に向かって話していた。
 だが全国各藩の多くの武士たちは、己ののど元に、サムライとはなんぞやと切っ先を突きつけられたのではなかったか。瓦解していく武士像を死守した赤穂の四十数人のサムライに、己のいまを恥じたのではなかろうか。

 この国が音を立て瓦解していく中、己だけはと、踏みとどまろうとしたとき、「今日は元旦だ! 朝風呂と朝酒だ」と、なぜか、うそぶきたくなる。
爺さん、曾爺さんたちの生活、彼らの生き方を懐かしがることで、なにがしの重石になるような気がするのだ。

                                 睦月之二十四日(旧暦・元旦)

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                煙管のけむりの 二十八

 昨年年末にPH掲示板・無銘刀に、こんな書き込みがあった。全文、引用させていただく。
《先日、とあるサイトで、「剣道の源流は韓国にあるのか?」という、議論を目にしました。
詳細は以下のサイトに詳しいです。
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6963/
 上記サイトによると、最近、韓国の剣道連盟(?)が、剣道はその起源は韓国にあり、日本の
剣道はそれをスポーツ化した亜流のものに過ぎないという主張をしているそうです。彼らは、
自らの剣道(コムド)を日本の剣道とはまったくの別物として海外に広く普及せしめ、オリンピ
ック協議化まで目論んでいるとのことです。
 それだけでなく、自らの主張を正当化するために出鱈目な歴史をでっち上げ、明らかに日本刀にしか見えない刀剣を、韓国の伝統刀剣として海外で紹介するというようなことまでやっているそうです。
 これは、長い歴史の中で技術体系を練り上げてきた先人たちや、現在世界各国で日本の伝統文化である剣道を知ってもらおうと地道な活動を続けておられる先生方に対する侮辱行為であると思います。
 私も、少しばかり剣道をかじってますが、この話題は最近まで知りませんでした。この話を目
にしたとき、怒りを通り越してあきれてしまいました。これに対する日本剣道連盟の対応は、彼らよりも後手後手に回っているようです。
このままでは、日本の剣道は国際的に「偽者」扱いされてしまうような事態にもなりかねません。 私は、日本においてもこの件を広くメディアで取り上げ、真剣に取り組み、断固たる姿勢を貫くべきだと思います。いかがでしょうか》

 先日、韓国へ旅した折り、百済王朝の王、武寧王陵(ムニョンワンヌン)を見学していて、ふと掲示板の「剣道韓国紀元節」を思い出した。近年、韓国の剣道が強くなったと聞く。昨年か一昨年か、テレビ゛で世界選手権を観た。日本は韓国にかろうじて勝った。
 韓国剣道家?の¨一部¨が言う「剣道韓国紀元節」が生まれた背景には、日本剣道を追い越せるかもしれないという韓国剣道のレベルアップと、韓国で近年高まったと聞く「古代日本文化を造ったのは我ら祖先」という韓民族優越主義である。
 韓国人が自らのアイデンティティを語るとき、日本を語ることで自分を語ろうとすると聞く。
かつての日韓併合の屈辱からくるものが大きいのだろう。
 
 ただバスで走り去る短期間の旅で、バスの中で居眠りばかりしていた輩は、武寧王陵(ムニョンワンヌン)の博物館の王の墓で発見された「環頭太刀」を見たときだけ目が覚めた。
 して、先の掲示板を思い出したのだ。
 柄頭に金で施された輪があり、柄は金と銀の糸で交互に巻き付けられてたいる。鞘は木に漆を塗ってあるがあ、木なのでかなり傷んでいた。長さは80センチほどか。輪の中には龍文が、柄の上下には甲羅文、鳳凰文が配置されていると、解説書にあった。
5世紀半後の三国時代(高句麗、新羅、百済)の王の権威を象徴した剣であるそうだ。この直刀の類は日本に伝わったし、倭人も真似て造っただろう。

 それから300〜400年後ぐらいか、平安時代に入ると、日本の剣は独特な湾刀になっていく。製鉄、鍛錬、研磨に独自な技術を生みだし、世界で一番美しい剣と云われる日本刀が生まれた。 中国大陸、朝鮮半島の文化、先端技術を渡来人から教わり、それをオリジナルなものに、要は日本化していった。それが日本の文化の粋であった。
 高句麗人、百済人、新羅人が古代日本文化を造った、と云うなら、韓国にも日本刀のよう¨日本化¨したものが生まれてはずである。どうしても劣等感の裏返しとしの優越意識をかい間見てしまう。
 それも両国に立ちふさがる現実である。しかし、もう一つの現実として、互いに民族優越主義から脱した両国の関係も生まれていくのではないだろうか。韓国人が自らのアイデンティティを日本を比較したものでなく、自分の中に見つめ直す日が来たとき、日本に渡来し日本の優しい風土に触れ定着し、次第に日本の美意識に感化され、土着し、融合された文化を生んだ、彼ら祖先たちを理解するのではないだろうか。

 観光客以外、何者でもない、扱いしかされなかった日本人は、同じ顔の外国人を車窓から見ながら、次巻の特集の「いま日本に必要なナショナリズムとは?」を、キムチ漬けになった頭で考えた。
 日韓のナショナリズムが日韓合邦のナショナリズムになぜ負けたのか? 民族主義は世界を救うか? 滅亡させるか?  そのとき、カササギが飛んでいるのを見た。カササギは韓国の国鳥で縁起が良い鳥だそうだ。 民族主義は世界を救う方に賭けよう。
 
  睦月之十六日
  (旧暦十二月二十二日。もういくつ寝るとお正月♪)
 


 

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                煙管のけむりの 二十七

 今世紀最後の「煙管のけむり」など馬鹿なことは言わない。皇紀2660年最後の……も戦後派には何か無理がある。素直に平成十二年最後の、としておきましょう。

 この大晦日はPCの前で年を越しそうである。
 年賀状をメールで出そうという魂胆から、0時を過ぎたらこのHPのご主人をはじめメールをお持ちの各位にはオリジナルなコメントを書き添えて発信するという大それたことをやろうとしている。
 1年前の大晦日には想像もしていなかった。ましてや、最近、このMacの隣りに居座ったWindors版のPCから発信するとは。この1年のPCとの格闘劇の結末である。 

 この格闘劇、いい年して正直、結構疲れる。ひと昔前のオジンなら、己の経験を偉そうに吐いていれば良かったものを十も二十も若い人に教えを乞い、悪銭苦闘して”進化”していかなければならない。エライ時代になったものだ。

 来年(明日)の年賀状は、今年と同じ、『武道通信』巻末の「無銘刀」のメッセージを小さな文字で載せ、また「読むのに時間のかかる年賀状」とするはずだった。
それが”未遂”となったことから、ここで行数稼ぎ(笑)で”実行”しておきます。
    
皆様、あけましておめでとうございます。 平成十三年 元旦

●『武道通信』八ノ巻 平成十二年一月刊
不立文字という非言語哲学こそ東洋である。
剣術もこれを身ごもり、武道へ昇華させ、
西洋の個より強固な個性を発酵させた。
日本独自の近代を拓いたのは武人であった。
●『武道通信』九ノ巻 平成十二年三月刊
我ら祖先は審美と実用を一体化した。
鉄砲の実用性より剣の美と立居振舞を選び、
己の魂とし自らを鼓舞し、律してきた。
いま再び矜持の日本刀を腰にさそう。
●『武道通信』十ノ巻 平成十二年五月刊
「武」は戈を「止」ではなく「趾で進む」
武の原義を曲げてきた我らはいま、
己に合った得物を選び、戈とし、
二度目の敗戦を防ぐべく趾を進めよう。
●『武道通信』十一ノ巻 平成十二年七月刊
IT革命という名の第三次世界対戦。
この戦、国境もない城もない。
個人の自存自衛の戦いである。
武士の強靭な個の遺伝子を呼び起こせ。
●『武道通信』十二ノ巻 平成十二年九月刊
明治初期、世界に日本を説明するため
「武士道」を書き、自らを鼓舞した。
いま我々は日本を説明できないでいる。
武士道とは何か? をいま一度問う。
●『武道通信』十三ノ巻 平成十二年十二月刊
百花繚乱、日本再生論が咲き乱れる。
しかし、みな画龍点晴を欠く。 
英霊の名誉回復と天皇制の在り方を
問わずして日本再生の道はない。
 
 また、新年、松がとれる頃、煙管のけむりをふかします。皆様、よいお年を。
                             大晦日


 

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                煙管のけむりの 二十六

 
         拝外主義『菊と刀』 
     
 パイプのけむりは、日々頻繁にふかしていたが、「煙管のけむり」は久しぶりである。
 私事で忙しかったせいであろう。まあ、徒然なるまま、とお断りしてあることだし、ご容赦願いたい。

 前述した『刀と日本人』(光芒社=TEL 03-5269-8361 FAX 03-5366-5423)が刊行されるようで、楽しみにしている。
 著者の小川和佑氏は文芸評論家であり、『三好達治研究』『伊東静雄』『堀辰雄』『立原道造の世界』などの昭和抒情詩研究四部作に加えて、『三島由紀夫少年詩』等の作家論のほか、近著に『桜の文学史』『桜と日本人』などの日本文化論がある。
 そして、これらの著作活動の中で、桜文化に明治以来、失われた日本刀の文化を交錯させた日本人論である。

 刀と日本人の関わりを記紀神話の古代から検証し、日本の刀剣の革新と完成を見た後鳥羽院へと至る。院にとって刀剣は王朝文化、つまり、桜文化を具現するものだったという。
 刀剣は院の理想のために、武器から美そのものへ、古代人の心へ回帰することで武威の鎮めとなる。
 しかし、それから約600年。頼山陽の日本刀詩によって、再び武器となり、さらに幕末から近代に至る思想の象徴となった。
 この刀に対する抑止力に後鳥羽院の意志をみる著者は、美こそ武を征するという思想こそが、殺伐とした現代に再び甦るべきではないかと問いかける。
 戦後日本に深い影響を与えたルース・ベネディクトの『菊と刀』とは異なる次元から発想された『桜と刀』による新しい日本論である。

 以上は、版元の解説文を引用させていただき、要約させていただいた。
末尾、「ルース・ベネディクトの『菊と刀』とは異なる次元から発想された『桜と刀』による新しい日本論である」を補足させていただければ、『桜と刀』は日本語も知らず、一度も日本を訪れたことのないベネディクトが「アメリカに刃向かう黄色人種、日本人とは如何なる人種か、この怪なる人種を理解するために、己との差別化が必要とされ書かれた書である。己にないものとして、日本人を日本文化を理解しようとした親日家が書いた書でない。

 その差説化のキーワードに西洋の「原罪」に代わるものとして日本の「恥」をクロースアップしたのである。
この論でいけば、花を愛で、歌を読む優雅な日本人と戦闘を好む軍国主義者の日本人が同居するという矛盾が生まれ、欧米人の黄禍論に根付く敵愾心が頭をもたげる。

 この書があたかも優れた日本人論として敗戦後の日本人は受け入れてしまった。この「拝外主義」から、もういいかげんに脱却しなければならない。そのための好著である。
 
 『武道通信』は徒然に思うのである。この書を英訳、仏訳、スペイン語訳……、いや隣国の東洋(アジア)の言葉にも翻訳し、『武道通信』から世界にWebに乗せ発信したいと。
 
                   師走之十二日
 

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                煙管のけむりの 二十五

 朝、ほうきで掃いたような雲が、冬空になりかけた空にゆっくり流れていた。
  ここに引っ越してきたのが8月末日あたり、猛暑が尾を引くの日々であった。夏草は猛々しく生え、虫が飛びまわり、蟻は休むことなく動きまわっていた。それをとかげが元気にほうばっていた。小さな庭は生命の坩堝(るつぼ)だった。が、いまは強者(つわもの)どもが夢のあと。 ”誰ひとり”いない。朝はもう寒い、パイプを持つ手が暖かく、心地よい。
 昔風の民営アパート(いまコーポと呼ぶのだ)の一階には、ここがそうであるような小さな庭がついている。最近の建て売り住宅の目一杯建てた家の庭より広いぐらいである。ここには、同じような民間アパートが並んで立っている。様(さま)は長屋風である。
 パコソンに疲れると、ゴロと下の畳に横になる。時代小説の裏店(うらだな)の長屋に住む、素浪人のような気がしてくる。藤沢周平『用心棒日月抄』の青江又八郎のような気分になる。
 
