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目次-1 | |||
コラムNo.1 ̄No.72 | |||
1.戦争論 | 2.非道 |
果たして、路上とかで暴漢に襲われたとき、誰かを助けるとき、とっさに本やビデオで覚えた技が出るのだろうか。身体にしっかり覚えさせておかないかぎり無理だろう。友人同士で何度も繰り返して覚えたとしても、見ず知らずの暴漢への恐怖心に打ち勝てるだろうか。 |
佐山聡さんと塾をひらくこととなった。「若きサムライ育成塾」でという。 いまこの国に必要なものはサムライになろうとする意思の力だ。これは輸入に頼らず自給できる<産物>である。芽を出し花開き実をつける地力はあるはずだ。草莽の地でその畑を耕そうということだ。 佐山聡(サトル)、初代タイガーマスクの出現が『週刊プロレス』創刊の因なり、佐山さんが興したシューティングが『格闘技通信』創刊へとつながった。ともに総合格闘技の時代の扉を叩いた同志であった。かれこれ20年前になる。そして総合格闘技がプロレスを押しのけ時代の先端に立ったとき、奇しくも二人は武士道という地平に立っていた。 1月、佐山さんが一水会ファーラムで講演したのを機に再会した。その前に会ったのが6年前、ベースボール・マガジン社在社時、プロレスカードの肖像権の承諾依頼でお会いした。そのとき小輩の内に『武道通信』の火種が宿っていた。佐山さんの内にも「修闘」から「掣圏道」への軌跡の火種が宿っていたのだろう。 日本の空手、柔道の格闘技の核に武道があり、その心の置き処に武士道がある、あらねばならない。空手家、大山倍達はそれを公言し自ら戒しめ、実戦してきた唯一の格闘家であった。そこに大山倍達の偉大さがある。 戦争が終わり、敗戦の廃墟で戦場で名を挙げる時代遅の夢を持ち続けた青年は、宮本武蔵に己を重ねる空手家となった。 サムライ空手家が逝ってから十年がたった。大山空手の心はいまの総合格闘技に息づいているだろか。 ※「若きサムライ育成塾」の要項は、本日配信の武道通信かわら版に載せた。近日、武道通信HP告知版に載せる。 平成十六年 皐月 |
先日、佐山サトル(初代タイガーマスク)と兵頭二十八さんとの対談が行われた。 |
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先にふかした「茶店の一服」で「マバラカット特攻慰霊祭」の感想記は終わりにし |
54話 坂井三郎の<奇襲> |
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49話. - 松井章圭―前田日明対談の帰路に |
48話. 現代の「サムライ」と「軍学者」 |
47話. 武州下原(したはら)刀 |
46話.「国士」 13日、田中光四郎さんのアフガン支援チャリティパーティが行われた。会場のアルカディア市ヶ谷(私学会館)の五階から展望できるJR路線の土手の桜並木の桜はつぼみを膨らませていた。来週には三分咲きになるだろうか。 |
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四十四話 題して新年射会の扇 煙管のけむりも<禁煙期間>が大分続いた。当方の事情と角田主(あるじ)の事情が重なったこともあるが、今日、煙管でもふかそうと思い立ち、きざみ(ネタ)を詰め込むと、いつも「アフガンのサムライ」になってしまう。同じ銘柄ではと思いつつ火が、いや日が流れた。 で、「アフガンのサムライ」は本家の茶店の一服としよう。併せお読みいただけたら幸いである。 で、何をふかそうか……。今年初めてであるゆえ元旦のことからにしよう。 我が弓道道場の恒例の新年射会が元旦の午後から行われた。女性陣は通常の道着でなく皆、華やかな着物姿である。昨年入門した新人たちは先輩に襷(たすき)掛けを大慌てで教わっている。自然、新年の華やかさが道場に溢れる。 昨年の小輩、どこかで自慢したが、新年射会一番の大手柄、金的“一番乗り”を果たした。 今年はこの一番手柄は逃したが、扇(=せんす)を射止めた。安土(あづち)に扇を広げ、それを射た者が扇を手にする。道場主の北島芳雄会長の新年の挨拶が一筆書かれている。 これも自慢話であるが、この扇、当たれば穴があくので実際には使いものにはならない。しかし、小輩の矢はなんと扇の元の、その骨(竹)の間に突き刺さり、二本の骨の間に土が突いただけでの完全無欠の扇を手にした。平家の女官が船の上に掲げた日の丸の扇の元を射て、その日の丸の扇がひらひらと海上に舞ったという那須野与一の腕前に匹敵する。(何をおめでたいことを云っとる。正月も、小正月もとうに過ぎたというのに) <おめでたい>話はこの辺にして、オイゲン・ヘリゲルの「射における武士的芸術」にしよう。新刊十七ノ巻に掲載されている。 これはあまりにも有名な昭和11年にベルリンで行われたヘリゲル博士の講演である。ヘリゲル博士と阿波研造の兄弟弟子であった安沢平次郎十段の弟子である北島芳雄会長が、弓道にはまったく無知な翻訳の部分を補足し、原文に忠実な題として「射における武士的芸術」とした。(HP新刊案内に詳細が) 小輩の父親は、この伝説的弓道家、阿波研造に会っている。(あれ、また自慢話になった) 当時の中学時、父は弓では鳴らしたようだ(本人談で当てにはできないが)。就職先の仙台支店勤務になったところ、この支店長が大の弓道好き。で、弓の全国レベル(これも本人談)が入社したということから、社員に弓道を奨めるため弓道場を造ることになったそうだ。父は支店長から阿波道場へ行き、安土の造り方を教わって来いと云われた。そこで阿波研造に出会った。直接、指導は受けたことはないと云っていた。受けたと嘘でもついてくれたら、また自慢話が出来たのだが(笑)。 日本の弓=禅となり、ヨーロッパ、世界に発信したヘリゲル博士の功績は大きい。いまなお海外に弓道家を育ているのはヘリゲル博士であると云って過言ではない。我が道場がヘリゲル博士と縁があるこを知って訪ねてくるフランス、オランダ、オーストリラの若者は、皆一様にヘリゲル博士の「日本の弓術」をあたかもマルコ・ポーロの「東方見聞録」のように読んでいた。日本の弓道へ憧れを抱き日本の土を踏んだのだ。 確かに和弓=禅はヨーロッパの知識人には魅惑的なものだったろう。しかしヘリゲル博士はいう。 【禅の雰囲気とは関係の浅いものであって、まったく異なった条件の下に現れ得るのであり……その根は、第一に日本の「民族精神」の中に求むべきのものであり、しかもこれは「自然」と「歴史」に規定され、仏教と接触しない前にも既に力強く働いて居たのであります】 この講演は翻訳という仲介があることもあるが、ヘリゲル博士の哲学的解釈は難解である。北島会長はドイツ語博士でも、ドイツ語が堪能な知識人でもない。ただ安沢先生から聞いたヘリゲル博士、阿波研造に対する敬愛の念から必死にドイツ語がわかる弓道家達からアドバイスを受け、この講演の云わんとしていることは和弓=禅でなく、武士的芸術だと導き出した。 さすがである。これは掛け値なしで自慢できることである。 射会から帰宅すると昨年末逝った義理の姪の子が父親と居た。 この手柄の扇はその子にお年玉と云ってあげた。まだ一歳半の子に那須野与一ばりの自慢話をしてもしょうがない。これはこうして頭を叩くものだ、と手に持たせ小輩の頭を叩かせた。子は大はしゃぎで叩き続けた。 睦月之二十二日 |
四十話 神風特別攻撃隊 一昨日、帰国した田中光四郎さんにお会いした。“アフガンのサムライ”は沈痛した面もちでアフガンの悲しみ、そして憤りを語った。その折りのことはHP掲示板(無銘刀)に書いた。お読みいただけたら幸いです。 話は国と国で“正義”の戦争をしていた第二次世界大戦時に飛ぶ。 昭和19年10月25日、マニラの北方約100キロの地マバラカットから午前7時25分、神風特攻1号機敷島隊が飛ぴ立った。今年も25日、この地で慰霊祭が行われる。縁あって参列することとなった。 特攻は作戦として<外道>なのであろう。しかし、敗戦直後に生まれた少年にとって映画で観た特攻隊員は、宣戦なき卑怯な奇襲の汚名と母国の敗け戦の悔しさに一矢報いてくれた英雄であった。もし特攻隊が無かったら、少年は時代劇映画のサムライの矜持を信じなかったかもしれない。 NYセンタービルへの激突シーンを何度も見せらていたとき、イスラム原理主義者と呼ばれる者たちの少年のことを思った。 余談である。 この慰霊祭は昭和49年、マバラカットの小学校の教師ダニエル・デイソン氏が関行男隊長が率いる敷島隊、谷暢夫、中野盤雄、永峰肇、大黒繁男の5人の特攻隊員の愛国、犠牲的精神に動かされ、旧飛行場跡に「神風の碑」(日比友好の碑)を作ったことから始まった。 しかし平成3年(1991)のピナツボ火山の大噴火で祈念碑は泥流に埋もれてしまった。そのを惜しんだマニラ在住の日本人有志が4年前、碑の再建運動を起こした。自由連合の徳田虎雄代表らが協力し、慰霊祭が行われるようになった。 特攻1号機敷島隊が飛ぴ立った時間に、フィリピン空軍軍楽隊が日・比両国国歌を演奏、さらに日本からの参列者による『海ゆかば』の斉唱が行われるという。しかし、いまだ日本大使官からの参列はないという。日本の政治家でも参列したのは徳田氏だけである。 昨夜、アメリカの特殊部隊数百人がタリバン解体の為、アフガンの地に降り立ったというニュースが伝えられた。 田中光四郎さんが語っていた。大部隊を地上に投入してもソ連の二の舞になると。アメリカはそれを充分承知なのであろう。しかし、アメリカが最も恐れている“宗教戦争”となったら、アメリカ本土へのテロは激化するだろうとも。 神無月之二十日 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 杉山頴男(ひでお)事務所 〒186-0002東京都国立市東3-4-8 TEL042-580-6428 FAX042-580-6438 sugiyama@budotusin.com http://www.budotusin.com ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ |
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題して「十五夜に思う」 本日は十五夜であるが、あいにくお月様は雲の中だ。 郷里の秋は霊峰富士の頂の初雪とともにやってくる。一週間前に降ったと聞いた。昨日、北アルプスの立山連邦に薄化粧したそうだ。 昨日は忙しかった。弓道道場の月例会(大会)、来客と私的なものも含め、「よう!日本一」と長嶋監督が引退し、「よう!USAイチバン」とイチローが91年ぶりに大りーがー記録を破り、「よう!世界一」と高橋直子が世界記録をつくった。 猪熊功氏の訃報もあった。自殺だという。“文弱の徒”の江藤 淳氏でない武道家が……と、意外な気がした。その昔、『格闘技通信』で猪熊氏に一度、インタビューしたことがあった。 「山下泰裕は勝つ柔道ではなく、負けない柔道」――相手の懐に入らないと一本を取れる技はかけられない。それは相手にも技をかけさせるリスクを負う。 「最近の日本人選手は畳の生活をしてないから弱い」――腕力の強い外人選手に立ち向かえたのは、座る文化を持つ日本人の下半身の強さだった、そんな意味だった。 昨夜のNHK「北条時宗」で、時宗が幼い息子に弓を教えていると、奥方が人殺しの武器を子供に教えないでくださいと愚痴るところがあった。時代考証というものは着物や舞台装置だけではあるまいに。脚本家が女性であるせいであろうか。ホームドラマ的仕掛けが鎌倉武士像を歪(いびつ)なものにしている。 鎌倉武士の子らは、ケガをしようが不具者になろうが、弓と馬術を徹底的に叩き込まれた。強い弓を引き、落馬しない術を身につけることが、生きるための最低条件だからだ。それが武士の親の努めである。 博多の商人、謝国明に鎌倉武士と対極させ、“平和主義者”としての商人道を語らせる。時宗の兄にも、その道を歩まさせ、「戦争と平和」を、このドラマの核としているようだ。原作は読んでいないが、この二元論は根深くあるが、鵜呑みには出来ない。 平家から始まり、戦国の武将達も大陸貿易で得た利益で時代を切り開いてきた。薩摩も長州も大陸との“私”貿易の利益があったから明治維新の首領になり得た。武士=被商業主義=被平和義者という安易な構図を持つのは、大河ドラマらしい。 筋がつながらないけむりをふかし続けている。 田中光四郎さんが角田さんのところへ「アフガンへ行きます」と挨拶に来たことをお聞きした。 田中さん、もうアフガンの地に立っていることだろう。昨日、「茶店の一服」に田中光四郎さんのことをふかした。 角田さん、いま行われている「論客対談」の小松さんと佐々木さんの「零戦談議」愉しみにしていましたね、いかがですか。 神無月之十五日 |
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題して「手前味噌」 当HPの主、角田さんは1ヶ月ほど赤道周辺を放浪してきたという。貴重な経験をなさったことだろう。いつか、ゆっくり体験談をお聞きしたいものだ。 「茶店の一服」でのサンフランシスコ講和条約の話の続きをふかそうと思っていた矢先、例の「同時多発テロ」がラジオから伝わった。 最近、テレビとは無沙汰していたが、この夜はめずらしく朝4時まで付き合った。 昨日、『武道通信』の愛読者からメールをいただた。(ちなみに「愛読者」とは、メール、手紙等で、なにがしらの交友があった、またある読者。「読者」とは、まだ交友がなく<顔>が見えない方とかってに決めている) 愛読者の妹さんがニューヨークの大学にいて、安否が気になっていたが、本日(12日)、メールが届いて安心したとあり、ついては参考までに妹のメールを送りますとあった。 アメリカ人、それもニューヨークの人でも、その感じ方はいろいろあると云う、そのメールを読ませていただいて、次巻の嘉村 孝−戸部マナマリア対談の、こんな一節を思い出した。 長く新聞記者として海外特派員を経験した戸部さんは、日本の記事、報道はアメリカ人は、メキシコ人は、韓国人は、中国人はと、その報道はみな画一的だが、アメリカ人でも韓国人でも、みな一人一人違った意見をもっているのだと云い、それは記事が個人の責任で書く、署名記事の習慣がないからだと云い、嘉村さんがマスコミ人はお家大事の武家でなく、個人の尊厳を持った武士になれと云う。 記者クラブというのは横並びの談合サークルであり、それが取材対象との馴れ合いを生み、売らんかなの商業主義が内省の権力争い利用される。戦前の戦意高揚を煽った新聞は、これにはまったのだった。小泉構造改革の監視役を自認するマスコミこそ、真っ先に構造改革をなすべき対象である。 日本の新聞、マスコミの正体がいかなるものかも、その因はどこにあるのか、奇しくも次巻の各対談で語っている。 司馬遼太郎の「この国のかたち」が“正なるかたち”であるならば、その裏にあるこの国のかたちの“負のかたち”が、次巻対談で見えてくる。 サンフランシスコ講和条約の話でも、米国を震撼させたテロの話でもなく、手前味噌の話になってしまった。 平成十三年 長月之十三日 |