 区別ない時代小説ファンであると思っている。が、どうも市井(しせい)モノ、武家ものという区別をすると、武家モノほうが好きである。
 時代小説は講談モノと決めつけていて無縁だった者が、剣道を始め、参考になるかと思って手にした(なるわけないのに)池浪正太郎の「剣客商売」が病みつきとなったことが原因しているのかとも思ったが、最近わかった。
 日本刀が出てくるものか、そうでないものかで嗜好が分かれた。いや、別に剣戟(けんげき場面がなくてもいい、主人公たちが腰に佩刀(はいとう)しているか、どうか、それが大事なことなのだ。
 腰に佩刀(はいとう)している者たちの物語の方が好きなのだ。最近は市井ものはほとんど手にしなくなった。 

 偶然、手にした火坂雅志を三冊読み、気に入り、立て続けに読もうかと思っている。
が、人気があるせいで、図書館は貸し出し中が多い。最寄りの本屋で捜してもないだろうと、当初から決めてかかっているし、量を読むのであるから図書館が一番。時代小説ファンがあまた潜んでいるから、知らない作家も発見できる。
 図書館には蔵書の検索PCが数台置いてある。図書館のHPをつくるか、また、市のHPから検索できれば、出向かなくても家から検索でき、貸し出し中かどうかわかり、無駄足を運ばずに済むし、利用客も増えるだろうに。
 お役所はいまどき、こんな簡単なことさえしようとしない。
 
 火坂雅志の短編集に『利休灯篭斬り」というのがある。
茶人利休が一振の名刀に出会う話である。その名刀との出会いの描写がいい。他の時代小説と特別異なる表現ではないが、刀の佇(たたず)まいが行間からこぼれる。日本刀が、いかに日本人の琴線が響くかが、よくわっている書き方である。

『刀と日本人』の著者、小川和佑(かずすけ)氏が次巻、時代小説、歴史小説の名刀に見る武士道ともう一つの日本美と題して、日本刀と日本文学の中でどう扱われてきたかを語る。
 弟一回目は「司馬遼太郎と名刀説話」。近年の作家の中で司馬遼太郎は、日本刀を深く理解していたと云う。
 
                          神無月之三十一日

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                  煙管のけむりの 二十四
               
               
 めっきり秋らしくなり、パイプに火を入れることも多くなった。本日も日本刀の話である。けむりを秋空へ、と云いたいが、曇り夜空に満月まで、あと一息の月が、霞んで見える。 
 栗原昭秀という人物を知らなかった。年季の入った愛刀家なら当然、御存知だろうが、昨日今日の愛刀家まがいの輩は、初めて知る名であった。いまの若者が山本五十六を知らないように、言い訳をするなら、敗戦後、刀剣史から抹殺された方であろう。ゆえに名の一部も聞いたことがなかった。
 本はインターネットで読む、と息巻いている輩を、あざ笑うかのような立派な器に収まった豪華本、『日本刀を二度蘇らせた男 栗原彦三郎昭秀全記録』が編集部に贈られてきた。
 器と中身がひとつになったものとしての本、それは器であり、書でもある。大きな書棚から取り出し、重いその本を机上に置き、おもむろに重みのある表紙を開く。パイプでもくゆらせたくなる。「本」はいいものである。
 デジタル本いう器のない本はかまわない……。そう、その話は、また別の機会に話そう。

 中身の話である。
栗原彦三郎という人物を紹介するため、この書に添えられた解説をから抜粋してみる。
 栗原彦三郎(刀匠名昭秀)は明治12年、栃木県に生まれる。同25年、田中正造を頼り上京。東京英和学校(青山学院)、東京専門学校(早稲田大学)に学び、同29年、足尾銅山鉱山毒被害地に入り、田中正造を助け、解決に奔走した。その後、言論活動や政治運動に入り、「中外新論」主幹を、また昭和3年、栃木県衆議院議員を勉める。
 一方、幼少より日本刀に興味を持ち、明治初年の廃刀令以降、まさに途絶えようとしていた伝統の復興を決意する。苦難の末、昭和8年、赤坂の自邸(勝海舟旧邸)に日本刀鍛練伝習所を開く。翌年、帝国会議に帝展の工芸部門に刀剣の追加を建議、全国の刀匠に呼びかけ実現させた。さらに「日本刀匠協会」を結成した。昭和12年以降、14次わたり、軍刀修理奉仕団を結成、大陸に従軍した。
 敗戦後は占領軍の下で、長く刀剣作成が禁止されたが、サンフランシスコ講話条約を機に、政府に折衝し、「講話記念刀」300振を製作させた。それは「日本精神の象徴たる日本刀は侵略の凶器にあらず」と、軍国主義イコール日本刀の誤解を解くためであり、世界各国の高官に贈り、その精神の理解に勉めた。
 昭和29年、志半ば享年76歳をもって没したが、全国の刀匠を奮い立たせ、作刀の機運を盛り上げ、作刀が保証される現行の制度を促す基となった。
 明治・大正・昭和と日本刀の世界における貢献は偉大である。栗原の恩恵を被らなかった刀匠は皆無だといえる。主宰した「日本刀鍛練伝習所」「日本刀学院」の出身者の系譜は、数代を経て今日の鍛刀界の半数に及んでいる。
 しかし、戦後、ことさら宣伝された「美術刀剣」の風潮のもとで、「戦前」はゆがめられて一律に「軍刀の時代」見なされ、栗原の功績も一部の評価されてたにすぎない。いま改めて、栗原彦三郎の足跡を明らかにし、公正な評価を期すと同時に、不分明な鍛刀界の近現代を併せて、発掘、評価する意図である。

 まだページをパラパラとめくっただけで栗原彦三郎なる人物を評する知識がないが、この添え文から察するに、戦前の政界、軍部との強いつながりから刀剣界の「戦犯」とされたのだろう。
 「しかし、戦後、ことさら宣伝された「美術刀剣」の風潮のもとで、「戦前」はゆがめられて一律に「軍刀の時代」と見なされ、栗原の功績も……」とあるのはうなずける。「軍刀の時代」は、要は軍国主義の象徴と云うことだろ。前回の話に重なる。
 
 いっときのカモフラージュの仮面が、いつのまにか肉に食い込んでしまい、己の顔になってしまった。昔噺にある話であるからして、これも人の生理のひとつであろうが、その自責の念があまりにも軽かったのではないか。占領軍の新植民地政策が見事だったのか、自ら、仮面を素顔にしたかった理由が日本人にあったのか。
 敗戦後25年、昭和45年、西暦1970年、それに異を唱え割腹した小説家、武人がいた。が、ごく少数の者しか自責の念を抱くことはなかった。
 その辺を、もう一度問い直してみるに、勝戦国が決めた「戦犯」を、それに追従した時代を、洗いなおすための、良い本ではなかろうか。
  
附: 『日本刀を二度蘇らせた男 栗原彦三郎昭秀全記録』
   発売 栗原彦三郎伝記刊行会 東京都江東区塩浜1-5-5-901 (土子方)
    03-3649-6523 振替001-20-6-187599
                               神無月之九日
            
                             

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                  煙管のけむりの 二十三
             
 武道通信に「侍の嗜(たしなみ)」を連載されている名和先生から、原稿の打ち合わせで、お電話いただいた。
その折、今卷の編集長対談論客の古岡勝(まさる)氏が兜割りに挑んだ話が出てくるが、この兜を提供したのが名和先生だったとおっしゃった。井伊家の赤兜という逸品で、還ってきた兜は1センチほど食い込んでいたそうだ。
 割れ(斬れ)はしなかったが、兜をかぶっていたら脳震盪(のうしんとう)を起こしていただろうとのこと。
 水瓶を斬った刀と同じものだから兜割りには向いていなかったのだろう。当時、兜を斬るには、そのようの刀があったと云い、蛤刃がよいと、前々回の論客、藤岡弘さんが語っていた。
 古岡さんのような達人だから、氏が云う、折れても惜しくない刀でも、1センチも食い込むことができた。斬り手のレベルが下がれば、たとえ名刀でも斬ることも、食い込むことも不可能な話になる。
                   ■
 前田日明が対談の席に”日明刀”を持参した。この刀は一昨年の日本刀剣美術保存協会の新作刀剣展で、特賞を授与された刀である。しかし、これら刀剣審査は「美」が鑑賞の基準であって、「機能」(斬れ味)の基準はいっさい考慮されない。試しようがないのである。
 現代の刀工は「美」の基準で競う。その為の刀剣製作である。しかし……。彼らの胸の内に、この刀は斬れるれるだろうか? (機能性はどうだろうか)という念はあるはずである。
  
 ”日明刀”の松田次泰刀匠も、この刀の持ち主である前田日明も、現在では何人もいないであろう居合の達人に、美術鑑定家でなく、日本刀の大きな要素である、機能性を「武家目利き」と云う実戦の鑑定の目で観てもらいたかったのである。
 
 先の敗戦で、「日本刀は武器にあらず、美術品である」と戦勝国に云い訳した。生き残りのためのカモフラージュが、いつしか、我が身に馴染んでしまったのか、「機能性」は軍靴の響きともに遠くなった。
 しかし、日本刀を武器として使うことがなくなったといっても、命を託す「斬れる」という視点がなくなってしまったら、日本刀の魅力は、「美」のマニアと投資家だけのものになる。「深刻な問題は、この刀が斬れるか斬れないかを試せる、斬り手がいなくなったこと」と刀剣展の片隅で囁きあっていたのを聞いたことがある。
 先の敗戦の折、第三次刀狩により(一次、秀吉、二次、明治の廃刀令)、自己防衛の行使さえ放棄した。これが日本刀から「斬れる」という要素を失わさせた因がある。
 ”刀狩り”をいまだ拒み、銃を捨てようとしない、アメリカ人の野蛮性がうらやましい。
このHPの主(あるじ)、角田さんの「小柄工房」は、刀剣美術家でも投資家でもない日本人が、日本刀は「斬る」もので、いつも身に帯びているもの、というサムライの嗜(たしなみ)を取り戻そうする「大河の一滴」である。
                      長月之二十三日                                                    

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                 煙管のけむりの 二十二
             
 仮宅の雑草が生い茂る裏庭先で、蚊に食われれながらパイプをくゆらす。狭い部屋に煙が充満するのも何かと、気遣うのだが、ひと足で降りられるし、早朝は元気のよい朝日を浴びながら新聞に目を通しながらくるらすのは悪くはない。
 あれやこれやがあり、この項を綴るのも大分、間が空いた。
世界旅行を満喫しているBudoShopの主(あるじ)は、いま頃、どこにいるのかと、やっと他人様のことも気になるようになった折、当の主(あるじ)から、アメリカはボストン、サンフランシスコからメールをいただいた。ドイツ、オランダ、スペインら欧州ではインターネットの接続は難しいかったそうだ。
 やはり「敵はアメリカにあり!」だ。(ちょつと唐突か)
5年後、光ファイバーを全国津々浦々に通す云う。最近の官のことだから、その方策に侃々諤々(かんかんがくがく)となるだろうが、ここらでアメリカへの対抗策をブチ上げなければと思ったに違いない。それはそれでいいのだが、十年前から政治家、官の首脳陣が、危機感をもっていれば、光ファイバー網は2年後あたりに実現していたはずである。

 この度のミニ引越で、IT時代になると物を捨てるという感覚、意識が変わるだろうなと、玉の汗を流しながら「ハイ、さよなら」「ハイ、さよなら」と、本、カセット類から家財道具、古着、食器などを捨てながら、儂(わし)とて考えた。
 このドタバタ引越し劇の中、こいつがどこかに紛れ込んで捨てられるハメにならぬかと、一番に気になったのがフロッピー、MO類であった。もう一つ、消え失せないよう、腰の後ろに差しておいたのが、過日、製作した小柄だ。
 振り返り、この二点の品に、先に云った、IT時代の物を捨てる感覚、意識の答えを解くカギがあるように思われた。が、この残暑、それ以上は考える気力がない、いや、能力か。
 
 仮宅へ移った翌日、長男坊の結婚披露宴があった。そっと小柄を忍ばせた。
新郎に渡すか、渡さぬか、決めかねていた。暑さのせいである。
 宴で花嫁の父親を見たとき、「そうか。嫁にやるわけではないか」と譲り渡すことを止めた。 
主が帰国すれば「小柄工房」も、また始動するだろう。
                                 長月之九日                            

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              煙管のけむりの 二十一
              「小柄工房」の一日 <その二>  
              