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題してパールハーバー 長く“禁煙”しました。 選挙運動も終わり、街宣車でなく自前の車で郷里へ帰った。 着くとすぐ海パンにTシャツ姿で浜辺へ向かい、海に飛び込んだ。薄曇りで尾瀬崎は見えなかった。 しばし海面に漂っていた。岸から上がり、今度は千本松原の蝉しぐれを身に浴びる。 シャー・シャー・シャー・シャーと天と地から沸き上がってくる。国政選挙立候補という奇策を企てたこの夏も終わった。そう、終止符を打つ思いで、蝉しぐれの松原を抜けた。 さて、騒々しい8月13、15日も終わって、17日、次巻の前田日明編集長対談が行われた。論客は兵頭二十八さん。以前からこの組み合わせを機していた。初対面は公示前の決起大会に共に応援弁士をお願いした折り済んでいる。 編集者の愉しみは逸材に出会い、原稿を依頼していくなかで、今の世の常識を壊していこうとする共犯者関係が生まれところにある。プロレスへの“差別撤回”、格闘家の“社会認知”……そして武力を日陰者から日向(ひなた)に出そうと試みる。 兵頭さんは日本人の戦争観に異議申し立てをし続けている。古今東西、武力とは何かという視点を持っての自論だ。まだその声は広くは届いていないが、思考停止したような大新聞を読まず、何でもその場限りのお祭り騒ぎにしたいだけのテレビを消し去れば、彼の云わんとすることが耳に届く。 氏の近著『パールハーバーの真実』(PHP7月刊)は、技術戦争としての日米開戦を分析したものだ。 真珠湾で大勝したのに、なぜミッドウェー海戦で大敗したのか? 真珠湾の奇襲作戦が成功したのは、航空母艦から発進させられた艦上攻撃機と、それから発射された航空魚雷の三点セットだと云う。山本五十六はミッドウェー海戦では、自分に馴染みのないこの三点セットを捨て、自分が創設した“空の要塞"である空中艦隊に駒を変え大敗を喫した。自らが育てた「陸攻」の機上で戦死した――。 これを1頁目に日米の技術戦争の細部にわたる検証から導き出されたのは、当時の日本人は現代戦争に向いていないところがあった……それは何か。 この自著を決起集会の折り、兵頭さんからサイン入りしたものを戴いた。隣りの席いた前田日明がタイトルを見て「オオ!」と叫んだので渡すと、食い入るように読み始めたので譲ることにした。 後日、本屋で探したが二店売れ切れで三店目で見つけた。トルーマン大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたという長年の説を事実として検証し話題を呼んだ訳本が出、ろくでもない映画(観てはいないが)も封切られ、パールハーバーものがブームになったことも影響あろうが、でも、ブームに乗った企画のようでいながら、ミーハー発想とは無縁な硬派な「兵頭二十八」に、このような専門的視点からのものを書かせたPHPの編集者は見上げたものだ。名著とは編集者の勇気で生まれる。 葉月之十九日 |
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題して 「いつの日か、ネット選挙運動」 8日、池袋駅東口で街宣車での演説のための予行演習なるものを試みた。 |
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題して「武道家が食えない日本」 先ほど『武道通信』HPの掲示板に参議院選挙出馬に至った心模様をふかして来た。 少々叙情的だったかな、と苦笑する。まあ、あれはあくまで小輩の心の奥に潜む通奏低音である。 ベースボール・マガジン社在社当時、多くの武道の協会関係者たちにお会いし、大会取材をしてきたことの経験から、武道(精神)の興隆は、川下、波打ち際とでも云おうか、《町道場が食っていけなければならない》という結論を持った。要は剣道、柔道、弓道道場、古武道場があらゆる町で目につくような風景である。協会会員数の増減が理事会の一番の関心事でないような健全な光景である。 在社中、弓道家の村川平治さんと本の出版を機にいまでもおつき合いいただいている。そして以前、村川さんが云っていたことが、武道の興隆を考えるときの小輩のキーワードになっている。 「いますぐでも、弓道場を作れる土地と資金があれば、弓道指導に専念したい。村川流を伝えたい」。それが偽らざる言葉であることは、本の制作のため何度もお会いしていたからよくわかった。 かつての道場はそうであった。そのような思いに焦がれている剣道家、柔道家、また古流武道家が全国の数多(あまた)おられることだろう。 長年のプロレス、格闘技の雑誌編集、武道の書籍編集を通し、おのおのの団体の衰退の大きな原因は、マネージメントに弱点がある、ということだった。優秀な指導者、素質ある選手が育たぬまま、巷(ちまた)に埋没していく。 村川さんが道場を持てるようなマネージメント・システムを作ることである。現実的問題として、とりあえずこれを国家予算で賄い、それを維持、管理する部署を作る。軌道に乗ったら、国は手を離し、道場主の独自の努力で経営、道場維持を任せる。かつて武道が国家教育に粗(から)め取られ、武道精神にゆがみを来した経験を持つ。 村川さんはイギリス弓道連盟から指導の依頼をたびたび受けている。「村川さん、日本弓道連盟の束縛があるなら、思い切ってイギリスとかヨーロッパで道場を開いたらどうですか、日本では食えないですけど、海外なら食えますよ」と、けしかける。その言葉に、村川さんがしばし沈黙するのは、いかに武道本家、ニッポンの武道土壌が貧困である証であるからだ。 この度、編集者風情が被選挙権を行使した理由は、このような武道家たちの思い、志を<編集>し、国政の場で実現させようという魂胆があるからである。 これは通奏低音でなく、「武(選挙)で大事は勝つこと」の精神である(笑)。 |
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題して日本を変える 新保守主義が急速に<日本の常識>になるぞ、こんなことをつぶやきながら、小泉自民党新総裁の記者会を観ていた。 武道通信十四ノ巻の論客・松本健一氏は、新保守主義の台頭で右翼の存在意味が無くなったと。それに対し、一水会の木村三浩氏は近著「右翼はおわってねぇぞ!」で新右翼の存在意義を提示した。両書を読んでいただければ幸いです、ここで浅学の徒が、この両論を紹介しても蛇足になる。 小泉新総裁は云う「自民党を変えることで、日本が変わる」と。選挙で「日本が変わる」だろうかと、かねがね首を傾げるのだ。自民党は地方議員の選挙で変わるだろうが、いま問われている、日本が変わるということは民主主義の数の論理だけではないだろう。そこには他者の血が流れ、己が血を流すような残酷な蹉跌があるのではないだろうか。歴史で数少ない無血革命にしても、その前夜、多くの血が流れた。そんな時代錯誤のような事を云うなと云われると、二言はないが。 木村三浩氏と酒宴での折り、氏が右翼に求められるものは何でしょうか? というようなこと聞いてきた。かなり呑んでいたので記憶は曖昧だが、その質問の前、新保守主義の台頭のことを話していたと思う。私は「殺気」と答えた。新保守主義と云われる現象には殺気が感じられない、そう常々に思っていたからだろう。人殺しの殺気ではない、変革の殺気である。そのとき氏は酒など呑んでいなかったように真顔になり、深く頷いた。 いま思うと外連味(けれんみ)な事を云ったもんだと、穴があったら入りたい。ただ、この人なら外連味なく云えるだろうと思う方がいる。 いま、当Budoshopの主、角田さんと武道通信HP「Web論客」で昔話しに花を咲かせている。角田さんが語っていた「アフガンのサムライ」と云われた武道家、田中光四郎氏である。角田さんの3/28日に書き込まれたものを読んでいただければ、田中光四郎氏の輪郭がおわかりいただけるだろう。 田中氏の著著『不二流体術』(壮神社刊)の広告を武道通信に掲載した折り、版元からいただいていた。アフガニスタン民族戦線の義勇軍として参戦し、旧ソ連兵と戦っていた日々、戦場で書き記していた日記代わりのメモが載っていた。氏は激戦の中、和歌を詠んでいた。その一つに「死に顔の白きに哭けて草枕 抱き起こす身の未だ温かきに」という歌があった。それがなぜか強く印象に残っていた。 20歳の若者が被弾し、片足膝から下が飛ばされ2時間近く生きていたが、医療器具、薬もなく手のをほどこしようもなく、ただ彼の名を呼び続けた。助けることが出来なかった無念さを詠んだものだ。 世界の警察に守られた平和日本で、投票箱に一票投げ込むことで変わる日本とは? ただ景気さえよくなれば「日本は変わった」と安堵する一票になってしまうのではと危惧する。バブル経済の所業のあさましさは、半世紀過ぎ、先の大戦を生き延びた者が「抱き起こす身の未だ温かきに」を忘れ去った故だ。 卯月之二十五日 |
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題して安沢東宏(平次郎)十段 事務所から100メートルほどに「射徳亭」という名の弓道場がある。前を通っても一見気がつかない。二人立ちの小さな的場であることもあるが門の脇の木立のせいもある。「射徳亭」と命名したのは安沢東宏(平次郎)十段であった。昭和35年から亡くなる45年までここは安沢範士の私設道場であった。 小輩が入門している国立弓道道場の北島芳雄会長が師と仰ぐ安沢範士に提供したものであった。七、年ほど前(と思うが)に入門した小輩は当然、面識はないが、国立弓道場には安沢範士の遺影や、安沢範士が死期を悟り鎌倉円覚寺の須原耕雲和尚、北島会長らと阿波研造下の兄弟弟子であったオイゲン・ヘリゲル博士の墓に参った折りの写真が飾られている。また北島会長が我々初心者に指導するとき、「安沢先生はこんな風に言っていた」とよく語っていたので、身近な存在であった。 先月、安沢平次郎十段の33回忌の追悼射会が行われた折り、北島会長が昭和45年に刊行された安沢平次郎十段の著書『大射道』を再出版された。参加者に贈与されて、この著をはじめて知った。 的中率を高めたいと思っている姑息な輩は、真っ先に目次から「弓道十節解論」を見つけ、頁をめくる。うむ、十節? 二節多い。「射法八節」は弓道を嗜む者の、初心者から高段者まで永遠のバイブルである。三、四段までの昇段の筆記試験は必ずこの八節の中から一門、「射法八節の「足踏み」について述べよ」とか出題される。 どこで二節多くなったのか。よくよく見ると「大三」と「弓倒し」が独立の節とされている。八節では、大三は五節の「引き分け」の初動作に入れられ、弓倒しは最後の八節「残身(心)」の最後の動作として添付されている。 別に取り立てて騒ぐこともない。<異節>を唱えているわけではない。安沢師範の頃は十節だったものが、その後、全日本弓道連盟がこの二節を前後の節に入れ、八節と定めたのかも知れない。 安沢範士の十節を読んでみた。戦後派が読むに、いささか古風な表現であるが、安沢範士流十節の基調となすものは呼吸である。まだ未熟者が読んだのから恐縮して言うのだが、安沢範士の十節に通じることは、動作の流れに呼吸を大事に考えていると察した。すると「大三」「弓倒し」を別節として独立させたくなるだろうと一人合点がいった。 4年前、ベースボール・マガジン在社のとき村川平治教士七段の『克つための弓道』を企画、制作した。当然、村川氏の八節を表してもらった。我が射に役立てようと取材の折り、メモしたことを思い出しながら的場に立ったことが思い出される。氏は特に「胴造り」と手の内(弓を握る手)を意識していたように思われる。 一家言ある方はそれぞれに「私の八節」があって当然である。それが流派の元であるからして、それを云々するのではない。ただ古武術が現代に伝えられていく課程で、当時の人には当然の理であることが、それ以降、わかりやすく伝えるためにか、細部の解説、解釈が増え、基本の基が省略されていき、いつしか忘れさられてしまう。そんなことを古武道研究家に聞いたことがある。時代が急激に代わり、身体の使い方も変わっていく中で、次の世代に伝授する難しさがある。 安沢師範は明治21年生まれである。明治生まれの武道家はほどんどいないだろう。彼らが伝えようとしたものは何かと、<春の短い夜>睡魔と戦い読破する。 <北島会長と相談し、この著を少しでも多くの弓道家に読んでいただこうと、弊社、杉山頴男事務所で販売することとしました。詳しくは武道通信ホームページ「掲示版」に。> 卯月之五日 |
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「自分の国を知ることが、国を愛すること」 ひめ丸の引き上げが可能だと云う。その引き上げ方法が報じれれていた。 ふと戦艦大和を引き上げることは出来ないだろうかと、そんな切ない思いが過ぎった。 太平洋ソロモン諸島やガダルカナル島など、太平洋の島々には、まだまだ多くの戦死者の遺骨が野ざらしになって、まだ祖国に帰れないでいる。 ご遺族、また遺族でもなく遺骨収集に参加しておられる人たちもいる。その方たちは、えひめ丸の引き上げをアメリカに迫る世論を、どんな気持で聞いているのだろうか。 これはアメリカに迫ることではない、あくまで日本自身の責任である。 そう云う輩も、かつてグアム、サイパンへ観光旅行した折り、空港へ着陸するとき、かすかに過ぎったにすぎない。もう忘れてしまおうとする、多くの日本人の一人だった。 そう忘れないでいる人たちがいることさえも、見て見ないふりをしてきた。そんな人間が、この機に乗じ、えひめ丸の引き上げを声高に叫ぶのも気がひける、そんな自虐な気分が襲った。 <日本軍があんな遠い島でいったい何をやっていたのだろうか…> 10年前、バリ島に気分転換に訪れた、平均的戦後世代の若者が<直立不動で私に向かって敬礼する老人>に出合った。 <老人は日本人である私と会えた嬉しさに目に涙を浮かべていたのだった> そして<日本軍があんな遠い島でいったい何をやっていたのだろうか…>と、初めて考え、彼は、老人の涙の意味を知りたくなった。 <そしてついに発見した。あの老人の目に浮かんでいた涙の意味を。それは『バリ島の父』として、バリ島民の古い記憶に留まる日本人、三浦襄であった。> <三浦襄が私に教えてくれたのは、愛国心とは「持つべきもの」ではなく「知れば持たざるを得なくなるもの」なのだということであった。他人からの強制や押し付けでなくとも、それを知れば心を改めねばならぬようなことがある。> 日本軍が南の島でしたことは教えられてきた蛮行ではなかった。このような日本人がいた。 <人を愛することを死ぬまでやめなかった先人たちの痕跡だ。稲穂の向こうで敬礼していた老人は鮮烈な印象を残し、「戦後教育」という呪縛から私を解き放った。それは私が〈日本人〉で良かったなと思った、最初の瞬間だった。> 次巻「床几」<愛国心―三浦襄>に掲載される神崎夢現氏の原稿を引用させていただいた。 氏は、特攻隊戦没者平和祈念協会が行う平和観音法要をお手伝いしている。それはグアムで知った「知らされていない歴史」を知ったことからだった。 論客対談で、小子化への危惧を松本健一氏に問うた。 <自分の国を(いいことも悪いことも)見ないようにした戦後の歴史がある。グローバリズムはいま飾り言葉で使われているが、日本人が日本のことをよく知って、自分の国を愛さねばならない。愛するために正しい歴史を教えなければならない。小子化の問題も、若い人が、これから生まれてくる子らが好きになってくれるような国にすることが第一……> 国を愛することとは、国を知ることとみつけたり、と、当ホームページ、角田主(あるじ)のハワイからのおみやげの煙管の煙の素(パイプの葉)をふかしながら考えさせられた。 弥生之十一日