 『鐵のある風景』の著者は高野行光刀工の師、大野義光刀工を”異端児”と云う。五十七年の新作展で最高位の高松宮賞を受賞。大野丁子(ちょうじ)と云われる独特な刃文(はもん)を生みだし、その後、高松宮賞四年連続受賞という快挙を成し遂げた。しかし、その言語、特異なふるまいが、刀剣界では不遜と受け取られていると云う。
 この師にありて……で、また唯一の弟子の行光も反骨精神の持ち主である。師と仰ぎ弟子になったが、師の作風である華やかな丁字でなく、弟子が志したものは刃文でなく肌物、綾杉肌である。
 しかし、この綾杉は賛否両論で、新作刀展では評価は高くない。刀剣の肌は熟練の者しかわからないが、行光のものは素人にもわかる、見える。行き過ぎだ、下品だと批評されると云う。だが、師匠譲りの口調で「俺は百年後の鑑定で、俺の作だと当てるように作っている」と反発する。                 
                 ■ 
『鐵のある風景』から引用させてもらい、高野行光刀工の人となりを語ったのは、小柄(小刀)といえ、素人に刀を作らせるということは、刀工に限らず刀剣界では抵抗を感じる人が多い。陶芸教室の世界とは異なる世界である。あえてそれを行っているは、高野行光刀工の「百年後には……」の精神かも知れぬ。
 しかし、高野刀工の意図することは別として、多くの人に日本刀をもっと身近なものとすることが、日本刀の精神を理解し、現代にその精神を再構築していくことになる。その現実的方法が「自分の小柄を自分で作ってみませんか。刀工が指導します」という『小柄工房』の企画である。敗戦後廃れた、廃れさせられた日本刀の精神の復興を願う、愛刀家予備軍は考えるのである。
                   ■
 角田さんからこの企画の話を初めて聞いたとき、思わず膝を打った。
 刀は刀匠以外の人間が製作出来ないと法で定められている。また、月二本以上の日本刀を製作できない。登録申請が必要ない小柄は日本刀の枠から外れる。その盲点を着いたものだ。
 前田日明が日本刀にのめり込んでいった、その要因に「玄門之会」という若手刀工のグループとの出会いがあった。その会の中心的メンバーは以前から、この企画を実行している、とその日、高野刀工から聞いた。

この『小柄工房』は、それを第三者が応援するというものだ。工房に参加した方が、我が子に、また孫に、父の、祖父の作った小柄を「守り刀」としプレゼントするというということもありうるだろう。
「お前、いざというとき、これで身を守れ」「大事な人を守らなければならないとき、これを使え」と、そんな冗談とも、本気ともつかない気持ちで、手渡すことだろう。
 その子が大人になったとき、父の、祖父のそんな想いを継ぎ、短刀か大刀を注文打ちするかも知れぬ。そのとき、父の、祖父の名を銘を刻むかも知れぬ。そんな光景を夢想する。 いや、父、祖父だけでなく、母、祖母でもよろしい、別に女性入るべからずではない。
 この心の継承が、日本刀が日本人の魂(いのち)として蘇るのではないか。角田さんもそう考えているはずだ。
 
                  ■
 それはそれ、この日は、まず、大の大人が鉄と火の鍛冶屋遊びをしようと云う魂胆であった。
高野刀工は、前もって数本の『素のべ』を造っておいてくれてある。この最初の段階と最終段階の研ぎ、そして白鞘づくりは、おまかせである。そこまでは初心者には無理である。
 製作の詳しい順序は、当ホームページに載っているので御覧いただいたものとして、話を進める。(小柄工程)と、云いながら、次回につなげる。

「茶店の一服」も、この暑さでとどこうる気配がするので、このつづきは「茶店の一服」でふかさせていただく。
                             葉月之一日                
                    


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煙管のけむりの 二十一
              
              「小柄工房」の一日 <その一> 


 JR池袋改札口の地下から西口に上がる。そこに三十五、六年前の池袋西口の風景が一瞬立ち現れる。何度来ても、同じである。学生時代、池袋から東武東上線で二つ目の下板橋に2年ほどいた。立ち現れる池袋西口の原風景はそのときのものである。 

 小雨の中、待ち合わせの丸井デパートの前へ向かう。Budoshop(日本武道具)の角田(かくた)さんがすでに車の中で待っていた。Budoshopはここから徒歩で10分ほどのところにある。少し待つ内に、
本日の「小柄工房」の受講生のお二人も到着した。お一人は剣道家で角田さんとは長年のお付き合いのあるGさん。もうお人かたは剣道雑誌編集のTさん。

 車は西新井へ向かった。車の中で、角田さんから『鐵(てつ)のある風景―日本刀をいつくしむ男たち』森 雅裕著(平凡社/平成十二年六月刊)をいただいた。
 この本に本日、小柄製作をご指導願う、刀工・高野行光(ゆきみつ)(敬称略)が紹介されている。車の中でページをめくる。
 かい摘んで、書かれてある経歴を。
<本名、高野宏行。昭和二十七年生まれ。柴田練三郎の小説から日本刀に憧れ、高校生のときから幾つかの刀剣研究会に出入りいした。当時、新進気鋭の吉原義人・荘二兄弟の元で夏、冬のアルバイトで炭切りをする。この時、吉原兄弟の弟子として入門した大野義光が、のち行光の師匠となる>

 車は足立区西新井の高野刀工の自宅にある鍛練所に着いた。
刀工は気さくな笑顔で迎えてくれた。そのとき、本に書かれた高野刀工の項は既に読み終わっている。その初対面の印象は無意識なりとも、本の内容がインプットされているはずである。なるべく、その内容から受けた印象を取り払おうとした。
 
(ここでまた、邪魔が入った。ご無礼、次回へ。明後日まで、少々、遠出する。)


                            文月之二十八日
            


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                 煙管のけむりの 二十 
                 
 暑いとパイプの煙の流れも美しくない。暑さにだらけてしまい、凛(りん)としたところがない。 でも、それはパイプをふかしている主もそうだから、やむを得ないことだ。
 近年、「日本の夏の暑さ」とはこんなものだったかと、よく遠い記憶を探ってみたりする。この夏も同じことをする。遠い記憶ゆえ、いまの年齢差からくる体感度は差し引いたつもりだ。が、やはり、昔の日本の夏の暑さとは違う。
 昔の夏の暑さは、後ろから背中を押され、燃える光の中に放り込まれたように感じだが、近年の夏の暑さは熱した真藁(まわた)で締めつけられ、封じ込められる感じだ。
 こんなことを言うと、まさに年寄りの愚痴だが、暑さのせいで前回は何をふかしたか思い出さない。そのいいわけをしたかったわけだ。(で、保存箱を探しにでかける)
余談:年寄りの特権は、以前話したことと、まったく同じことを得々と話せることだ。若輩ものは、黙って聞いていなければならない。これは儒教に関係なく、古今東西、共通の「おもいやり」である。だが、まだこれだけはしたくないと思うので
ある。いや、してるかも知れぬ。であるなら「おもいやり」でご容赦を。
                  ■
 何をふかしたかと、二、三回前を覗いてみる。十八の項で「遁世した山本常朝を十年たった宝永七年、田代又左衛門陣基という名の二十二歳の若者が訪ねた」とあった。二十二? そんなに若くはないはず。ゾロ目だったという記憶があったのだろう。で、三十三歳の間違いだろう。
 陣基(つらもと)は藩主の祐筆役で使えていた。文才もあり、今で云う文学青年であった。常朝と同じく免職されているが、それは三十は過ぎていたはず。そしてすぐ、常朝の隠居していた草庵の近くに移り住んだ。『葉隠』の火打ち石は、そのとき陣基の胸にあったのだろう。
 近年、新たな研究書が出て、『葉隠』が奉公人武士道と揶揄されるようになった。
 たしかに「聞書」一、二で武士道精神を高らかに謳ったのに比べ、それ以降の三から十一までは、まさに奉公人精神に貫かれた逸話、マニュアルがつづく。この矛盾から、あの名言は常朝の”セリフ”でなく、陣基が常朝の直談をもとに生み出したのではなかったか、と思うようになった。
                  ■
 この一、二は常朝の直談を陣基が書いたのだが、各断章に日つけがないことや、脱稿後と常朝の死の時期からして陣基がどこまで関わったかは、いまだ謎だというから、この仮説も否定できないが、「武士道と云うは、死ぬこ事と見付けたり」――これは常朝の偽らざる武士道精神であろう。なぜなら『葉隠』の通奏低音に流れるのは「上方風の打ち上がりたる武道」という、治世の徳川武士道への批判であるからだ。
 しかし、「今の世を百年も以前にの能(よ)き風に成したしとても成らざる事也。されば、その時代、時代にて能き様にするにが肝要也」。
 これは泰平の世の侍たちへのメッセージであると同時に、300年後の平成の日本人へメッセージでもある。IT戦争時の武士道像とは? その時代、時代にて能き様にするにが肝要也。

 これも余談。
 いま、枕元の出窓の桟の上に大刀、小刀を刀掛けにかけてあるが、事務所を模様替えした折、パソコンの脇に日本刀を置く場所を作ろうかと思っている。シュール
リアリズム宣言風に「パソコンと日本刀はよく似合う」。あ〜、暑い。  
 
                               文月之二十一日         
            


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                   煙管のけむりの 十九
 世間様(外国)にどう思われているか? 「日本政府は、合理化が遅れた一独占企業の赤字を心配するより、一国の全体の利益を考えたらどうだ」。NTTの電話料の値下げをしぶる日本政府を見て、アメリカにこう云われた。この発言が、例のアメリカのゴリ押しというものでなく、的を射た言葉だと、日夜、ITの波打ち際でアップアップしている輩には思えるのだ。

 このアメリカの言い分を聞いて、大東亜戦争戦争が、陸軍、海軍の縄張り争い、面子、既得権保持で、一国の戦略を誤った。開戦前に、零戦をもっと造っておけば、初戦の戦果はもっと大きく、以後の戦況は変わったはずだ。しかし、陸軍が、海軍へのその予算を許さなかった。小室直樹さんの著書を思い出し、坂井三郎さんの「軍閥が敗因の大きな理由」と、怒りを表した顔を思い出した。

 日本がまた瀬戸際に立たされている。アメリカの世界戦略に対抗し、「勝つために、各省の言い分はわかりながも、何を優先させるか」――日本が自尊の道を歩むための戦略の決定権を握っている”大本営”は、この国民の歴史遺産の智力を信じ、堂々、挑んだらどうだ! と、政府のHP掲示板に書き込みたくなる。
 台風が去って、宙(そら)の塵が洗い流されたような気分の午前のひととき、そんな、エラそうな事を呟きたくなった。
 
 話は、我ら”赤子”の自尊の道に代わる。
 当ホームページの主(あるじ)の角田さんから「小柄工房」なる企画をたてており、その準備をしている最中です――というお便りをいただいた。日本伝統の刀を造る工程の一部を、刀の鍛錬場で直接体験してもらおうと云う企画だそうだ。
 角田さんと同様、子供の頃、五寸釘を線路のレールの上に置き、平たく潰し、それを砥石で研ぎ、手裏剣を造った。いまでは想像も出来ない遊びだった。まさに「年食った少年の血を踊らせる」(角田さん)企画だ。
 ITは世界共通の武器となる、この達人になる道は突き進まなくてはならぬが、
同時に、五感を研ぎ澄ます修練も必要だ。全国の小学校の工作の時間で、自分の小刀を造り、それで鉛筆を削っている光景を夢見る。
                                     
                                         文月之八日
追記:後日、武道通信「告知板」にて、詳細お知らせ。             


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                   煙管のけむりの 十八
             
 選挙の話をするのも、気が進まない。メディアが有り余る解説をしてくれている。いや、それが余計に気が進まなくする。 
 どんな意見も……、辛辣な、また危険でいて創造的な意見も、いったんメディアの装置の中に入ってしまうと毒を抜かれたものになってしまう気がする。この装置を通して語る言葉を聞いても詮無い。
それに変わるものとしての、個の発信であるネット通信の可能性があるのだろうが、まだ未熟である、と思う。友人は、星の数ほどある中で、一つ、二つは 必ずある、と語っていたが、眼力の無い輩は、まだ見つけられない。

 二百九十年前の話をしよう。 前回のつづきのつもり。
 宝永七年(1710)、「葉隠」の聞き書き役だった田代陣基(つらもと)が、金立山麓に遁世した山本常朝を訪ねた年だと言われている。二代目藩主、鍋島光茂が没した(1700)のを機に、遁世した山本常朝を十年たった宝永七年、田代又左衛門陣基という名の二十二歳の若者が訪ねた。意気投合したのだろうか? 歳の差は三十開いている。陣基は近くに草庵を結び、常朝のもとに朝夕出入りいたという。
 常朝がポツリポツリ語る? 言葉を筆記すること七年、享保元年(1716)に完成した。しかし、鍋島藩は、泰平の世に過激と思われるこの書を、江戸(徳川)に気兼ねし、一時、秘したという話も残る。
 葉隠という題名は西行の「はがくれに ちり止まれる花のみぞ しのびし人にあふここちする」という歌から取られたという説と、佐賀地方にある名物の柿の名の「はがくし」から取ったという説があるが、どちらでもいい。現代マーケティングのセオリーでネーミングが成功の因である、と同じく、この見事な題名が、この書を有名にした因もあろう。
 三島由紀夫『葉隠入門』の序でこう書いている。「戦争中から読み出して、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十年間、折りにふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、恐らく『葉隠』一冊であろう。わけても『葉隠』は、戦争時代が終わった後で、かえって私の中で光を放ちだした。戦争中の『葉隠』はいわば光の中の発光体であったが、それが本当に光りを放つのは闇に中だった……」
 三島由紀夫らしい表現だが、暗闇の中で本当の光を放つものこそ名著である。
  
 また、こんな話もある。今は亡き、隆慶一郎が戦地へ出向く折、フランスの哲学書か詩集(ランボー?)の本を葉隠の本をくり貫いて入れいたっが、死と向かい合ったとき、カモフラージュ用にくり貫いた葉隠の、まだ残された部分を必死に読みあさったと言う。希代の時代小説家を生んだのは『葉隠』だった。
 
 蛇足
 葉隠をいつも自分の机の周辺に置いているような政治家がいたら、一票入れたかったのだが。
ふた言目には「景気」」景気」と、”一億総町人”だと、思っていやがる。腹をすかしいて、ホントはたらふく食いたいが、我慢し、楊枝をくわえている人間だっているんだ。てめいの腹のことばかり考えていないで、世間様(外国)にどう見られているか、少しは考えて見ろ! 
   