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先ほど、愛機Macが、昨日に続き、固まった。 |
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子供時代よく見た、チャンバラ映画で「今宵の……血に飢えている」なんて、深夜、悪いサムライが日本刀をかざしているシーンがあった。 |
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元旦の朝を迎えた。本日、一月二十四日は旧暦の一月一日である。 やはり、これぞサムライ! と喝采したのではないだろうか。この地の地下水には反骨の血脈が流れている。 それから十年後、九州、佐賀の地で、山本常朝が「何がサムライぞ、殿様が切腹したら、すぐに仇討ちをするのが筋。策略をろうするなど、上方武士道さ」と語り部、田代陣基に向かって話していた。 |
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昨年年末にPH掲示板・無銘刀に、こんな書き込みがあった。全文、引用させていただく。 |
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今世紀最後の「煙管のけむり」など馬鹿なことは言わない。皇紀2660年最後の……も戦後派には何か無理がある。素直に平成十二年最後の、としておきましょう。 この大晦日はPCの前で年を越しそうである。 この格闘劇、いい年して正直、結構疲れる。ひと昔前のオジンなら、己の経験を偉そうに吐いていれば良かったものを十も二十も若い人に教えを乞い、悪銭苦闘して”進化”していかなければならない。エライ時代になったものだ。 来年(明日)の年賀状は、今年と同じ、『武道通信』巻末の「無銘刀」のメッセージを小さな文字で載せ、また「読むのに時間のかかる年賀状」とするはずだった。 ●『武道通信』八ノ巻 平成十二年一月刊 |
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前述した『刀と日本人』(光芒社=TEL 03-5269-8361 FAX 03-5366-5423)が刊行されるようで、楽しみにしている。 刀と日本人の関わりを記紀神話の古代から検証し、日本の刀剣の革新と完成を見た後鳥羽院へと至る。院にとって刀剣は王朝文化、つまり、桜文化を具現するものだったという。 以上は、版元の解説文を引用させていただき、要約させていただいた。 その差説化のキーワードに西洋の「原罪」に代わるものとして日本の「恥」をクロースアップしたのである。 この書があたかも優れた日本人論として敗戦後の日本人は受け入れてしまった。この「拝外主義」から、もういいかげんに脱却しなければならない。そのための好著である。 |
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朝、ほうきで掃いたような雲が、冬空になりかけた空にゆっくり流れていた。 偶然、手にした火坂雅志を三冊読み、気に入り、立て続けに読もうかと思っている。 『刀と日本人』の著者、小川和佑(かずすけ)氏が次巻、時代小説、歴史小説の名刀に見る武士道ともう一つの日本美と題して、日本刀と日本文学の中でどう扱われてきたかを語る。 |
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煙管のけむりの 二十四 中身の話である。 まだページをパラパラとめくっただけで栗原彦三郎なる人物を評する知識がないが、この添え文から察するに、戦前の政界、軍部との強いつながりから刀剣界の「戦犯」とされたのだろう。 |
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煙管のけむりの 二十三 武道通信に「侍の嗜(たしなみ)」を連載されている名和先生から、原稿の打ち合わせで、お電話いただいた。 その折、今卷の編集長対談論客の古岡勝(まさる)氏が兜割りに挑んだ話が出てくるが、この兜を提供したのが名和先生だったとおっしゃった。井伊家の赤兜という逸品で、還ってきた兜は1センチほど食い込んでいたそうだ。 割れ(斬れ)はしなかったが、兜をかぶっていたら脳震盪(のうしんとう)を起こしていただろうとのこと。 水瓶を斬った刀と同じものだから兜割りには向いていなかったのだろう。当時、兜を斬るには、そのようの刀があったと云い、蛤刃がよいと、前々回の論客、藤岡弘さんが語っていた。 古岡さんのような達人だから、氏が云う、折れても惜しくない刀でも、1センチも食い込むことができた。斬り手のレベルが下がれば、たとえ名刀でも斬ることも、食い込むことも不可能な話になる。 ■ 前田日明が対談の席に”日明刀”を持参した。この刀は一昨年の日本刀剣美術保存協会の新作刀剣展で、特賞を授与された刀である。しかし、これら刀剣審査は「美」が鑑賞の基準であって、「機能」(斬れ味)の基準はいっさい考慮されない。試しようがないのである。 現代の刀工は「美」の基準で競う。その為の刀剣製作である。しかし……。彼らの胸の内に、この刀は斬れるれるだろうか? (機能性はどうだろうか)という念はあるはずである。 ”日明刀”の松田次泰刀匠も、この刀の持ち主である前田日明も、現在では何人もいないであろう居合の達人に、美術鑑定家でなく、日本刀の大きな要素である、機能性を「武家目利き」と云う実戦の鑑定の目で観てもらいたかったのである。 先の敗戦で、「日本刀は武器にあらず、美術品である」と戦勝国に云い訳した。生き残りのためのカモフラージュが、いつしか、我が身に馴染んでしまったのか、「機能性」は軍靴の響きともに遠くなった。 しかし、日本刀を武器として使うことがなくなったといっても、命を託す「斬れる」という視点がなくなってしまったら、日本刀の魅力は、「美」のマニアと投資家だけのものになる。「深刻な問題は、この刀が斬れるか斬れないかを試せる、斬り手がいなくなったこと」と刀剣展の片隅で囁きあっていたのを聞いたことがある。 先の敗戦の折、第三次刀狩により(一次、秀吉、二次、明治の廃刀令)、自己防衛の行使さえ放棄した。これが日本刀から「斬れる」という要素を失わさせた因がある。 ”刀狩り”をいまだ拒み、銃を捨てようとしない、アメリカ人の野蛮性がうらやましい。 このHPの主(あるじ)、角田さんの「小柄工房」は、刀剣美術家でも投資家でもない日本人が、日本刀は「斬る」もので、いつも身に帯びているもの、というサムライの嗜(たしなみ)を取り戻そうする「大河の一滴」である。 長月之二十三日 |
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煙管のけむりの 二十二 この度のミニ引越で、IT時代になると物を捨てるという感覚、意識が変わるだろうなと、玉の汗を流しながら「ハイ、さよなら」「ハイ、さよなら」と、本、カセット類から家財道具、古着、食器などを捨てながら、儂(わし)とて考えた。 |
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この『小柄工房』は、それを第三者が応援するというものだ。工房に参加した方が、我が子に、また孫に、父の、祖父の作った小柄を「守り刀」としプレゼントするというということもありうるだろう。 「茶店の一服」も、この暑さでとどこうる気配がするので、このつづきは「茶店の一服」でふかさせていただく。 |
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「小柄工房」の一日 <その一>
小雨の中、待ち合わせの丸井デパートの前へ向かう。Budoshop(日本武道具)の角田(かくた)さんがすでに車の中で待っていた。Budoshopはここから徒歩で10分ほどのところにある。少し待つ内に、 車は西新井へ向かった。車の中で、角田さんから『鐵(てつ)のある風景―日本刀をいつくしむ男たち』森 雅裕著(平凡社/平成十二年六月刊)をいただいた。 車は足立区西新井の高野刀工の自宅にある鍛練所に着いた。
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煙管のけむりの 二十 これも余談。 |
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煙管のけむりの 十九 このアメリカの言い分を聞いて、大東亜戦争戦争が、陸軍、海軍の縄張り争い、面子、既得権保持で、一国の戦略を誤った。開戦前に、零戦をもっと造っておけば、初戦の戦果はもっと大きく、以後の戦況は変わったはずだ。しかし、陸軍が、海軍へのその予算を許さなかった。小室直樹さんの著書を思い出し、坂井三郎さんの「軍閥が敗因の大きな理由」と、怒りを表した顔を思い出した。 日本がまた瀬戸際に立たされている。アメリカの世界戦略に対抗し、「勝つために、各省の言い分はわかりながも、何を優先させるか」――日本が自尊の道を歩むための戦略の決定権を握っている”大本営”は、この国民の歴史遺産の智力を信じ、堂々、挑んだらどうだ! と、政府のHP掲示板に書き込みたくなる。 |
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煙管のけむりの 十八 二百九十年前の話をしよう。 前回のつづきのつもり。 |
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前回から半月近くたった。ゆっくり煙管もふかせなくなったのも、皆、パソコンのせいである。いや、上手く使えこなせない、己のせいである。 |
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当ホームページの玄関口でお茶をすすりながら、インターネットで『武道通信』を読んでいるさむらい。気の良さそうなさむらいで、剣術の腕前はさほどでないかも知れぬ。しかし、ほんとに強い人とは、あまり強そうに見えない、という話は時代小説によくある。今の世、剣術で確かめることはできぬが、本当に立派な人は、あまり立派そうに見えない。俺は立派だ!といいたげな人に立派な人はいたためしはない、といのは今の世でも常識だ。 |
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『武道通信』のホームページを”インターネットで武道通信を読む”Web販売開始の6月中旬に会わせ衣替えしようと、他のホームページを足しげく訪問している。皆さんの”お家”の造りが立派で驚かされる。プロの設計士、建築家に依頼したものだろう。 ■ ■ 《覚悟とは亭主の用意がどこまで徹底しているか、徹底できなかったとき、どこで踏み切るか。 ■ |
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煙管のけむり 十四 ■ ■ ■ つまるところ、個の確立とはサムライではないか、戦国の。武道精神ではないか。 |
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煙管のけむり 十三 先の週末の雨は、二十四節気の「穀雨(こくう)」であろうか。新暦の四月二十日ごろ降る春雨で、田畑を潤し、成長を助けるとある。花が散り、青葉に変わった桜の木に降る雨は、春の終わりと、夏を予感させる風情がある。とは言え、隣の家の庭の八重桜は、いまが五分咲きである。桜と言えばソメイヨシノだと思われ、この八重桜は心中面白くないだろう。「オレの方は、お前が生まれるずっと前から、日本人に愛でられていたんだ」と言いたいだろう。 ■ たしかにソメイヨシノが発見されたのは幕末であった。染井村といういまの練馬区あたりにあった村(と、思うが)で、エドヒガシと何とかいう桜の自然高配種だったという。江戸が東京と変わったばかりの明治二年、イギリスの植物学者が、この花が多く、葉の芽が少ない、淡い桃色の見栄えのする新種を見つけプリムラ・エドと命名し、母国の学会に発表したと言う。 染井村は”町興し”に、この新種の桜に「吉野桜」と名をつけ、売り出したら、たちまち江戸中で人気になった。明治初年、新政府は戊辰戦争の戦死者を奉った「昭魂社」(現・靖国神社)の入り口と境内に植えた。で、全国に広がり、桜と言えばソメイヨシノとなった。外国の地へ記念に植えられるのもこの吉野である。 ■ 桜は女性の化身として平安王朝、泰平と豊穣のシンポルとして桜文化を生み、後年、武士の桜に変わっていった。前回、ふれた土方歳三の「菊一文字」のように、異なる二つの文化、王朝文化と武家文化を融合させた日本刀の精神が生まれた。 靖国神社にソメイヨシノが植えられたことから、いつしか桜が文化の担い手でもあった武士のものから軍隊の花にとって変わっていった。「貴様と俺とは同期の桜」と歌われ、青年たちの散華の思想となった。同じく、剣も近代装備の軍人の元、剣の「美、精神、機能」の三要素は忘れられ、軍人官僚の虚飾となった。明治期以降、軍が剣と桜を独占したといえる。 ■ ここに、今日の日本をもたらした、何か重大なひずみが生じた。『刀と日本人』を著した小川和佑さんは、そう言いたいのではないか。また、三島由紀夫の割腹自決は、軍国主義の復活でなく、武士の時代の、一世紀前の日本刀の精神だったとも言いたいようだ。 「武道通信」ニノ巻、三島由紀夫特集で「床几」に寄稿願った氏の先述の著書を読んだ記憶の糸から、前、今回の煙をふかしている。我らは、明治維新の江戸から東京へ変わった時点に立ち返り、日本刀の精神の変遷を辿ることをしなくてはならないのかもしれない。近代文学が無視した日本文化の奥深くにある、剣の思想を時代小説が連綿として、語り継いできたことは、それとし、夏目漱石、芥川龍之助、志賀直哉といった、日本近代の”最良の精神”たちが、なぜ日本刀を無視し、また嫌ったか。そして現在、日本刀が「美」の分野しか残らなくなってしまったか。 日本刀が、明治以降の日本の近代をありようを解くカギになる、そんな気がする。 卯月之十九日 |
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先の週末は、絶好の花見日和であった。国立の桜の名所は花見客で溢れた。しかし、桜もあと数日で散る。 この剣精神を語り継いできたのが「時代小説」である。対談で津本 陽さんが言っていた。 卯月之十一日 |