                                  水無月之二十六日


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                   煙管のけむりの 十七

 前回から半月近くたった。ゆっくり煙管もふかせなくなったのも、皆、パソコンのせいである。いや、上手く使えこなせない、己のせいである。
 前編、小松さんの問う「武器としての刀とは」については 後日、”ふかせて”いただくと、云った。小松さんに、武道通信HP掲示板に、先の船木、ヒクソン戦の感想を武道通信HP掲示板にお願いしたら、小松さん、もう少し加筆したものにしたい、いましばらく、とのことだった。
「しばらく」は十分経った。本日、お電話すると、「今日には何とか」とのこと。当方とて、よくあること、お互い様である。
 それを小松さんの奥様がパソコンで打ち、HPに書き込んでいただくことになっている。
小松さんの今回のものに、「武器としての刀」が加筆されているかも知れない。それを読ませていただいてからにする。
                 ■
 今先ほど、武道通信の「茶店」に立ち寄った。あちらは3週間も間が空いていた。初のダブルヘッダーである。当、HPが先に始まった。で、後発の武道通信とは二話ぐらいの差はつけて置きたいからだ。         こちらは主の角田様に招待された「場」、失礼にあたる。
                 ■
 本日、「Web販売」の壱ノ巻とは別枠の完全なるWeb原稿を脱稿した。
「週刊プロレス」「格闘技通信」の創刊を手がけた経験から、編集の仕事って何だ?を己自身、考えてみようというもので、この二誌の延長線上に「武道通信」が生まれた経緯までを自分なりに探ってみようと云う、試みである。煙管のけむり調でいくと、完結するのに10年かかるかも知れぬ
                 ■ 
  その書き出しに、長年、心に奥につかえていたことを初めて口に出した。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」――果たして、これは山本神右衛門常朝 (やまもとじんえもんじょうちょう)自身の口から出た言葉だったろうか。あまりの名言ゆえに、長年、そんな疑念を抱き続けている。
 前口上として、編集者の語部としての役割を述べ、聞き書した田代陣基(たしろつらもと)のことに触れた。 そのことから表題は「編集葉隠」とした。さらに、――編集士は死生の語部と見つけたり、という尾までつけた。
 今まで何人の「聞き書き」をしてきたのだろう。数え切れぬ。「聞き書き」というには、単に、語る人の言葉をそのまま、伝えているように見えながら、実は、それを読む人の心へ響く、言葉へアレンジしている。また、その時代の体感とも云うのであろうか、その体感温度にあわせて、言葉を編んでいく。
 その時、語る人の生の言葉でない、言葉の綾(あや)が生まれる。そんな事を云いたかった。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」――この、『葉隠』が完成したのは、享保元年(1716)、赤穂の浪士の討ち入りから14年後、まさに泰平の世であった。
 この挑発とも、恫喝(どうかつ)とも取れる、言葉の元は、当時、60歳にならんとする、古武士の面影が残る山本常朝の真意だったろうが、それを、この言葉に置き換えたのは、泰平の世の武士の体感温度を、自らが感じ取っていた田代陣基ではなかろうか、と”信じたい”のである。
 
 週刊プロレスの編集に、編集長として携わっていた頃、若い編集者たちに「聖書はキリストが作ったんではない。俺達のような無名な編集者たちが作ったんだ」と、家に帰る暇もなく、コキ使った、後ろめたさもあり、こんな励ましの言葉を、よく投げかけていた。
                                 水無月之十三日


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煙管のけむりの 十六

 当ホームページの玄関口でお茶をすすりながら、インターネットで『武道通信』を読んでいるさむらい。気の良さそうなさむらいで、剣術の腕前はさほどでないかも知れぬ。しかし、ほんとに強い人とは、あまり強そうに見えない、という話は時代小説によくある。今の世、剣術で確かめることはできぬが、本当に立派な人は、あまり立派そうに見えない。俺は立派だ!といいたげな人に立派な人はいたためしはない、といのは今の世でも常識だ。
                  ■
 もしかして、このさむらい、剣の達人かも知れぬ。まっ、それは冗談として、さむらいの挿し絵を描いていただいた、小松直之さんから、先の船木―ヒクソン戦の感想が送られてきた。いま、この気持を露発しないと、仕事が手に付かないといことで、読むに絶えぬなら破棄してくださいとの添え書きがあった。
 それは示唆に富んだものであった。小松さんが、なぜ仕事に手が付かないことになったかは、船木が日本刀を手にして登場したことにあった。その船木の真意を小松さんは自分なりの考え、それに対しての感想求めてきた、と思われる。舌足らずなりに紹介させていただく。
                  ■
 試合前の高まる期待感、緊張感が船木の着流し姿で日本刀を手にして登場してきたことに水をさされた、と始まる。さむらい、というより任侠映画ではないか。刀の持ち方も逆ではないか……?
 小松さんは、なぜ日本刀なんだ? を考える。
「日本人が外敵に立ち向かう時のイメージは、いつもなぜかザムライと刀なのだ」と。
 ヒクソンという外敵に対して、船木はやはりサムライと刀で立ち向かった……が、
「本当に日本刀は外敵を打ち払うためのシンボルになりうるだろうか?」
 小松さんは2年前、明治初期、村田歩兵銃を考案した主人公を描いた劇画『イッテイ』(原作・兵頭二十八/四谷ランド刊)を刊行している。そのとき学んだ、武器としての日本刀と銃の関係。その知識を裏付けにし、「日本刀は常に外敵に向かってでなく、”内側”に抜かれるものなのである」「同質の価値観を持つ社会基盤」に成り立つ武器であるという。
                  ■              
 そこで船木、ヒクソン戦に戻る。
 船木の日本刀は、「相手とのコンセンサスが必要な世界、奇しくもそれは、”真剣を使った殺陣”と称された……そう、プロレス!!」「船木は非プロレス系格闘選手の中にあって、プロレスのしっぽを引きずる最後の人でもある」
 船木の日本刀は外敵を打ち払うのでなく、「プロレスをやるつもりだった」のであったと。
 リング内に”パフォーマンス”は持ち込めない。ルール交渉も含む戦略とリング内の戦術、そこはヒクソン一人の聖域である。そのヒクソン一人の聖域で船木は善戦した。
「プロレスと違い、敗者の居場所はリングにない」ことから船木はその居場所を「敗者の花道」に求めた。そのための日本刀であった。「日本刀を使った。自分の心に向かって」。
 そして、こう結ぶ。
「試合で使われることのないはずの、日本刀を手にして入場した時点で、少なくとも船木側にとっては、何としても相手を倒す戦いではなくなっていたのかもしれない。やはり、日本刀は内側に向かって抜かれていたのである」
                 ■
 ファックスをいただいたとき、奇しくも武道通信八ノ巻「論客・坂井三郎―前田日明編集長対談」を読んでいて、坂井さんの云う、大東亜戦争の敗因は戦闘における内戦思想にあった、と云う論にうなずいていた。
 次巻の論客対談合本号のデータ製作を終わり、机の上に積まれた既刊本をなつかしさもあり、各巻対談のページを広げ、流し読みしていたのであった。
 内戦思想とは「同質の価値観を持つ社会基盤」での戦いである。ノモンハンで事件の折り、制空権を握っていた日本の航空隊が空からの爆撃を敢行していれば、ロシアの戦車隊は壊滅していたろう。しかし、戦闘機乗りは「地上軍を空から攻撃する」などプライドが許さなかった。武士の矜持が許さなかった。第一次ソロモン海戦でも、米敵艦を全滅させながら輸送船を”武士の情け”で攻撃しなかったことが、ガタルガナルでの敗戦を招いた。小室直樹さんの著書で知った。
 もし、ノモンハン事件で空からの攻撃をしていれば、その後の状況は一変していただろうし、日米太平洋戦争でも、この例は枚挙のいとまもまないことだったのだろう。
 戦の技では敵に負けない自負があった坂井三郎さんは、その戦場にいて、この内戦思想を何度となく目にし、また命令された。日本の戦術(軍人)の敗北の因が、その内戦思想であったことを知り抜いておられるのだろう。行間にその悔しさが詰まっている。
                   ■
 日露、日清戦争までは、まだ、武士が生き残っていて、武の合理性が生きていたが、奇跡的勝利が、その後の軍人教育に形骸化された武士道を蔓延させた――これは『武道通信』の各卷筆者たちが何度なく書かれていた。
 いま電話が入り、別件を片づけならなくなった。ここで煙管をしまう。
 この内戦思想、その根のなった、小松さんの問う「武器としての刀とは」については
 後日、”ふかせて”いただく。ご無礼。
                                 皐月之三十日
                        


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                 煙管のけむり 十五

 『武道通信』のホームページを”インターネットで武道通信を読む”Web販売開始の6月中旬に会わせ衣替えしようと、他のホームページを足しげく訪問している。皆さんの”お家”の造りが立派で驚かされる。プロの設計士、建築家に依頼したものだろう。
 それに比べ、我が家のはまさに手作りの藁葺きの感がする。と、言っても、友人がボランティアで手助けしてくれたのであるから、自虐的発言をするのも、はばかられる。
 しかし、訪問慣れし、目が慣れてくると、建設材料も高級で立派に建てはしたが、その後、日々の掃除をこまめにしていないものも意外と多い。「どうぞ、どうぞ、御覧ください。立派な家でしょう」と自慢されても、粗茶杯も出ない(笑)。太田道潅(かんの字がなく略字)の「梅の木」の逸話ではないが、あばらや屋でも、心からのもてなしを受けた方が嬉しい。

                     ■
 日本のもてなしの作法に茶道というオリジナルな精神文化がある。インターネットという外来文化をどう日本化していくか、要は借り物でなく、我がモノとし、武器と成すか。第三次世界大戦はIT戦争である。世界共通の武器となったインターネットを我が得物とするには日本の精神土壌で濾過し、そこからオリジナルなソフト、戦略を生み出す必要があろう。(と、素人はそれなりに考える)
 情報のデジタル化の真骨頂は、インタラクティブ、双方向性にある。ここに茶道、茶の湯の心を活かせぬものか、と、あばらやの主は、ひがみ根性を内蔵しつつ、考えた。が、考えつかない。その代わり、十ノ巻で松岡正剛さんが茶の湯のことを書いていたことを思い出した。

                     ■
 茶の湯でいう「一客一亭」の心構えとは「覚悟と作分」にあるという。「胸の覚悟」と「景色の作分」? 舌足らずで解説してもしょうがない。抜粋させていただく。

《覚悟とは亭主の用意がどこまで徹底しているか、徹底できなかったとき、どこで踏み切るか。
そのことを迷わぬことをいう。
 たとえば、床の間の茶掛け(掛軸)を本阿弥光悦なら光悦の消息(手紙)にするか、それとも一休禅師の墨跡にするか、迷ったとしても、どこかでどちらかに踏み切らなければならない。それによって茶釜が決まり、茶碗が決まる。茶碗が決まれば茶花も決まる。いや、茶花は決めないで当日を迎えようというのでもよい。それならそれで当日の朝、庭を眺めてその日の気分で決定すればよい。そのほうがうまくいくときもある。それで埒があく。いずれにしても、そのような覚悟を決めることが重要だというのだ。
 このような覚悟が決まれば、ついで景色をつくる作分もおもしろくなってくる。
元来、茶の湯というものは、その次第の全体が景色の連続でできている。景色というのは、露地の景色だけではなく、茶碗の形や色も景色であり、茶杓の一本にも景色があるというふうにとらえる。それらの景色が連動していなければならない。それをつくるのが作分になる》