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国立には、花見の名所が二つある。 会津若松市の読者から九ノ巻の対談等での『武道通信』の「日本人はなぜ鉄砲を捨てたか?」の設問に対して異論をいただいた。史料に基づいた立派な文章で感銘した。
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だいぶ日があいた。まだ十日ほどの間かと思っていた。九の日付を見て驚いた。 来日したイギリスの考古学者でもある武道家が、福島の刀匠を訪ねた帰り、磐梯山の山間を車で走っていて、織りなす峰、紅葉、湖面に映る光を見て、「なぜ、あのような日本刀の波紋ができたのか、わかるような気がした」と語ったという。 昭和30年代、子供であった、けむりをふかしている輩は、時代劇映画をよく観た。三本立てというものがあった。子供心に「日本刀のこころ」を知った。チャンバラ映画を観ることがない、今の子供たちも、なにがしらの形で連綿と遺伝子は伝わっているようだ。 次巻十ノ巻の特集は時代小説を取り上げた。「時代小説礼讃。懐に時代小説、心に日本刀」と題して。 論客には「下天は夢か」の津本 陽さんに登場願った。 はじめに話そうとしていたことからずれた。風向きが変わって、けむりが流れたとご容赦。 |
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啓蟄(けいちつ)も過ぎた。暦どおり冬眠から目を覚ました虫たちは、もう地上に現れているだろうか。 |
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煙管のけむり 〔八〕 |
ブドウショップHPの主が、ヨーロッパ、アフリカへ旅立ったことから、煙管のけむりをふかすのも ■ |
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煙管のけむり 〔七〕 |
『煙管のけむり 七』をふかすにあたり、煙管入れ(ファイル)を開いたら六の末尾の方で「大衆時代小説的範疇でない」とふかしているのが見えた。「しまった!」と叫んだ。大衆小説である、時代小説のファンである者が時代小説を軽んじるような事を吐いている。つれづれに綴っているゆえ、まだ、どこかに潜んでいる、近代文学、純文学至上主義が顔を出したのだろうか。せめて、出来の良くない時代小説と、ことわりを入れておくべきだった。 代表的な時代小説を生み出してきた作家たちは、皆、近代文学に行き詰まりを感じ、近代主義に懐疑的になり、日本人の心性を辿っていった作家たちで、純文学作家に劣る作家たちではなかった。疑似西洋的社会の立居振舞が主流になったとき、”美しい日本”を連綿と語り継いできたのが時代小説だった。 ■ 先日、映画『雨あがる』を観た。「武道通信」HP掲示板に黒澤明が、晩年、もう野武士から百姓を守るようなサムライを演じるることが出来る顔した役者がいなくなったと語っていたと、どなたかが書いていたことを思い出しながら、この佳作を観て、映画館を出た。 格別、雨があがったような気分にはならなかった。やはり生身の人間が演じる殺陣は、時代小説のそれとは違う、酷な話だが。時代も違う、黒澤明の『用心棒』とか今村昌平の『切腹』などと比較しても、詮無いことだ。 ■ たしか映画の最後の辺りで、この剣客と妻女の二人を殿様が、剣術指南役に召し抱えるため、馬で追いかけるシーンがあるが、原作にはなかった思う。ここが小説と映画の違いだろう。観客に媚びる。黒澤が監督したら、このシーンは入れただろうか。 『梟の城』も幻滅すること請け合いであるからして、ハナから観る気はなかった。『御法度』も、あれは時代劇映画ではなく、大島渚節であろうから観ない。藤沢周平の『蝉しぐれ』などは、絶対に映画にしないでもらいたいものだ。 ■ 海外の地で、自分の立居振舞いの貧弱さを感じた。それが伝統文化の身体作法と無縁だったことに気づき、帰国して、すぐ剣道と居合を習った。居合いは、ここ多摩の百姓剣法と陰口をたたかれた天然理心流だった。もう一つ、その名を名乗る派があるそうだが、ここ三鷹の道場が本家とか聞いた。まあ、どちらでも良いが。 幕末期の江戸の北辰一刀流や神道無念流とかに比べ、たしかに三流の無名に近い流派だったろが、京都での実戦では薩摩の示現流と並び名をはせた。 校了明けで、久しぶりに劇場映画でも観るかと、特別この映画にこだわった訳ではない。主演の寺尾某が、この役のため七ケ月居合いを習ったと聞いていたので、その成果を見たかったこともあった。ここ数年、稽古もさぼり、思い出した程度に一人稽古をする身にとって、人様のことは云えたものではない、から感想は省く。 ■ 居合いの稽古で、月一度の巻藁斬りが待ちどうしかった。実際、人を斬るというのは、その瞬間、相手の顔が目に前に迫ってくることがわかった。先ずは度胸である。幕末で天然理心流が強かったのも頷ける。百姓上がりで失うものがなく、ただサムライに憧れた近藤勇、土方歳三たちだからであろう。 習い始めた頃、剣道をやるなら居合は止めた方がよい、と云われたが正解である。二尺三寸ほどの日本刀での引き斬りと三尺九寸の竹刀の押し斬りを一緒にする方がおかしい。が、剣道をやる目的が、一本を取ることでなかったから、その忠告は無視した。 ■ さきほどの、もうサムライをやる顔が、いまの役者にはいないというのは、名監督の台詞だとは、言い切れないものがある。映画館で、いまサムライの顔をもった役者は誰だろうと、考えたとき、松井章圭館長がよぎった。 松井章圭館長とはじめてお会いしたのは、もう十五年前ほどになろうか。『格闘技通信』が創刊され、そう巻数を重ねない頃だったと思う。誌上で長田渚さんと対談してもらった時だ。 「忘れ去られた、よき時代からきた若者」と云ったらよいか、博物館の中で、生きた塑像に出会った驚きがあった。礼儀正しいとかの次元でなく、あの当時、もう見失っていた、一途なものが身体から発せられている美しさあった。 今巻の「前田日明が武道通信から連想する、この一枚」で紹介されている、江田島の海軍兵学校の写真集の若者たちの顔が実際、どのような顔であったか、戦後派の者には、もう自分の目で見ることはできないが、十数年前の若者、松井章圭の顔を見たことから想像できる気がした。 この写真集のカメラマン、故・真継不二夫氏の娘さんに「床几」で聖地・江田島と題して書いていただいている。原稿というものを初めて書いた、と云われるが、剣道で云えば、欲のない、勝とうするのでなく、自然体の見事な一本である。 如月之七日 |
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煙管のけむり 〔六〕 |