                     ■
 難解だが、それとなくわかる。どこまでわかったか自信はないが。インターネット訪問客はまさに不特定多数である。「一客一亭」ではないが、客に選ばれ、結果的に客を選んでいく過程で、この覚悟が必要になってくるだろう。不特定多数という膨大な”量”とのアクセス可能は、詰まるところ、膨大な”量”から選ばれる、また、選ばなければならない、己の”質”を問われることであろう。その覚悟をまずもつことなのだろう。
 インターネット時代の「一期一会」があるはずである。そんな気がしてきた。
 
 パイプのけむりは、晴天の日と、雨模様の日とでは立ちのぼるけむり輪郭が違う
ことに気づいた。何の足しにもならないが。
                                     
                                        
   皐月之十七日


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                煙管のけむり 十四
                     
 今日も五月晴れ。昨日は富士がよく見えたとか。郷里の母の実家の裏には茶畑が広がり、その後ろに富士山が茶畑を見守るように控えていた。当時は何でもない風景だったが、眼底に記憶された、その風景は、いま、かけがえのないものである。
八十八夜は三日前、いま茶摘みに忙しいだろうか。もう何十年と訪ねていない。

                     ■
 BudoshopさんのHPは、一足早く、模様替えしましたね。
 武道通信も六月からの「インターネットで読む」のWeb販売に合わせ、模様替えのため無い知恵を絞ろうと、他のHPを訪れ、勉強している。
 また新アドレス(http://www.budotusin.com)、新メールアドレスのへの変更手続き作業に、ここ数週間、パソコンの前に釘付けであった。こう言うと、カッコいいが、な〜に、根本的にパソコンの宇宙の法則がわかっていないのである。地動説を話として理解しても、身体の芯は天動説である。人が1時間でやることを2日かかっているだけのことである。
 ブロバイダーの簡単な指示でさえ、チンプンカンで、接続不能が続いた。半角アキのところを一角アキにしていたせいだった。この原因解明に丸2日かかった。
 若い者に依頼する手もあったが、次巻が前田日明編集長対談の合本ということもあり、多少手が空いていることから、自ら四苦八苦しなければ覚えない、この天動説を体で理解しよう覚悟したのだった。
 いつしかメインのデスクが、このパソコンの前に移り、いままでのデスクは、パイプの葉を詰めるだけのデスクになり、ワープロがぽっんと置き去りにされている。変われば変わるものだ。
 でも、人間が変わるのではない。人間はいつまでたっても人間である、取りまく環境が変わるだけだ。

                      ■
 こうして、パソコン英語に、データの書き換えに悪戦苦闘して、オタク化していくくせに、不思議とこのパソコンの向こうに、世相が映し出されてくるような気がする。
 終身雇用、年功序列の崩壊、中間管理職の消滅、そう中間仲介業の消滅。仲介を廃した個と個のつながり。キーボードを叩き、マウスを操っていると、学者先生のいう、これらのことが不思議に指先で実感する。
 そこから立ち上がってくるのが 言われて久しい「個人の時代」である。個人と個人のつながりが縦社会をスムースな平たんなものにする。と同時に群にまぎれたつつましくも安閑な日々は終わる。終わらざるを得ない。取りも直さず、敵と同じ新兵器を使いこなし、強靭な個による日本式新戦略を構想しなければ、本当に植民地にされる。幕末の維新の士ほどでもないとしても、似たような状況である。
いや、何もオジンのパソコンデスクがメインデスクになったことと、日本式新戦略の構想とは取りあえず関係がない。オジンも個を確立しないと、不幸にもなが〜くなった余生を生きられないとうことだ。

                      ■
 人生五十年余年、登頂し、いま無事下山したばかりの山を振り返り、己の人生、まあ、こんなものかと、感慨にふけっていれば良い歳なのに、極小の英語だらけの回線板に七転八倒し、未知の武器の使い方を必死で覚えている。これからの世(世界)、個は己を主張する得物(えもの)を持たなければ滅びる。世界一の高齢者社会では、五十ぐらいのひよっこも、また個であることを強いられる。
 以前、お聞きした極真の松井館長の話が思い起こされる。
 自分が越えてきた山を振り返り感慨にふけるだけの人、再び、目前に立ちふさがる山を再び麓から登り始める人。武道家は後者でなければならないと。この言葉を励みとしよう。

 つまるところ、個の確立とはサムライではないか、戦国の。武道精神ではないか。
 風雲急を告げる……。この言葉は好きである。 名も知らぬが、遠い祖先の戦いの遺伝子の血が騒ぐ。
 煙管のけむりのわりには、力んでふかし過ぎた。
                                     
     皐月之四日
                                     
     


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                  煙管のけむり 十三
                  
 先の週末の雨は、二十四節気の「穀雨(こくう)」であろうか。新暦の四月二十日ごろ降る春雨で、田畑を潤し、成長を助けるとある。花が散り、青葉に変わった桜の木に降る雨は、春の終わりと、夏を予感させる風情がある。とは言え、隣の家の庭の八重桜は、いまが五分咲きである。桜と言えばソメイヨシノだと思われ、この八重桜は心中面白くないだろう。「オレの方は、お前が生まれるずっと前から、日本人に愛でられていたんだ」と言いたいだろう。
                     ■
 たしかにソメイヨシノが発見されたのは幕末であった。染井村といういまの練馬区あたりにあった村(と、思うが)で、エドヒガシと何とかいう桜の自然高配種だったという。江戸が東京と変わったばかりの明治二年、イギリスの植物学者が、この花が多く、葉の芽が少ない、淡い桃色の見栄えのする新種を見つけプリムラ・エドと命名し、母国の学会に発表したと言う。
 染井村は”町興し”に、この新種の桜に「吉野桜」と名をつけ、売り出したら、たちまち江戸中で人気になった。明治初年、新政府は戊辰戦争の戦死者を奉った「昭魂社」(現・靖国神社)の入り口と境内に植えた。で、全国に広がり、桜と言えばソメイヨシノとなった。外国の地へ記念に植えられるのもこの吉野である。
                     ■
 桜は女性の化身として平安王朝、泰平と豊穣のシンポルとして桜文化を生み、後年、武士の桜に変わっていった。前回、ふれた土方歳三の「菊一文字」のように、異なる二つの文化、王朝文化と武家文化を融合させた日本刀の精神が生まれた。
 靖国神社にソメイヨシノが植えられたことから、いつしか桜が文化の担い手でもあった武士のものから軍隊の花にとって変わっていった。「貴様と俺とは同期の桜」と歌われ、青年たちの散華の思想となった。同じく、剣も近代装備の軍人の元、剣の「美、精神、機能」の三要素は忘れられ、軍人官僚の虚飾となった。明治期以降、軍が剣と桜を独占したといえる。
                    ■
 ここに、今日の日本をもたらした、何か重大なひずみが生じた。『刀と日本人』を著した小川和佑さんは、そう言いたいのではないか。また、三島由紀夫の割腹自決は、軍国主義の復活でなく、武士の時代の、一世紀前の日本刀の精神だったとも言いたいようだ。
 「武道通信」ニノ巻、三島由紀夫特集で「床几」に寄稿願った氏の先述の著書を読んだ記憶の糸から、前、今回の煙をふかしている。我らは、明治維新の江戸から東京へ変わった時点に立ち返り、日本刀の精神の変遷を辿ることをしなくてはならないのかもしれない。近代文学が無視した日本文化の奥深くにある、剣の思想を時代小説が連綿として、語り継いできたことは、それとし、夏目漱石、芥川龍之助、志賀直哉といった、日本近代の”最良の精神”たちが、なぜ日本刀を無視し、また嫌ったか。そして現在、日本刀が「美」の分野しか残らなくなってしまったか。
 日本刀が、明治以降の日本の近代をありようを解くカギになる、そんな気がする。
 
                                     
  卯月之十九日


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                 煙管のけむり 十二

 先の週末は、絶好の花見日和であった。国立の桜の名所は花見客で溢れた。しかし、桜もあと数日で散る。
 そして桜色に染まった街路樹も、いつの間にか新緑におおわれる。”新緑客”は集まらぬが、これまた美しい。この下を行き来する地元民の特権である。
                 ■  
『菊と刀』という米国人が書いた有名な日本文化論があった。天皇家の菊花紋は後後鳥羽上皇が定めた。以後、菊が武と対比される王朝文化、日本の歌文化の象徴となったが、それまでは『源氏物語』『古今和歌集』と歌文化とは桜文化であった。ホントは『桜と刀』が正しい。そんな説を何処かで読んだ。
 
 東国の武、刀文化に西の歌、菊(桜)文化は制覇された感がしたが、どっこい、刀の中にも生き続けた。後鳥羽上皇は自らの太刀の中茎(なかご=中心)に菊を刻んだ。武の文化に負けまいと、その桜(花)文化を武の中に留めた。以降、長い武の時代にも、この対極する文化は共生し、武士の中で生き続けた。
 ゆえに刀は単に武器でなく、精神性のシンボルとして生き続けた。ここに日本刀の独自性がある。
                  ■
 次巻(十ノ巻)で秋山 駿さんが言わんとしていることである。
司馬遼太郎『新撰組血風禄』に沖田総司のこんな話がある。
 沖田が研ぎに出した刀がまだ研ぎ終わっていないということで、それまでの替わりにと別の刀を受け取る。これが「菊一文字則宗」で、この小説にはこんな風に書かれている。
「……手にとって、一気に抜いた。眩むような光沢が芒が、沖田の視野に沸き上がった。二尺四寸二分。細身で、腰反りが高い。刃文は一文字丁字とよばれる焼幅の広いもので、しかも乱れが八重桜の花びらを置きならべて露をふきませたように美しい……」
 この帰り、沖田は襲われるが、菊一文字を抜くのを惜しんで、その場を逃げ去る。沖田はいう「この姿、これをいったん見た以上、血を血を吸わせる気がしますか」と。王朝の花文化が武の文化と共生していることを見事に描いている。

 この剣精神を語り継いできたのが「時代小説」である。対談で津本 陽さんが言っていた。
日本刀を手にし、また巻藁でも斬ってみると、体に中から、何か不思議な力が湧き出してくる。

                                 卯月之十一日
                                


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            煙管のけむり 十一

 国立には、花見の名所が二つある。
国立のシンボルである駅前から南に走る大学通りの街路樹の桜並木。いま一つ、この大学通りと交差する桜通り。満開時には、広い道路も桜の花のトンネルと化す。
 ひと昔前は国立の桜も”知る人ぞ知る”の感があったが、いまは観光地化した。
だが、それをなじってもしかたがない。”昔は良かった’と嘆く輩とて、ひと昔前は、この地の新参者だった。
 これは自分の桜だと、勝手に「すぎやま桜」と名付け、一人悦にいっていた桜が、一橋大学の東校舎のいまは”亡き”おんぼろクラブ室の脇にあった。3年前から一、二年生が合流したことで、この、雑木林の装いがあった無断侵入放題の解放区は真新しい校舎、研究室が建ち、多くの木々は伐採され、小綺麗に整備され、他人のようによそよそしくなった。
 かろうじて「杉山桜」は残ったが、もう「すぎやま桜」は内なる風景から消えた。当時、自分の庭の桜のように自慢し、この下で剣道仲間と宴を張ったのが懐かしい。そう、「花は桜、人は武士」の想いを描いていた。
 市民の桜まつりは大いに結構である。観光地化も商店を潤わすだろう。「花は桜」であることは変わりがないが、「人は……」である。
                    ■

 会津若松市の読者から九ノ巻の対談等での『武道通信』の「日本人はなぜ鉄砲を捨てたか?」の設問に対して異論をいただいた。史料に基づいた立派な文章で感銘した。
 日本人は鉄砲を捨てていなかった……。江戸時代に六百の砲術流派があった。ゆえに明治時代になり、軍用銃を国産化できたと。また、時代劇映画では「鉄砲は悪者の武器」との見解に、鞍馬天狗も矢車剣之助も坂本龍馬も拳銃を持っていたとあった。
その通りである。この設問はたぶんに象徴的な事象を云い、精神性において「鉄砲を捨てた」と言いたかったわけである。
 砲術家同士が仇討ちとなったら鉄砲を使ったか。非である。仇討ちではなくなるからだ。近藤勇が鉄砲で狙われ、危うかったことがあった。このように鉄砲は、非力な者が、権力者の暗殺を企むような、正々堂々でなくても、止む終えない場合のみ使われた。おかしな表現になってしまったが、おわかり願えるだろう。
 鞍馬天狗も矢車剣之助も坂本龍馬も、志を成し遂げるとき、一対一にとき、銃は使わなかったろう。それは「卑怯」であり、さむらいがもっとも嫌ったことだ。
 もし「鉄砲を捨てなかった」なら、新撰組が池田屋を襲撃した折、当初から倒幕組を一網打尽にするつもりだったから銃撃隊で行けばよいはすである。新撰組の頭の中には、剣と剣の勝負しかなかった。鉄砲を使うなど想像もない。相手もしかり。
 もし、砲隊を使っていたら、新撰組の美談は語り継がれなかったろう。


                ■ 
 土方歳三が函館、五稜郭の戦いで、最後、一人馬上にまたがり、白刃を掲げ、官軍の砲隊に「新撰組副長、土方歳三!」と大声で名乗り、突っ込んでいった。ゆえに『燃えよ剣』は、いまの日本人の心に響く。「鉄砲を捨てた日本人」は、いまなお日本人のこころの中にある。
 しかし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』に異論が出た。輩の居合の師である天然理心流十代の平井泰輔師範である。
 司馬僚さんにケチをつけるのでない。要は新撰組が、近藤勇、土方歳三が幕府に殉じたという通説にである。武州の百姓上がりゆえ、武士の理想像に燃えたという、新撰組への判官贔屓の通説にである。
 異論の発火点はふたつあった。ひとつは師が40年近く、天然理心流を学び、この剣術の持つ、異様さである、邪道というのではない。薩摩の示現流と共通するものがあるという。己の命と引き替えに、必ず相手の命を奪うことを第一とする。云わば捨て身である。
 もうひとつ、天然理心流が根を張った武州(八王子近郊)は天領地であり、八王子千人同心が根を張る土地でもあり、それに他の流派の縄張り争いもあったのに、なぜ、無名の一剣術家がすんなり入り込めたのか。多くの千人同心が天然理心流に入門している。


                ■
 この二つの発火点から、天然理心流初代、近藤内蔵之助(くらのすけ)は、柳生お庭番だった、という説に行き着いた。天然理心流のもう一つの秘伝は幕府「お庭番」だったと、いうものである。天明末、徳川幕府が揺るぎはじめ、危機感を持った幕府は、祖・家康に習い、江戸の護り口、八王子近郊に武田の遺臣団を土着化させた「八王子千人同心」の寛政版を意図したのだと。
 すると、四代目の近藤勇も、この秘伝を伝授していたはずである。死線をともにし、兄弟の契りを結んだ土方歳三にも伝わっていた。こう推察できる。
 いかがであろう。とっくりと読んでいただき、この説を論じ、愉しんでいただきたい。
                                
                                     
 卯月之一日


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                煙管のけむり 

 だいぶ日があいた。まだ十日ほどの間かと思っていた。九の日付を見て驚いた。
春眠暁を覚えず、というのは歳には関係なさそうだ。「煙管のけむり」は、大抵、朝の内に”叩いく”のだが、暁を覚えずで、その機を逸していたのかもしれない。

 来日したイギリスの考古学者でもある武道家が、福島の刀匠を訪ねた帰り、磐梯山の山間を車で走っていて、織りなす峰、紅葉、湖面に映る光を見て、「なぜ、あのような日本刀の波紋ができたのか、わかるような気がした」と語ったという。
 自然を写すという、ごく単純なことを我々、祖先もやってきたのだが、折り目の正しい四季の移り変わりは、精緻な自然の模様を幾重にも映し出す。その美しさに魅せられ、武器である刀剣にも写した。
 
 元来、剣は神器であった。これも日本だけのことではない。古代人が生んだ道具の中で一番、鍛錬した道具が剣である。だから神が宿る山や湖や草木の姿を、そこに留めようとした。剣にそれを留めるということに日本人は、特に執着した。
 
 日本刀は機能性(武器)としての冶金技術と刃紋、研磨の美を兼ね備えている。各民族性の美意識を超えて称賛されるゆえんである。日本の文化のパスポートである。外国の地で「日本人って何者ですか?」と訊ねらたら、黙って腰に差した日本刀を見せれば、言葉は不要である。
 
 まだ若い刀剣商の方が、刀や鎧をライトバンに積んで小・中学校を廻っている。
最初は怖がる子もいるが、しばらくすると目を輝かせてくるという。「正宗は? 村正はないの?」と聞く子も多いそうだ。なんだ、昔と変わらないではないかと安心する。文化の遺伝子は、そんなに簡単に消えないものだと安堵する。その子らが中年に域に達したとき、日本刀を通して、自分を、日本人を考えるだろう。刀剣商は、そう願っているのだろう。

 昭和30年代、子供であった、けむりをふかしている輩は、時代劇映画をよく観た。三本立てというものがあった。子供心に「日本刀のこころ」を知った。チャンバラ映画を観ることがない、今の子供たちも、なにがしらの形で連綿と遺伝子は伝わっているようだ。

 次巻十ノ巻の特集は時代小説を取り上げた。「時代小説礼讃。懐に時代小説、心に日本刀」と題して。 論客には「下天は夢か」の津本 陽さんに登場願った。
 先の刀剣商も、イギリス人の話の出所である方も、一頁コラム「床几」に登場している。俳優の藤岡弘さんが時代小説でなく、時代劇映画を語っていただいた。藤岡さんは日本刀の心を外国の人に伝えようと、日本刀をもって海外へ出向き、抜刀術を演武している。
 
 そう、この特集企画の趣旨を、文芸評論家の秋山駿さんが明解に答えたくれた。
日本の文化は「詩」と「武」の二つに文化の緊張と調和にある。しかし、明治の近代化以降、日本の文学、近代文学と言われるものは、この「武」のシンボルである「剣」を排除した。だが、この「剣の思想」を伝えてきたのが「時代小説」であった。だらか大衆小説とは根本的に違う。

 はじめに話そうとしていたことからずれた。風向きが変わって、けむりが流れたとご容赦。
 梅も終わった。桜はまだのようだ。「花は桜、人は武士――これだよ、日本文化の二元論を見事に語っているのは」。秋山駿さんの江戸弁の口調が、思い出された。
                                     
  弥生之二十六日
           

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                 煙管のけむり  九

 啓蟄(けいちつ)も過ぎた。暦どおり冬眠から目を覚ました虫たちは、もう地上に現れているだろうか。
この啓蟄という漢字は、地上に姿を見せた虫たちに同じ地球上の生物としての共生の精神で”拝啓”と挨拶するといった意味ではないだろうか、と思いたい。
 ワープロ、パソコンを使い始め、当用漢字で描く世界なんて漢字の世界の一隅でしかないことを知らされた。英語は26字。楽だな〜思うと反面、この森羅万象を26字の組み合わせじゃ土台無理だろうと、”差別”する。
                        ■
 大東亜戦争前夜の”敵を知る”作戦で、アメリカの脳テンキな諜報部員は「若い日本人は漢字を覚えるだけで精魂疲れ果てている。それでみんな近眼になり、ろくな射撃はできないだろう」と本国に送った。
 来日早々、漢和辞典でも見つけたんだろう。26字の世界の人間には理解不能だ。一方、日本の諜報部員は「アメリカの国民はバラバラで、とても一致団結して戦争なんかできっこない」と送った。単一民族の哀しさか。どっちもどっちだ。が、とにかく負けた。
 このふたつの「 」の中の話は、まだ学級崩壊なんて想像だにしない頃の中学で、教師が授業中に話してれた。しかし、教師の話しの意図は、後者の日本がアメリカを知らずして戦争をしてしまった、という自虐であった。このように教科書以外でも、自虐史観をすり込まれていた。
 兵法で言う「敵を知り、己を知る」。が、敵を知ると言っても自分のことの三分の一をも知ることは不可能ではないか。つまるところ兵法の基本は己を徹底的の知ることなのだろう。して、これが一番、難しい。日本は己を知らなくして敗れたのだろう。敗北の一番の理由だ。巷によく転がっている話だ。
                       ■
 コンピューターは英語圏の発明品であるゆえ、パスワードも基本的に26字の組み合わせである。
17歳のハッカーがペンタゴンに入り込めるわけだ。将来、漢字圏の小学生がアメリカのあらゆるコンピューターに入り込むかもしれない。先の原爆二発の仇討ちには、これがいいかもしれない。
 話が物騒になった。が、パソコンを漢字圏で発明していたら、堅固なパスワードが出来ていたはずだ。
 朝鮮は中国文明の長男坊だったのに、なぜ漢字を捨ててしまったのか。なぜハングル文字を作りだしたのか。漢字と併用できなかったのか。教えを乞いたい。
 漢字、ひらがな、カタカナを使う日本人の精緻さが日本刀に表れているという話を、こんなたわごとから始めようかと思っていたら急用が入った。
 後日、届けようかと思ったが、ブドーショップの主が早く時差ボケから立ち直るため、日常業務に忙殺させた方が良いのではと考え、取り合えす送るとする。

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煙管のけむり  

 ブドウショップHPの主が、ヨーロッパ、アフリカへ旅立ったことから、煙管のけむりをふかすのも
しばし休みか、と思っていたら早いもので、二十日たった。
 主は無事、帰国したのだろうか。この項が、明日、明後日、ブドウショップHPに載っていたら、無事帰国ということだろう。
 
                    ■
 毎朝、パイプのけむりをふかしてから、また、ふかしながら、パソコンの電源を入れる。
 大方、律儀にメール箱を確認する。先日、ロンドンの日系書店の店長さんからのメールが届いていた。
「弊店の英国人のお客さまで「てんじん しんよう りゅう」という柔術の流派をお探しの方がいらっしゃいます」。で、知っていたら連絡先を教え願えないか。お客様がご自分で、講道館へFAXで問い合わせたが
分からなかった。そんな折、御社のHPを拝見したということが、書かれていた。
 その古流柔術ファンの英国紳士?は、この春、来日するので、天神真楊流の道場を訪問したいそうだ。
 
                     ■
 奇しくもというのだろうか。その前日、日本武道館で行われた「日本古武道演武大会」で天神真楊流の演武を観ていた。講道館に問い合わせても埒があかなかったいというのが、古武道大会の場に身を置いて、その事情がよくわかる。
 現代武道と古武道は、まったく別の世界なのだ。だが、外国の武道ファンには、それは理解しがたいことだろう。剣道を学んでいる外国人は、古流武術の流派の連絡先を剣道連盟に問い合わせることだろう。
 武道の本家、日本では古流武術と現代武道は断絶されていることを彼らは、どこまで知っているだろうか。
 演武大会の観客席を、招待席を見渡せば一目瞭然である、剣道をなさっている方なら剣道形が、昇段試験のためにものでしかなく、それも一夜漬けのものであることを十分わかっている。
 ヨーロッパの剣道愛好者たちが、剣道がオリンピック種目になることを「柔道の二の舞にはしたくない。オリンピック種目になったら剣道ではなくなる」という理由で反対していると聞いた。剣道の看板を出しているが、中身は居合をやっていると。彼らが求めている武道は、現代剣道が失ったものなのだ。

                     ■
 ヨーロッパの武道愛好家たちの武道への感心度、理解度は、単にジャポニズムだけでない、人類共通の「身体と知」の在処を日本の「武術」の中に見出しているのではないか。それは、決して現代武道にはない。彼らはそう考え始めたような、気ついたような気がする。
「刀剣春秋」の2月号に、ロンドン刀剣大会で、前田日明の三尺三寸の太刀の製作者、松田次泰刀匠が絶賛されたのも、日本刀剣界と世界の日本刀愛好家たちの、先に武道界と同じような”食い違い”が見えるようだ。
その話は、次回で。
                                    如月之二十七日

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煙管のけむり  
『煙管のけむり 七』をふかすにあたり、煙管入れ(ファイル)を開いたら六の末尾の方で「大衆時代小説的範疇でない」とふかしているのが見えた。「しまった!」と叫んだ。大衆小説である、時代小説のファンである者が時代小説を軽んじるような事を吐いている。つれづれに綴っているゆえ、まだ、どこかに潜んでいる、近代文学、純文学至上主義が顔を出したのだろうか。せめて、出来の良くない時代小説と、ことわりを入れておくべきだった。
 代表的な時代小説を生み出してきた作家たちは、皆、近代文学に行き詰まりを感じ、近代主義に懐疑的になり、日本人の心性を辿っていった作家たちで、純文学作家に劣る作家たちではなかった。疑似西洋的社会の立居振舞が主流になったとき、”美しい日本”を連綿と語り継いできたのが時代小説だった。
 