前回は〈五〉のはずだが、〈四〉としてしまった。前口上でお断りしたが、”つれづれ”の勢いで綴っているので、ご容赦を。キーボード打ちミスもご容赦。正しい日本語が使われていないのもご容赦。 ■ 宮本武蔵の孤高が一瞬、見えた気がした。「見えた!」と叫んでみたが、叫んだ瞬時に霧散した。 どう、見えたか云えと云われると困る。筆力の無さもあるが、見えたものが、孤高の悲しみなのか、孤高であり続けた意志なのか、孤高でしかありえなかった武蔵の存在なのか、見えたという、そのへんがよく、見えない。宮本武蔵をやろうと決めてから二ヶ月の間、「宮本武蔵」が念頭から離れない。 この四文字を日々、目にし、書いてきたせいか、何かが憑いたかもしれない。 ■ 「五輪書」が書かれてから70年ほど経って「葉隠」が書かれた。戦国時代の末期から徳川時代の平時になった、この間の武士の心持ちの移りかわりをじっくり考えると面白い。だが、宮本武蔵はそんな通常の精神史には収まらない部分を持った異端なのであろう。それゆえに魅力があり、日本人の永遠のヒーローである。 武蔵はすでに明治期の立川文庫で人気者だったようだ。吉川英治だけが宮本武蔵の発見者ではない。また、「五輪書」を「葉隠」を”発見”したのは新渡戸稲造、内村鑑三ら明治キリスト者だったという。欧米の倫理観(キリスト教)に対抗するものを日本から探し求めたとき、そこに武士道があったと、九ノ巻 編集長対談論客・松岡正剛さんが語っている。 ■ 日本人は懸待一如、剣禅一如も好きだが、そんなのクソ食らえ、という宮本武蔵も好きだ。 吉川英治が書いた「宮本武蔵」の影響もあるだろうが、決して、それだけでない。いや、吉川版・宮本武蔵は表層的なもので、この理由は、日本の政治史、精神史の奥深くにあるのではないか――そう睨んでいるのは軍学者(軍事評論家でも兵法学者ではない)の兵頭二十八(ひょうどう にそはち)さんだ。宮本武蔵特集で執 筆していただいている。ここを掘り下げていくと、「もののふ」「武士道」の源が見えてくる。四ノ巻の客・西尾幹二さんが、「鎌倉時代に、日本人はやっと精神的に安定したんですよ。一つの精神の秩序が形成された」と符合する。 ■ この説を下敷きにし、極真会館・松井章圭館長の「宮本武蔵と大山倍達」、また、このホームページの主(あるじ)である、日本武道具の角田(かくた)芳樹さんの「大山倍達 知られざる文の世界」を読むと、大山倍達と宮本武蔵が同じ濃さの輪郭で、時、同じ人といった感じがしてきた。 松井館長の云う、流儀にこだわらず、の共通の姿勢。大山倍達の書、画、詩に見るように、文武両道を目指した共通性が、単に吉川英治版・宮本武蔵を敬愛し、傾倒していただけでなく、武蔵と同時間を生きていたんではないか、と思うようになった。武蔵を同じ時代の隣町にいる良きライバルのように。 ■ 歴史上の人物を真に理解するには、タイムカプセルにでも乗って、同時代を生き、同時代の空気を呼吸し、同時代の言葉を交わすでもしなかったら無理だが、大山倍達は、人間の力の可能な限りで、それを達成したのではないか。大袈裟な云い様だが、ふと、そんな気がした。 大山倍達=宮本武蔵という、武蔵好きを誇張するような大衆時代小説的範疇でない、もっと深淵なものがあったのではないか。 大山倍達は、宮本武蔵の生身を「見えた!」と叫んだはずだ。 睦月之二十八日 |
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煙管のけむり 〔五〕 |
寝起き、いや起き抜けと云うべきか、正しい日本語もろくに使えないのに、英語(要はアメリカ語)を第二公用語にしようと云われても、この歳になり、遅くればせながら正しい日本語を覚えようとしている人間にとって、大きなお世話である。 |
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煙管のけむり 〔四〕 |
正月も六日が過ぎた。年賀状もちらほらEメールでいただくご時勢となった。まだ文面だけだが、写真を取り込んだ、現在の印刷された年賀状と同じものが送られてくる日もそう遠くないだろう。 一週間以上も前に書くこともないし、初日の出を拝んだ感想やデジタルカメラで撮った初日の写真をも送れ、受け取った方も臨場感が湧く。また、年賀状ので同時挨拶も交わせる。 しかし……である。あのはがきの寸法の中に新年の祝いを収めるという、そんな形は崩れるだろう。慣用句より字数が多いからといって、写真があるからといって送った人の心がより多く伝わるかと言えば、そうでもあるまい。 毎日、キーボードの前で、春をharu、武士をbushiという日本語を書いているのだから、一年に一度ぐらい下手でもいいから毛筆で、硯で墨を摺って、あのはがきの寸法の中に、農耕民族の祖先から伝わっている春の訪れを告げる喜びみたいなものを書き綴った方が良いと言うのが正論かも知れない。それに習い始めた俳句や和歌を添えれば上出来である。 ■ 20年近く前、幼稚園の運動会での父兄の感想文というものを書かされたとき、次世紀には、今では考えられないカメラで親たちが子達を写しているだろうと書いた覚えがある。 優れた機能性の新製品に飛びつくのは当たり前のことで、十何年前のわが家のビデオも昨年末、ついに「不燃物」となった。 しかし……である。武器ほど機能性が求められるものはないはずである。武器の機能性は死か生の大きな差となる。部族、民族の滅亡となる。 日本の武士はなぜ、機能性より禅問答の材料になるような”美しい”だけの和弓を捨てようとしなかったのか? ■ 紀元前中国で作られた強力な弩(ど・いしゆみ)は大和朝廷時代に伝わり一時使っていたことが記録されているという。また二度の元冦の役のとき、射程200mを誇る元軍の短弓で多くの鎌倉武士たちが射られた。しかし、役後大量に残されたこの理想的遠戦兵器を模倣することはなった。出来、使いこなせる技量は十分にあったのに。 これは次巻九ノ巻で、齊藤 浩さんが「和弓から武士の世界を見る」で書かれていることの一部だが、和弓がなぜあの形なのかは、未だ誰もが納得する答えを出していない。馬上から射つから下が短く上が長いのだとよく聞くが、握りの位置が下から三分の一あたりといっても二メートル二、三十ある長弓なのだ、鞍の上でも登らない限り正面、左右を狙えない。左手で握るから左側しか射ることができない。流鏑馬(やぶさめ)を見れば一目である。騎馬民族最強のモンゴルの兵士たちは馬上で和弓の方が機能性が高かったら短弓を捨てていたろう。斎藤さんが、ここでその謎に挑んだ。その訳は古く縄文時代にあったと。 ■ 弓の弦はひと昔前は麻弦であったそうだが、切れやすく高価なことから今では、ほとんど合成の弦である。私も一度、意地になって麻弦を使ったがいつの間にか合成に戻っていた。高価ということより確かに切れやすい。それに、たかが弦一本の話だが、大げさに言えば何かと手間がかかる。手間がかかることが現代人の一番不得意とすることで、便利が一番好きである、もう心と体のリズムが”便利さ”に淘汰されたのだろう。 刀の手入れも、戦前はよく使われいた重い(濃い、要は良質の)油は、時間がかかると敬遠されて、今では安くて軽い油が好まれているとか。日本刀よ、お前もかと言うところだ。これは次巻の「刀剣講話」での刀の手入れの折、高山武士さんが語ってくれたことだ。 ■ 弦音(つるね)という音を耳を澄ませて一度聞いたことがある。矢が放たれた瞬間の弦がかえるとき出る音である。得も言えぬ音である。これは麻弦でなければ出ない。合成の弦のはただの”音”である。この弦音を楽しむ風情も和弓の要素である。殺傷の武器に風情を求める武人など他国にはいなことは確かだ。 鉄砲が日本に渡り、久しくなかったろう日本の武器革命が起こった。このポルトガルから伝わった火縄銃を当時の世界最良の銃に改良し、大量生産することが出来たのに、日本の武士は”ある日突然”銃を捨ててしまった。外国の日本研究家の多くが「なぜだ?」と調べるのだが、誰もわからないと。彼らからみれば、邪馬台国がどこかより、日本史最大の謎だそうだ。 これも次巻の編集長対談で論客の松岡正剛が語っていた。私の解釈だと、鉄砲の出現で無用の長物となった和弓への義理立てである。弓は東海一の弓取りと言うように長い間、日本の武士のシンボルだったからであると。もちろん冗談である。 次巻の紹介ばかりしているようで気が引ける。で、日本刀の話に移る。 と、ここで邪魔が入った。ゆえに日本刀の話は次回に継ぐ。 平成十二年睦月六日 |
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