                      ■
 先日、映画『雨あがる』を観た。「武道通信」HP掲示板に黒澤明が、晩年、もう野武士から百姓を守るようなサムライを演じるることが出来る顔した役者がいなくなったと語っていたと、どなたかが書いていたことを思い出しながら、この佳作を観て、映画館を出た。
 格別、雨があがったような気分にはならなかった。やはり生身の人間が演じる殺陣は、時代小説のそれとは違う、酷な話だが。時代も違う、黒澤明の『用心棒』とか今村昌平の『切腹』などと比較しても、詮無いことだ。
                     ■
 たしか映画の最後の辺りで、この剣客と妻女の二人を殿様が、剣術指南役に召し抱えるため、馬で追いかけるシーンがあるが、原作にはなかった思う。ここが小説と映画の違いだろう。観客に媚びる。黒澤が監督したら、このシーンは入れただろうか。
『梟の城』も幻滅すること請け合いであるからして、ハナから観る気はなかった。『御法度』も、あれは時代劇映画ではなく、大島渚節であろうから観ない。藤沢周平の『蝉しぐれ』などは、絶対に映画にしないでもらいたいものだ。
                     ■
 海外の地で、自分の立居振舞いの貧弱さを感じた。それが伝統文化の身体作法と無縁だったことに気づき、帰国して、すぐ剣道と居合を習った。居合いは、ここ多摩の百姓剣法と陰口をたたかれた天然理心流だった。もう一つ、その名を名乗る派があるそうだが、ここ三鷹の道場が本家とか聞いた。まあ、どちらでも良いが。
 幕末期の江戸の北辰一刀流や神道無念流とかに比べ、たしかに三流の無名に近い流派だったろが、京都での実戦では薩摩の示現流と並び名をはせた。
 校了明けで、久しぶりに劇場映画でも観るかと、特別この映画にこだわった訳ではない。主演の寺尾某が、この役のため七ケ月居合いを習ったと聞いていたので、その成果を見たかったこともあった。ここ数年、稽古もさぼり、思い出した程度に一人稽古をする身にとって、人様のことは云えたものではない、から感想は省く。
  
                      ■
 居合いの稽古で、月一度の巻藁斬りが待ちどうしかった。実際、人を斬るというのは、その瞬間、相手の顔が目に前に迫ってくることがわかった。先ずは度胸である。幕末で天然理心流が強かったのも頷ける。百姓上がりで失うものがなく、ただサムライに憧れた近藤勇、土方歳三たちだからであろう。
 習い始めた頃、剣道をやるなら居合は止めた方がよい、と云われたが正解である。二尺三寸ほどの日本刀での引き斬りと三尺九寸の竹刀の押し斬りを一緒にする方がおかしい。が、剣道をやる目的が、一本を取ることでなかったから、その忠告は無視した。
                       ■
 さきほどの、もうサムライをやる顔が、いまの役者にはいないというのは、名監督の台詞だとは、言い切れないものがある。映画館で、いまサムライの顔をもった役者は誰だろうと、考えたとき、松井章圭館長がよぎった。
 松井章圭館長とはじめてお会いしたのは、もう十五年前ほどになろうか。『格闘技通信』が創刊され、そう巻数を重ねない頃だったと思う。誌上で長田渚さんと対談してもらった時だ。
 「忘れ去られた、よき時代からきた若者」と云ったらよいか、博物館の中で、生きた塑像に出会った驚きがあった。礼儀正しいとかの次元でなく、あの当時、もう見失っていた、一途なものが身体から発せられている美しさあった。
 今巻の「前田日明が武道通信から連想する、この一枚」で紹介されている、江田島の海軍兵学校の写真集の若者たちの顔が実際、どのような顔であったか、戦後派の者には、もう自分の目で見ることはできないが、十数年前の若者、松井章圭の顔を見たことから想像できる気がした。
 この写真集のカメラマン、故・真継不二夫氏の娘さんに「床几」で聖地・江田島と題して書いていただいている。原稿というものを初めて書いた、と云われるが、剣道で云えば、欲のない、勝とうするのでなく、自然体の見事な一本である。
 
                                     
   如月之七日

                  
  

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煙管のけむり  

 前回は〈五〉のはずだが、〈四〉としてしまった。前口上でお断りしたが、”つれづれ”の勢いで綴っているので、ご容赦を。キーボード打ちミスもご容赦。正しい日本語が使われていないのもご容赦。
                      ■
 宮本武蔵の孤高が一瞬、見えた気がした。「見えた!」と叫んでみたが、叫んだ瞬時に霧散した。
 どう、見えたか云えと云われると困る。筆力の無さもあるが、見えたものが、孤高の悲しみなのか、孤高であり続けた意志なのか、孤高でしかありえなかった武蔵の存在なのか、見えたという、そのへんがよく、見えない。宮本武蔵をやろうと決めてから二ヶ月の間、「宮本武蔵」が念頭から離れない。
この四文字を日々、目にし、書いてきたせいか、何かが憑いたかもしれない。
                      ■
「五輪書」が書かれてから70年ほど経って「葉隠」が書かれた。戦国時代の末期から徳川時代の平時になった、この間の武士の心持ちの移りかわりをじっくり考えると面白い。だが、宮本武蔵はそんな通常の精神史には収まらない部分を持った異端なのであろう。それゆえに魅力があり、日本人の永遠のヒーローである。
 武蔵はすでに明治期の立川文庫で人気者だったようだ。吉川英治だけが宮本武蔵の発見者ではない。また、「五輪書」を「葉隠」を”発見”したのは新渡戸稲造、内村鑑三ら明治キリスト者だったという。欧米の倫理観(キリスト教)に対抗するものを日本から探し求めたとき、そこに武士道があったと、九ノ巻 編集長対談論客・松岡正剛さんが語っている。
                       ■
 日本人は懸待一如、剣禅一如も好きだが、そんなのクソ食らえ、という宮本武蔵も好きだ。
吉川英治が書いた「宮本武蔵」の影響もあるだろうが、決して、それだけでない。いや、吉川版・宮本武蔵は表層的なもので、この理由は、日本の政治史、精神史の奥深くにあるのではないか――そう睨んでいるのは軍学者(軍事評論家でも兵法学者ではない)の兵頭二十八(ひょうどう にそはち)さんだ。宮本武蔵特集で執
筆していただいている。ここを掘り下げていくと、「もののふ」「武士道」の源が見えてくる。四ノ巻の客・西尾幹二さんが、「鎌倉時代に、日本人はやっと精神的に安定したんですよ。一つの精神の秩序が形成された」と符合する。
                       ■
 この説を下敷きにし、極真会館・松井章圭館長の「宮本武蔵と大山倍達」、また、このホームページの主(あるじ)である、日本武道具の角田(かくた)芳樹さんの「大山倍達 知られざる文の世界」を読むと、大山倍達と宮本武蔵が同じ濃さの輪郭で、時、同じ人といった感じがしてきた。
 松井館長の云う、流儀にこだわらず、の共通の姿勢。大山倍達の書、画、詩に見るように、文武両道を目指した共通性が、単に吉川英治版・宮本武蔵を敬愛し、傾倒していただけでなく、武蔵と同時間を生きていたんではないか、と思うようになった。武蔵を同じ時代の隣町にいる良きライバルのように。
                      ■           
 歴史上の人物を真に理解するには、タイムカプセルにでも乗って、同時代を生き、同時代の空気を呼吸し、同時代の言葉を交わすでもしなかったら無理だが、大山倍達は、人間の力の可能な限りで、それを達成したのではないか。大袈裟な云い様だが、ふと、そんな気がした。
 大山倍達=宮本武蔵という、武蔵好きを誇張するような大衆時代小説的範疇でない、もっと深淵なものがあったのではないか。
 大山倍達は、宮本武蔵の生身を「見えた!」と叫んだはずだ。
                                  睦月之二十八日
                  
  

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煙管のけむり  

                

 寝起き、いや起き抜けと云うべきか、正しい日本語もろくに使えないのに、英語(要はアメリカ語)を第二公用語にしようと云われても、この歳になり、遅くればせながら正しい日本語を覚えようとしている人間にとって、大きなお世話である。
 
 寝起き、または起き抜けにパイプをくゆらすという悪い癖は治らない。いまくゆらせているのは「インディアンサマー」という名の葉。先日、パイプ屋で新しい葉が発売されたと教えられ、名前が気に入って替えてみた。アメリカ産だと思ったらデンマーク産だという。
 国立の大学通り、一橋大学正門へ行く手前に、めずらしくパイプ専門店が昔からある。この大学通りも私が国立に住むようになった二十数年前に比べるとかなり変わった。
 国立駅を背に、大学通りの左側を100メートルほど行ったのところに、私が永く勤めたベースボール・マガジン社の前身の恒文社があったそうだ。別に碑が建っているわけではない。半世紀前の昭和21年の話だ。もうそこまでいくと、国立の古い住人と思い込んでいる私にも”紀元前”の話だ。
 当事者以外、覚えている人はいないだろうが、『ベースボール・マガジン』創刊号の奥付けに「昭和二十一年 国立村」と僅かに、その痕跡が残されている。
                        ■
 それが一千年前となると、なおさらのことで書物に書かれているか、そのものが残っていなければ、我々が歴史と呼ぶ記録からは消えている。
 平安、鎌倉時代の太刀は多く残っているが、なぜ日本刀の独特な反り、曲線である湾刀が生まれたのか。それまで何千年も使っていた直刀が”突然”湾刀に変わったのか。戦いのスタイルが変わって直刀は不要になったというのが正論であろうが、いままで使い慣れていたものを、よほどのことがないかぎり、替えはしないだろう。
 騎馬戦になったことも挙げられるが、これら正論を論証する材料が不十分で、剣研究家や武道家が昔から、いろいろ考えたそうだが、これだという答えは出ず、いまだ「謎」になっている。
 その理由が書かれていたら謎にはならなかったろうに。武器の機能性は、その時代に文化の先端だろうし、部族の運命を左右することで、なぜ、そんな大事なことが記されていないのか、またそれも謎である。
 当時の文書に数行でも、そう「魏志倭人伝」のように。『国民の歴史』では、この倭人伝の信憑性を疑っている。これは画期的なことで、ある意味では快挙だが、私の知る限る、この説をとってきた多くの歴史学者の反論をいまだ聞きいていない。
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 「武道通信」創刊号で刀剣研究家である高山武士(たけし)さんは、湾刀を最初に使ったのは古代東北軍、
蝦夷ではないかという大胆な説を語った。この湾刀に惨敗した大和朝廷の軍は、それ以後、直刀を湾刀に替えただろうと推察する。確証があるわけでないし、まだ検証途中で、いまは感だ、としか云えないと。
 近年の発掘で、いまでこぞ縄文時代が想像を超える文化を持っていたことがわかったが、高山さんは日本の刀剣を研究していく中で、古代に遡り、鉄文化、巨木を切る道具としての鉄器を考えていくことから、すでに十年以上前から縄文文化の高度さを予言していた。
 従来云われていた大陸からの鉄の導入時期も疑問視している。司馬遼太郎さんの鉄文化の考察をも一蹴する。アカデミズムの考古学は、発掘されないものは存在しないとなっているが、日本のこの酸性土は鉄器が発掘されにくい。何でも大陸から伝わったと云っておけば済んでしまう。
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 日本刀の美しさの一つに、えも云われぬ反り、湾曲の美しさだろう。日本刀と呼ばれるのは、この湾刀になってからのものだ。この反りの度合いも時代によって微妙に変わる。
 平安時代、鎌倉初期のものは反りが深いが、南北朝、室町前期になると反りが浅くなり直刀に近づく。そして江戸時代初期には、またかなり反りが深くなり、江戸末期には直刀に近い形になる。なぜか戦(いくさ)の頻度が多くなると直刀に近くなると、思えないこともない。
 湾刀になった理由を機能性より日本人の美意識が大きいと云う人もいるし、江戸末期の剣術家の誰かが、直刀の方が斬りやすい、実戦では直刀の方が良いと云っていた。
 もうひとつ面白いのは、時代によって変わる反りの度合いも数学の定理に合うという。
 数学で云う懸垂線というものだそうだ。反りはいままで円の一部とか放物線だろうと云われていたが、各時代を代表する刀を何十本も知れベたら、これは懸垂線の一般線にすべて符合するという。
 これも創刊号で、新潟の研師の倉島 一(ひとし)さんが発表している。
 倉島さんは長年の疑問を解くため、多くのデータを集め、新潟大学の数学の教授に調べてもらった。高度のコンピューターが出した結論だ。当時、高度の数学定理がわかっていたわけでない。各地の刀工がそれぞれの目と手で反りを作ったのだが、それが皆、同じ数理の反りだったということだ。それも何百年に渡って。これも謎だ。城の石垣や神社仏閣の屋根の反りとも関係がありそうだと云う。
 和弓の形にしろ、湾刀にしろ、どうも日本の武器は機能性だけでなく、美しさに大きな比重を置いたと云える。それは武器を単に機能性優先でなく、もののふの魂としてきたからだろう。
 日本人が鉄砲を捨てたのも、そのへんの精神性にあるのだろうか。
                                     
   睦月の二十日

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煙管のけむり  
 正月も六日が過ぎた。年賀状もちらほらEメールでいただくご時勢となった。まだ文面だけだが、写真を取り込んだ、現在の印刷された年賀状と同じものが送られてくる日もそう遠くないだろう。         一週間以上も前に書くこともないし、初日の出を拝んだ感想やデジタルカメラで撮った初日の写真をも送れ、受け取った方も臨場感が湧く。また、年賀状ので同時挨拶も交わせる。
 しかし……である。あのはがきの寸法の中に新年の祝いを収めるという、そんな形は崩れるだろう。慣用句より字数が多いからといって、写真があるからといって送った人の心がより多く伝わるかと言えば、そうでもあるまい。
 毎日、キーボードの前で、春をharu、武士をbushiという日本語を書いているのだから、一年に一度ぐらい下手でもいいから毛筆で、硯で墨を摺って、あのはがきの寸法の中に、農耕民族の祖先から伝わっている春の訪れを告げる喜びみたいなものを書き綴った方が良いと言うのが正論かも知れない。それに習い始めた俳句や和歌を添えれば上出来である。
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 20年近く前、幼稚園の運動会での父兄の感想文というものを書かされたとき、次世紀には、今では考えられないカメラで親たちが子達を写しているだろうと書いた覚えがある。
優れた機能性の新製品に飛びつくのは当たり前のことで、十何年前のわが家のビデオも昨年末、ついに「不燃物」となった。
 しかし……である。武器ほど機能性が求められるものはないはずである。武器の機能性は死か生の大きな差となる。部族、民族の滅亡となる。
 日本の武士はなぜ、機能性より禅問答の材料になるような”美しい”だけの和弓を捨てようとしなかったのか? 
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 紀元前中国で作られた強力な弩(ど・いしゆみ)は大和朝廷時代に伝わり一時使っていたことが記録されているという。また二度の元冦の役のとき、射程200mを誇る元軍の短弓で多くの鎌倉武士たちが射られた。しかし、役後大量に残されたこの理想的遠戦兵器を模倣することはなった。出来、使いこなせる技量は十分にあったのに。
 これは次巻九ノ巻で、齊藤 浩さんが「和弓から武士の世界を見る」で書かれていることの一部だが、和弓がなぜあの形なのかは、未だ誰もが納得する答えを出していない。馬上から射つから下が短く上が長いのだとよく聞くが、握りの位置が下から三分の一あたりといっても二メートル二、三十ある長弓なのだ、鞍の上でも登らない限り正面、左右を狙えない。左手で握るから左側しか射ることができない。流鏑馬(やぶさめ)を見れば一目である。騎馬民族最強のモンゴルの兵士たちは馬上で和弓の方が機能性が高かったら短弓を捨てていたろう。斎藤さんが、ここでその謎に挑んだ。その訳は古く縄文時代にあったと。
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 弓の弦はひと昔前は麻弦であったそうだが、切れやすく高価なことから今では、ほとんど合成の弦である。私も一度、意地になって麻弦を使ったがいつの間にか合成に戻っていた。高価ということより確かに切れやすい。それに、たかが弦一本の話だが、大げさに言えば何かと手間がかかる。手間がかかることが現代人の一番不得意とすることで、便利が一番好きである、もう心と体のリズムが”便利さ”に淘汰されたのだろう。
 刀の手入れも、戦前はよく使われいた重い(濃い、要は良質の)油は、時間がかかると敬遠されて、今では安くて軽い油が好まれているとか。日本刀よ、お前もかと言うところだ。これは次巻の「刀剣講話」での刀の手入れの折、高山武士さんが語ってくれたことだ。
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 弦音(つるね)という音を耳を澄ませて一度聞いたことがある。矢が放たれた瞬間の弦がかえるとき出る音である。得も言えぬ音である。これは麻弦でなければ出ない。合成の弦のはただの”音”である。この弦音を楽しむ風情も和弓の要素である。殺傷の武器に風情を求める武人など他国にはいなことは確かだ。
 鉄砲が日本に渡り、久しくなかったろう日本の武器革命が起こった。このポルトガルから伝わった火縄銃を当時の世界最良の銃に改良し、大量生産することが出来たのに、日本の武士は”ある日突然”銃を捨ててしまった。外国の日本研究家の多くが「なぜだ?」と調べるのだが、誰もわからないと。彼らからみれば、邪馬台国がどこかより、日本史最大の謎だそうだ。
 これも次巻の編集長対談で論客の松岡正剛が語っていた。私の解釈だと、鉄砲の出現で無用の長物となった和弓への義理立てである。弓は東海一の弓取りと言うように長い間、日本の武士のシンボルだったからであると。もちろん冗談である。
 次巻の紹介ばかりしているようで気が引ける。で、日本刀の話に移る。
 と、ここで邪魔が入った。ゆえに日本刀の話は次回に継ぐ。
                             平成十二年睦月六日

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煙管のけむり 〔三〕

 元旦。一年で一番静かな朝が明けた。これは昔から変わらないようだ。
子供の時分、外に出るのに勇気がいたほど、元旦の朝の町内は静まりかえっていた。
元旦は弓道道場で恒例の新年射会が催される。通常の霞的(かすみまと)でなく、金色の色紙を貼った金的(きんてき)や、花札の絵柄が描かれた色的(いろまと)を”当てっこ”する。
今年は午から帰郷するため、残念ながら欠場。                                                    ■

昨日、大晦日、射の納めと、”一人射会”をした。この様な射のときだけ、”当てっこ”から解放され
身技体の射を意識する。が、そうでもない。当たらないと、もう一射、一射となる。
 三、四年前だったか、鹿児島の”弓の名産地”(地名が出ない、朝酒のせいか)での世界大会に出場し、来日したフランスの女性が、当道場を訪れた。
当道場は道場主の師であった安沢平次郎十段を奉ってある。安沢先生は阿波研造門下でオイゲン・ヘリデル博士と兄弟弟子であることから、未亡人と多少に交流もあったようで、ヨーロッパの弓道人には知られた道場らしい。以前はフランス、ドイツから”留学”に来たそうだ。
 かの四段のフランス女性にとって、弓道の国、憧れの日本を訪れた折、ぜひとも、この道場を訪れたかったのだ。アメリカの大学でフランス文学を教えているということで、英語での会話は不自由はしなかった。いや、私が不自由しなかった、ということではない。お別れパーティの折、英会話に不自由しない道場の仲間に、そっと”オフレコ”だと言って、こう言ったそうだ。
 フランスで弓道をやっていた時は、「的は当てるものではない」と教わってきたが、憧れの日本へ来て、九州でも東京でも、皆から「当てろ、当てろ」と言われたと、子供ぽっく微笑んだという。
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 和弓がなぜ、あのような形になったのか。当てるなら握りは中心にあった方がよい。アーチェリーなら二、三年で、霞的の30センチほどの的ならほとんど当たるそうだ。和弓は八段、七段の教士、範士クラスでも、調子が悪ければ半分も当たらない。ヨーロッパの人間から見たら、「これが禅だ」と思われてもしかたがない。
 
 和弓の形の謎、日本刀がなぜ湾刀なのかを、浅学をして、諸説を話そうと思っていたが、新年の朝酒を予定量より飲み過ぎたせいで、いまから帰郷の支度にかからなくなり、次回に継ぐ。

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煙管のけむり 〔二〕
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 寝起きにパイプを一服する悪い癖がついた。天気が良いと窓を少し開き、一日で一番元気の良い朝の陽を額に受け、しばし、けむりが朝の寒気に交じり、消えていくのを眺める。悪い癖と云え、人様に迷惑をかけるわけではない。自己責任の範疇(はんちゅう)である。
 人にとって一番悪いこととはなんだろうか。一昨日、「非道」という言葉を聞いた。もう、忘れかけた日本の一つである、その方(かた)が「非道です」と口にしたとき「非道」という言葉が辞書から飛び出し、まだ耳の底に、その方の音声として残っている。
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 一昨日、極真会館へ出向いた。次巻の原稿とするため、松井章圭館長に故大山倍達総裁の宮本武蔵への想い、また館長の宮本武蔵論を聴くためだった。話が終わり、テープを切った直後、「前田さんの具合はどうですか」と訊ねられた。
テープを切るのを待っての話なので、これはオフレコであろう。話の中身は避けるが、その時、館長の身体の輪郭にオーラのようなものを感じた。2時間近く、テーブル一つ挟(はさ)んで話していたばかりだから、よくわかった。そして、それが「前田日明闇討ち事件」への義憤(ぎふん)からだということも。
 顔穏やかにして、身体は平常心の鎧(よろい)をまとい、心中、これほどまでの
怒りを秘めた姿というものを初めて目の当たりに見た気がした。会館を後にしたとき、館長がその中で言った「非道です」という言葉が耳の底に残った。
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 館長は武道家とし、格闘家として、闇討ちの卑劣さを充分にわかっているのだろう。そこには命より大事な誇りを自ら捨て去った者の下劣(げれつ)さと、相手の誇りをかえり見ず、抹消(まっしょう)することを企てた蛮行(ばんこう)さがある。どんな戦いも、その元にあるは誇りと誇りと対峙(たいじ)である。格闘家が武道家が、戦うわけはそこにある。
 天を失った我らは「道」も「義」も見えなくなり、「非道」を制裁しる力も失せた。しかし、武という鍛錬を積んできた者には、まだ見えている。「非道です」という声が、その証(あかし)だという気がする。
                                      
平成十一年師走之二十二日                ■

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煙管のけむり 〔一〕

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 親父が最後の海外旅行をしたいと言っている、と郷里の姉から聞いていた。が、体力的に無理なので、海外でも”琉球”にしておこうと、姉が親父兄弟たちに声をかけ、最後の兄弟旅行と言うことになった。で、たまには親孝行せい、と親父の”車椅子”役を担わされ、校了日を控えた慌ただしさ真っ最中の先月末に出かけた。
 親父は大正5年生まれ。「武道通信」八ノ巻の前田日明編集長対談の論客・坂井三郎さんと同年。同じ歳でも、零戦の撃墜王「大空のサムライ」は対談する二日前、アメリカから帰ってきたばかりだった。

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「戦争論」を特集企画にしようと決めたとき、まだ対談の論客は決まっていなかった。戦争論という、少々、いや、かなり、やっかいな特集ゆえ論客の選出は慎重にならざるを得なかった。ここ近年、やっと大東亜戦争肯定論が、陽の当たる場所で大声で論じられるようになった。いいことである。しかし、日本、日本人論を論じていく入り口で、大東亜戦争肯定か、否定か、という二者択一の踏み絵を踏ませられるような気配も漂う。
 ここで「武道通信」は考えた。この踏み絵という二者択一を強制する考えを危険だとする姿勢を持ち続けたい。名のある大本営の参謀の名も挙がった。また気鋭の戦争論の評論家の名も幾人か挙がった。しかし、彼ら戦争時は子供であり、また生まれていなかった「戦争を知らない」世代だった。先の大戦を最前線で戦った経験を持ち、確固たる論を持つ論者はいないか?まさに「燈台下暮らし」とはこの事、いたではないか。                             ■

 坂井三郎。出撃二百回余、空戦百回余。撃墜した敵機六十四機。そして生き残り、敵アメリカ軍人から今でも賞賛されている零戦パイロット。
我らもいつしか大東亜戦争を己の思想を語る”物差し”としてしか論じない手合いになっていたのではと恥じた。論客の選出は正解であった。

坂井さんには三ノ巻の「戦記を読む」でも登場願っていた。お話をお聞きするため巣鴨のご自宅を訊ねた。初対面の挨拶が済むと、応接間に設けられた、戦友と自らが葬ったアメリカ軍パイロットの霊を奉った神棚に「礼拝いただきたい」と坂井さんは軽く頭を下げた。坂井さんの戦争論の底流にあるのは国家、民族の存亡の為に戦う 「かけがえのない命」なのだ。だから堂々と悔いない戦いをする。だからこそ、その命を軽んじる「戦争論」に激怒する。
 若い方に、立ち読みでも良いから読んでいただきたい。日本武道具店主・角田さんは、黙認してくれる方です。                    ■         

平成十一年師走之十四日

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